がんの予防や治療における漢方治療の存在意義を考察しています。がん治療に役立つ情報も紹介しています。
「漢方がん治療」を考える
59) 中国医学の成り立ち:「虚」を補う思想が漢方を発達させた。
図:『神農本草経』は中国医学の三大古典の一つで、365種類の動・植・鉱物薬の薬効を記載している薬物学書。神農は伝説上の皇帝で、多くの薬草を自ら服用してその効能と毒性を確かめ、そのため1日に70回も中毒したという。これは古代中国からの数限りない中国人の経験の集積を、一人物の業績になぞらえて神話化したものである。
59) 中国医学の成り立ち:「虚」を補う思想が漢方を発達させた。
【病気の苦しみから逃れるために薬を求めた】
世の中の多くの人が、健康で長生きしたいと願っています。人類が医学を発達させてきた原動力の一つは、老化や死に対する恐怖から逃れるためといっても過言ではありません。中国医学や漢方医学の成り立ちも、人類が老化や死に対する不安や恐怖を持ったことから初まっています。
生物が種を維持するために必要な生物の本能として、性欲と食欲があります。性欲は子孫を残すために必要で、食欲は個体の生命力を維持するために必要なものです。体の構成成分を正常に保ち、体を動かすためのエネルギーを生成して生命を維持するためには、食物を摂取して栄養物質を補給しなければなりません。そのために、エネルギー産生が不足すると空腹を感じて食欲が出るような体の仕組みが本能として備わっているのです。
この性欲と食欲、つまり生殖と栄養摂取が生命を維持し種を保存していく上での基本となりますが、さらに体に備わった自然治癒力の存在も忘れてはいけません。全ての生命体には自分の病気や体の異常を自分で治す力が備わっています。怪我をしても傷は自然と治っていき、ウイルスや細菌が感染しても体の免疫力はこれらの病原菌を排除してくれます。この自然治癒力があるからこそ、医学がなかった太古の時代から生物は連綿と種を維持することができたのです。
多くの生物は、体に備わった自然治癒力と食欲や性欲といった本能によって種を絶やすことなく生存してきました。しかし、ものを考える能力を持ち、道具を作ったり利用することができるようになった人類は、体の不調や病気を治すための方法を考え出すようになりました。これが医療や医学の発達の初まりといえます。
チンパンジーには道具を利用する能力があります。そして、病気になるとある種の植物をあたかも薬草を食べるかのように摂取している姿も目撃されています。体の不調を薬草のようなものを使って治す発想は、道具を使って自分の能力を高める手段とするのと同じようなものです。身の周りにある天然のものの中に、体の治癒力を高めたり、症状を和らげたりするものが見つかると、それを子孫に伝え、さらに良いものを作りだそうとするのは、脳が発達して思考力や想像力をもった人類では当然の結果でした。
つまり、薬を使って病気を早く治そうという考えは、病気の苦しみから逃れたいという本能の一つであり、脳の発展した霊長類から可能になったと言えます。しかし文字を持っていないサルやチンパンジーには、その知識を残したり発展させることは限界があります。ところが、文字を発明した段階で、人類はその知識を書き残し、より効果のある薬を発達させることが可能になりました。古代エジプトの象形文字の文書や、古代中国の甲骨文字の文書の中に、すでに薬草の効能や薬の処方の記録が残っているそうです。
【死に対する恐怖が医学を発達させる】
人間が他の動物と根本的に異なるのは、思考力や想像力を持っていることです。思考力や想像力というのは脳の前頭葉という部分の働きによります。人間はこの前頭葉が発達したために、言葉を使って意思を伝え、文字によって情報を蓄積することが可能となってきました。
ヒトの脳は病気の苦しみから逃れる方法も考え出すようになりました。しかし、体の老化や死を避けることは非常に難しい問題でした。死に対する恐怖をもった脳は、信仰心や宗教に救いを求めてきましたが、さらに科学や医学を発展させることによって、病気や死の恐怖から逃れる手段を手に入れようと努力しています。近代医学は老化や組織再生の仕組みを明らかにして、体の一部を人工的に交換する方法も考え出しています。近年の遺伝子治療や臓器移植や再生医学の発展は、脳が生き延びるために体をできる限り長持ちさせようとする「脳のたくらみ」が根本にあります。
このように体の部分を交換して長生きさせるような近代医学が発展する以前には、不老長寿のために人類が最初に行ったのは、いろんな食物や薬草などを利用することだったようです。
人類が不老不死の望みを抱いた一つの現れとして、古代中国では神仙思想という民間信仰が発達しました。東洋の歴史の中には、「仙人」と呼ばれるような人たちが現れます。山奥に住み、白髪白髯で冠をかぶり、霞を食べて生きている不老不死の超越者、といったイメージで表現されています。神仙思想は、仙人のように不老不死になりたいという現世利益の実現を追求する点が一般の多くの民衆にも受け入れられ、二千年以上前の戦国時代末期から秦・漢代にかけて神仙の術を使う方士によって広められました。
