“雉之頓使<キギスノヒタツカヒ>”
が忌み嫌われて、「天若日子」の事件以後、誰かを何処かへ派遣する場合は、必ず、「副將」を副えて行うようになったのですが、その例を吉備の国の故事より。
『考霊天皇はその皇子「大吉備津彦命」と「若建吉備津日子命」の二柱を
“相副而<アイソハシテ>”
吉備の国を“言向和<コトムケヤハス>”ために派遣します。』
と、古事記には記されておりますが、これが何時行われたのかは何も書かれてはいません。それが、日本書紀には、はっきりと、
「大彦命を北陸に、武淳川別を東海に吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。」
と書かれてありまから、古事記には記されてはいないのですが、大吉備津彦命が吉備国を平定した時は「崇神天皇」の時代だと言う事が分かります。此の時、吉備津彦命は一人で遠征したのではなく、此の記事から、もきちんと「副将」として、弟君の日子若建吉備津彦命を従えて、一緒に吉備国にやってきたことが分かります。昨日の「雉之頓使」ではなかったのです。
が忌み嫌われて、「天若日子」の事件以後、誰かを何処かへ派遣する場合は、必ず、「副將」を副えて行うようになったのですが、その例を吉備の国の故事より。
『考霊天皇はその皇子「大吉備津彦命」と「若建吉備津日子命」の二柱を
“相副而<アイソハシテ>”
吉備の国を“言向和<コトムケヤハス>”ために派遣します。』
と、古事記には記されておりますが、これが何時行われたのかは何も書かれてはいません。それが、日本書紀には、はっきりと、
「大彦命を北陸に、武淳川別を東海に吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。」
と書かれてありまから、古事記には記されてはいないのですが、大吉備津彦命が吉備国を平定した時は「崇神天皇」の時代だと言う事が分かります。此の時、吉備津彦命は一人で遠征したのではなく、此の記事から、もきちんと「副将」として、弟君の日子若建吉備津彦命を従えて、一緒に吉備国にやってきたことが分かります。昨日の「雉之頓使」ではなかったのです。