私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

土田でのオウジンは・・・

2020-04-20 09:49:57 | 日記
 吉備に到着された応神天皇は
          “葦守宮”
 に入られます。この「葦守宮」ですが現在、岡山市北区足守にある「足守神社」だといわれていますが、当時、今の岡山平野の大部分は「吉備の穴海」と呼ばれていた海でした、高梁(足守)・旭・吉井川が流れ込んでいた遠浅の海だったのです、その河口付近はいずれにも葦原の大草原が続いていました。特に高梁川や吉井川の河口付近の葦の生えているところは、あたかも大きな森の様相をていてたので、通称、「葦の原」「葦の森」などと呼ばれてた大草原だったのです。その荒れ地の開拓に入植してきたのが例の中国や朝鮮の人たちだったのです。彼らは倭国の人たちがまだ知らない青銅器などの工作機械を使って大規模な土地の造成を行い、豊かな国造りを行ったのだと考えられています。それらの土地が北九州・吉備・摂津・大和・丹波・出雲など日本各地に見ることができたのです。
 まだ、日本に統一的な国家形成はなく、それぞれの所でそれぞれの大王(酋長)による勝手にというか自然発生的に生まれた支配体制だった時代の出来事だったのです。

 そのような各地の大王によって支配されていた小国家連立状態だった国が、次第に、天皇を中心とした中央集権的な国家「倭国」誕生の過程を指し示す出来事が、この兄媛の物語で語られているのです。そう考えると、このジンムの吉備国遠征は、もっと深く日本歴史の中で語られなくてはならないのではないでしょうか???
 なお、この物語もどうしてかわわかりませんが「古事記」には書かれてはいません?????

「葉田葦守宮は高松城の近くにあったのでは???

2020-04-19 11:46:43 | 日記
いよいよ吉備に到着くします。そこが

             “葉田葦守宮”

 です、<ハダノアシモリノミヤ>です。
 「葉田」とは、<ハダ>、即ち、「秦」です。中国の秦が滅びて(BC206年)から多くの難民が我が国にやってきますが、それらの人々を多く受け入れた場所の一つに吉備の国があります。吉備にはそれを象徴する<ハタ>と呼ばれる場所が沢山あります。
 総社市秦を始め、岡山市幡多もそうです。その他に<ハタ>から派生したと考えられる「半田」「土田」「大多羅」など沢山の地名が残っており、それぞれの場所には弥生の高度な青銅器などの文明を持つ人々が暮らしただろう遺跡が沢山見られます。
 
   

 などです。これは岡山市高松地区にある高塚遺跡から出土したものです。この高塚遺跡の付近に「高松下土田<ツチダ>」という地名がありますが、応神の時代にはこの辺りが足守川の河口で、この近くに「吉備津」があり、日本書紀に書かれている「葉田葦守宮」というのはどうもこの付近ではないでしょうか。尚、「葦守」は、現在の「岡山市足守」だという人もいますが、地形的に見て、どうも、まだ、その遺跡は発見されてはいないのですが、私はそのように推定しております。

応神は淡路島経由で吉備に・・・

2020-04-18 10:06:37 | 日記
 曾祖母の故郷「吉備」に淡路島から小豆島に立ち寄り吉備に兄媛を尋ねます。九月六日に淡路島で狩りをして、十一日には吉備に到着しております。この間わずか六日間です。

                “自淡路転以幸吉備。遊于小豆島”

 と書紀には書かれていますが、「遊」という字は「辺りを眺めながら」ぐらいの意味ではないでしょうか。潮の関係で船待ちのために立ち寄り休憩をしたぐらいの意味ではないかと私は解釈しておりますが。でも、この書き方はどうしても納得し難いよういおもわれますが???
 これをある本には、
 「天皇は淡路から回って、吉備においでになり、小豆島に遊ばれた。」
 と訳しておりますが、これでは意味が通らないのではないでしょうかね?
 まあそれはそうとして、十一日には早くも兄媛のいる吉備に着かれています。

               ”亦移居於葉田葦守宮”

 にです。
                     

        


応神と吉備

2020-04-17 10:26:18 | 日記
 変な題になりましたが、前にもこのことについて一度書いたのですが、応神天皇と吉備との関係について少々説明しておきます。
 それは「景行天皇」の時代です。この後、景行天皇ー成務天皇ー仲哀天皇—応神天皇と続きます。

 そこらあたりの関係をもう少し詳しく書いてみますと、十二代景行天皇の皇子「日本武尊」は蝦夷征伐の途中で早逝されますが、その日本武尊の御子が「仲哀天皇」で、その皇后があの「神功皇后」です。この二人の間にお生まれになるのが「応神天皇」です。なお、「成務天皇」は景行の第一皇子です。
 
 これだけ見てみると「応神天皇」と吉備との関係は何もないように思えるのですが、豈 はからんやです。古事記に登場するのが

               “針間伊那毘能大郎女<ハリマノ イナビノ オホイラツメ>”

 という女性です。よくこの女性について「針間<ハリマ>」とあるから、きっと「播磨」の女性ではないかといわれているのですが、よく読んでみると、この女性について

      「吉備の臣などの祖先である若建吉備津日子の女」

 だと記してあります。
 なお、蛇足ですが、この「若建吉備津日子」については、過去幾度となく書いたのですが、吉備津神社にお祭りされている吉備津彦命の弟君です。
 このように見てきますと、応神天皇の曾祖母が吉備出身の女性だったのです。だから、応神天王が吉備に来るのは、そんなに無関係な土地ではなく、ちょっと親戚の家というか、ひいおばあさんの生まれた所を尋ねるのだという軽い気持ちで来てもよかったとは思うのですがどうでしょうか???



心ここにあらず。ただ兄媛のみ・・・・

2020-04-15 10:34:57 | 日記
 秋九月に “淡路島に狩りしたまひき”、それからのことを、書紀には、次のように記しております。

          “天皇 更自淡路転以幸吉備 遊于小豆島”

どう読むのでしょうか??
 「淡路島よりして転<ウツ>りて吉備に幸<イデマ>して 小豆島に遊<ミカリ>したまひき」
 と教科書には書かれております。これなら淡路島から吉備に行って、それから小豆島に行ったと読めるのですが???この私の読みは間違っているのでしょうか???
 本当は、どうしたわけか分からないのですが、これでは順序が逆になっているのではと思えます。本当は淡路島から小豆島へ渡り、最後に兄媛のいる吉備へが順路ではないかと思えますが・・・

 「そげえな こんめえこたあ どうでのえんじゃあ。」 要は、応神が一日でも早く兄媛に逢いたくて、でも、そんな心を皇后や代わり周りに仕えている人たちに代わりの知られたくないと思って、このような書き方にしたのではと推測していますが??古代の男性が特定の女性を恋しいと思う心は、その男性にとっては大変卑しい恥ずべきことだったのでしょうかね???
 あの忠見の
    “恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか”
 の心か???
 まあ兎も角、応神の心は早も吉備にあったことでしょう。心にあるのは兄媛だけです。小豆島も吉備もあったものではありません。そのようなはやる心がこのような表現になったのではとも考えられるのですが、どうでしょうかね???