古事記には「景行天皇」の皇后について
”天皇が吉備の臣の祖先である若建吉備津日子の娘、名は針間伊那毘能大郎女<ハリマノイナビオオイラツメ>
を妻として、生ませた子・・・・”
とあります。吉備の国から皇后がと誇らしげになり、そのまま読み続けて行くと何も問題はないのですが、此処で少々引っかかることが生まれてくるのです。ということはですが・・・・・・。ここに見える
“若建吉備津日子”
ですが。この人について、古事記には、孝霊天皇の時に吉備の国に言向むき和はす為に派遣した吉備津彦の弟です。その人の娘が景行天皇の妻になっているのです。その何処がおかしいのかと思われるかもしれませんが、
⑦孝霊天皇-⑧孝元天皇-⑨開化天皇―⑩崇神天皇-⑪垂仁天皇
と続いて、やっと「⑫景行天皇」の名前がでてきます。私の持っている「日本王代一覧」 によると孝元から垂仁までの在位期間だけを足しても「57+60+68+99=284」にもなります。、すると、このイナビノオオイラツメが景行天皇に輿入れした時の年齢はというと、とっくに300歳を越している計算になります、そして、更に驚くなかれです大碓命や小碓命などの5人の皇子皇女をお生みになっているのですよ。そんなことってあるのでしょうか。
宣長は「深く疑うことなかれ」と言っていますが疑わずにはいられませんが