【「難波津の歌」が刻まれた文字瓦など約100点展示】
奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで春季企画展「中宮寺跡―聖徳太子建立の尼寺」(24日まで)が開かれている。約50年前の1963年から14次にわたる発掘調査の成果を一堂に披露するもので、総展示数は参考出品の周辺寺院の出土瓦も含め約100点。その中には和歌「難波津の歌」の一部が刻まれた〝文字瓦〟なども含まれている。
中宮寺は法隆寺の東側、夢殿の北東にあるが、創建時は東へ約400mの所にあった。室町末期までに現在地に移ったとみられている。中宮寺の「中宮」については聖徳太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后を指すという説のほか、斑鳩宮(法隆寺東院)、岡本宮(法起寺)、葦墻宮(あしがきのみや、成福寺)の真ん中に位置することを示すものという説もある。
創建時の中宮寺跡の中央には金堂と塔の基壇が土壇状の高まりとなって残っている。金堂は東西5間(13.5m)、南北4間(10.8m)の四面庇(しめんびさし)建物。これは再建時だが、創建当時もほぼ同規模だったようだ。塔の規模は不明だが、基壇は推定一辺14m程度で、塔を支える心柱は直径が80cm程度だったとみられる。心礎の西側からは心柱を立ち上げるための櫓(やぐら)の柱穴とみられる遺構が見つかった。金堂と塔の創建時期は出土した瓦の年代から7世紀前半の620年ごろとみられる。
企画展では中宮寺跡からの出土瓦を、飛鳥から室町まで時代を追って並べ、比較するために飛鳥寺(明日香村)や奥山廃寺(同)、平隆寺(三郷町)などの出土瓦も併せて展示している。7世紀前半から中ごろにかけ斑鳩の各寺院は独自の文様の軒丸瓦を用いたが、後半になると法隆寺式に統一された。ただ中宮寺の軒丸瓦は花弁と外側の鋸歯文との間に小さな点を連ねた文様帯(珠文帯)が巡らされていた。同センターは「中宮寺としてのこだわりがそこに込められたのではないか」とみている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「難波津の歌」は7世紀中ごろ~後半のものとみられる平瓦の側面に万葉仮名でヘラ書きされていた。「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花」(伝・王仁作)のうち、前半の下線部の「津に咲くやこ」の部分が「ツ尓佐久移(?)己」と刻まれていた(写真左端)。この歌は平安時代に紀貫之が書いた「古今和歌集」の仮名序に登場するもので、和歌を習う人が最初に学ぶ歌として紹介されている。
解読したのは奈良大学文学部の東野治之教授。斑鳩町中央公民館で8日開かれた歴史講演会で、東野教授は「飛鳥時代の文字は6世紀以前の中国の書き方が朝鮮半島を経由して入ってきたため、(この文字瓦の「佐」のように)偏と旁のバランスが悪いなどくせがあって分かりづらいものが多い」と話した。「移」とみられる文字については中宮寺に伝わる国宝「天寿国繍帳」の銘文などを例に挙げ、飛鳥時代には「や」と読ませていたと指摘した。
「難波津の歌」を記したものは木簡にも多く見られ、飛鳥時代の石神遺跡(明日香村、写真左から2番目)や観音寺遺跡(徳島市、その右隣)、宮町遺跡(甲賀市)、平城宮跡(奈良市)などから出土している。瓦に書かれたものは山田寺跡(桜井市)からも見つかっている。東野教授は「当時の瓦職人は先進技術を身に付けた知識人だった」と話す。さらに法隆寺五重塔の初層天井からもこの歌の一部の落書き(写真右端)が見つかっている。
東野教授が平城宮から出土した土師器にこの和歌が墨書されていることを発見したのは今から約30年前。当時は木簡も含め、この歌が書かれたものは5点だったが、その後発見が相次いで、中宮寺跡の瓦で36点目という。「最初、この歌は万葉仮名を習得するためのお手本だったが、やがて和歌のお手本として広がっていったのだろう。この歌に関する遺物はこれからも各地で見つかっていくに違いない」。東野教授はこう話していた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます