世界で最も長生きした長寿記録保持者だと思うのですが、武内宿禰の事について書かれている古事記・日本書紀を少々覗いてみます。
まず、武内宿禰の名が見える最初は「日本書紀の景行天皇」の時にです。
“二十五年春二月十二日、武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民のあり様を視察させ
られた。”
とあります。その結果、これが元になって日本武尊の蝦夷征伐が行われたのです。
此処で又例によって、「ええかげんにせえやー」と言われること覚悟で例の脱線にです。
というのは、この遠征に日本武尊の副將として遣わされた人が吉備の国の人ですので御紹介しようと、敢て、書いております。その人の名前は、古事記には「御鉏友耳建日子<ミスキトモミミタケヒコ>」と書かれております。この人は孝霊天皇の時に
“言向和吉備国<キビノクニヲ コトムケ ワス>”
するために派遣された吉備津彦命と共に吉備の国にやってきた弟君の「若建吉備津日子命」のお子様なのです。なお、日本武尊の母親はこの「若建吉備津日子命」のお子様で
“針間之伊那毘能大郎女<ハリマノ イナメノ オオイラツメ>”
です。ということは、この遠征に参加した大将と副将は従兄弟関係にあり、当時、大和と吉備がとても深い絆で結ばれていたと言う事が分かります。
しかし、この「御鉏友耳建日子」の名前は、どうしてかは分からないのですが、「古事記」にだけで、日本書紀にはありません。それも、「吉備武彦」という別の名で書かれております。
なお、現在、吉備津神社では、日本書紀にある「吉備武彦命」は「新宮」として特別に神殿を作りお祭しておりますが(明治以降は本宮に合祀)、古事記にある「御鉏友耳建日子」は、祭神として、どうしてかは分からないのですが、その名前すら見ることができません。「タケヒコ」という名だけが同じになっておりますが。