日本書紀に書かれている最初の言葉は
“古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子”
です。この文は何処から舎人親王が引用したのかという疑念が浮かび上がります。「古事記」と違い「日本書紀」は、内外にある沢山あるそれまでの記録に基ずいて編集していることには違いありません。その参考資料として、日本国内だけでなく中国の書物などを参照して作られたのではないかと思われるのです。
では、中国では、当時どのように天地の創造を記録していたかちょっと此処に書いてある
“渾沌”
と言う字を頼りに捜してみました。すると『荘子』の中に
“中央之帝為渾沌”
また、『淮南子』に
“洞同天地。渾沌為樸”
とあります。これから日本書紀の舎人親王が日本に於ける「天地」を古事記とは違って詳しく創造させたのではないかと思いました。書紀が作られたのは720年頃のことです。漢字が日本に伝わったのは6世紀の頃ですからもう既に中国の歴史などは当然に入っています。ですから、天地創造のこの辺りは、既に、日本人の一部の人達には理解されていたのだと思われます。それが古事記との違いになったのではと思います。
“古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子”
です。この文は何処から舎人親王が引用したのかという疑念が浮かび上がります。「古事記」と違い「日本書紀」は、内外にある沢山あるそれまでの記録に基ずいて編集していることには違いありません。その参考資料として、日本国内だけでなく中国の書物などを参照して作られたのではないかと思われるのです。
では、中国では、当時どのように天地の創造を記録していたかちょっと此処に書いてある
“渾沌”
と言う字を頼りに捜してみました。すると『荘子』の中に
“中央之帝為渾沌”
また、『淮南子』に
“洞同天地。渾沌為樸”
とあります。これから日本書紀の舎人親王が日本に於ける「天地」を古事記とは違って詳しく創造させたのではないかと思いました。書紀が作られたのは720年頃のことです。漢字が日本に伝わったのは6世紀の頃ですからもう既に中国の歴史などは当然に入っています。ですから、天地創造のこの辺りは、既に、日本人の一部の人達には理解されていたのだと思われます。それが古事記との違いになったのではと思います。