多くの皇帝が不老不死の薬(仙薬)を得ようとしました。紀元前217年に中国を始めて統一した秦の始皇帝も、不老不死の夢を追求め仙薬探しに奔走した一人です。仙術士の徐福が始皇帝の命を受け、童男・童女数千人をつれて不老不死の仙薬を求めて航海に出たという話しが『史記』や『漢書』に記載されています。結局、始皇帝はその望みを達成できず、50歳で死亡しています。その後の中国歴代の皇帝も不老長寿の夢をすてきれなかったようで、不老長寿の薬を色々作らせて服用したようです。
このような時代に、現在の漢方の考え方の基本が芽生え、中国医学の古典が記されています。紀元前2世紀ころに作られたという「黄帝内経」は、伝説上の帝王である黄帝と岐伯という名医との問答の形で、中国医学の根底をながれる哲学や思想がまとめられています。この本は、「昔の人は百歳を超えても衰えはしないと聞いたが、なぜ今どきの人は五十歳ぐらいで皆衰えてしまうのだろうか」といった黄帝の疑問を述べた書き出しで始まり、人間と宇宙や自然との関わりを重視する思想を基盤にして病気の成り立ちや対処法について述べられています。
「傷寒論」は後漢の末期(紀元200年頃)に、張仲景という人が、それまでに伝わっていた薬物療法の経験を集めて体系化したものです。その序文には、二百人以上いた自分の一族の多くが伝染病で亡くなったことを嘆き、疫病を治療する手段をまとめたと述べられています。風邪の治療に今でも広く使われる葛根湯(かっこんとう)もこの本に記載されています。このようにして、老化や死に対する恐怖から、病気を治療する医学が発達してきたのです。
【「虚」を補う思想が漢方薬を発達させた】
中国医学では病気とはいえないが健康とも言えない状態を「未病」ととらえ、未病の段階で体の不調を治していくのが最も良い治療法であると考えています。陰陽・虚実・寒熱といった相対的指標によって、正常からの隔たりで体の異常の状態をより早い時期に見つけて、その異常を正常な方向に戻すような治療を行えば未病を治すことが可能となります。
さて、「老化」というのは、生理的に「虚」に傾く過程といえます。歳をとってくると体力も抵抗力も低下してきます。これは体の諸々の機能が徐々に低下していくからです。したがって、老化を防いだり遅らせるためには、まず「虚」という体力や機能の低下を補う治療が基本になることが理解できます。
漢の時代(紀元2世紀ころ)に成立した薬物書として「神農本草経」があります。『神農』は牛頭人身の伝説の人物で、自ら草木を服用して毒や効果を確かめて薬の知識を人々に教えたと伝えられています(図)。この書物では生薬を毒性に基づいて上薬、中薬、下薬と3つに大別しています。上薬というのは、無毒で命を養うような生薬であり、長期服用できて体の治癒力や抵抗力を高めるようなもので不老長寿に役立ちます。薬用人参などが代表です。中薬は、少毒で病気を治す効果もある程度期待できる生薬で、間違った使用をしたり長期に多くを服用すれば副作用も出ますが、少量または短期間なら毒性がなく薬効を期待できるものです。一方、下薬というのは、病気を治す力は強いが、しばしば副作用を伴う生薬です。
西洋医学では作用の強力な薬が「良い薬」とされていますが、漢方ではこのような強い薬は「格が低い薬(下薬)」と位置付けられています。漢方では西洋薬のような特効的な効果はなくても、副作用がなく病める体に好ましく作用する薬、長期の服用が可能で徐々に治癒力や体力を回復させる薬を、最も格が高い「上薬」としている点に特徴があります。薬用人参のような「命を養う」という養命薬の記載には「久しく服すれば、目を明らかにし気を増し、身を軽くし、年を延ばす」などといった決まり文句が繰り返されており、不老長寿を願う神仙思想の影響が強く現われていると想像できます。
上薬と言われる漢方薬は健康食品の原点のようなものです。作用が弱くて効果が現れるまでに時間がかかり、短期間の動物実験などでは薬効がはっきり確かめられないものも少なくありません。西洋医学の見方では薬として認められないようなもので、「漢方薬は効かない」といわれる理由の一つにもなっているのです。しかし、長期的に見ると難病や慢性疾患において症状の改善や延命効果など、確実な効果が経験されます。このように「作用が弱くて穏やかに効く滋養強壮薬」の良さを追求してきた所に漢方医学の特徴があるといえます。
体の抵抗力や治癒力を高めるような薬を漢方治療では重視していますが、西洋医学ではこのような滋養強壮薬のような薬はありません。その理由は、西洋医学では病気の原因や有り余ったものを取り除く治療が中心であって、「虚」を補うという概念が発達しなかったからです。
がん細胞を攻撃することが主体の西洋医学のがん治療は、正常細胞にダメージを与えて、体全体を虚の状態にする欠点があります。西洋医学の標準治療を漢方治療が補うことができるのは、「虚」を補う方法が漢方治療にはあるからです。
(文責:福田一典)
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