長嘯子がまだ「木下勝俊」と名乗っていた(龍野藩主)頃、秀吉の文禄の役(1592年)に参加して九州まで旅しますが、その時の旅行記です。ということは、まだ秀吉の一武将として活躍していたころで、後に藩主となる足守をはじめ備中との関わりはほとんどなかった時の旅行記です。それも朝鮮との戦争という非常時にですが、三か月もかけてゆっくりとした旅を楽しむように記しております。あまり詳しいことは解らないのですが、彼の叔母「北政所ねね」が甥の中で勝俊を特にかわいがったと伝えられておりますので、その影響もあってか???。
そんな彼は当時から「古今集」や「枕草子」などに古典に精通していたのでしょうか。その中で「細谷川」を、特に、取り上げて次のように記しています
”その水上にのぼりてみれば、ちひさき池のなかより、たえだえに出る清水なりけり。かのしみず、みな月のころほひもたゆることなしとなむいへり。”
と書かれております。長嘯子が訪れたのは二月の頃で大変水がすくなく、此処に書かれているように”たえだえ”にほとんど水は流れておらず、あの「音のさやけさ」を聞けなかったのでしょう。その残念なる思いが川の上流まで彼の歩を歩めさせます。水無月の頃は谷川の水も絶えることがなく流れてその美しい響きを聞くことが出来たのにとその無念なる思いを書き綴っております。この旅行記の中でも彼は、特に、この細谷川の瀬音を一番に楽しみにしていたのではなかろうかとも私は一人ですが心ひそかに慮っております。武人である彼がです。この朝鮮との戦争も、そんなことは決して口には出さなかったはずですが、心の底では無意味な戦いであると思って参戦していたんだろうと想像がつきます。だからこそ、この細谷川を訪れてその清音が己の耳に直接届かなく聞けないのを大変残がって、此の源まで立ち上って探っておるのです。そして、やっとその谷川の上の方でわずかに流れる水があるのを聞きつけます。
”その谷川のひろき篳篥といふもののなかさばかりなむありける”
とやって来た甲斐があったと喜びの声を上げたのではと思われます。
勝俊という人のその心の深といいましょうか、何事も深くその源まで立ち入って、人としての心情溢れる人物ではなかったかと、たったこれだけからの文章からもひしひしと、武人には非ざる稀有な人物のような響きが感じられますが・・・・
その言動の一つ一つが、後に家康をして「敵前逃亡者で、武人にはあらず」という汚名を着せ、大名を剥奪させた原因にもなったのではないでしょうか。また、それを吉として諾々とその汚名に甘んじた「勝俊」という人の人となりを今の政治家や役人どもに聞かせてやりたいと思うのですが???・
そんな彼は当時から「古今集」や「枕草子」などに古典に精通していたのでしょうか。その中で「細谷川」を、特に、取り上げて次のように記しています
”その水上にのぼりてみれば、ちひさき池のなかより、たえだえに出る清水なりけり。かのしみず、みな月のころほひもたゆることなしとなむいへり。”
と書かれております。長嘯子が訪れたのは二月の頃で大変水がすくなく、此処に書かれているように”たえだえ”にほとんど水は流れておらず、あの「音のさやけさ」を聞けなかったのでしょう。その残念なる思いが川の上流まで彼の歩を歩めさせます。水無月の頃は谷川の水も絶えることがなく流れてその美しい響きを聞くことが出来たのにとその無念なる思いを書き綴っております。この旅行記の中でも彼は、特に、この細谷川の瀬音を一番に楽しみにしていたのではなかろうかとも私は一人ですが心ひそかに慮っております。武人である彼がです。この朝鮮との戦争も、そんなことは決して口には出さなかったはずですが、心の底では無意味な戦いであると思って参戦していたんだろうと想像がつきます。だからこそ、この細谷川を訪れてその清音が己の耳に直接届かなく聞けないのを大変残がって、此の源まで立ち上って探っておるのです。そして、やっとその谷川の上の方でわずかに流れる水があるのを聞きつけます。
”その谷川のひろき篳篥といふもののなかさばかりなむありける”
とやって来た甲斐があったと喜びの声を上げたのではと思われます。
勝俊という人のその心の深といいましょうか、何事も深くその源まで立ち入って、人としての心情溢れる人物ではなかったかと、たったこれだけからの文章からもひしひしと、武人には非ざる稀有な人物のような響きが感じられますが・・・・
その言動の一つ一つが、後に家康をして「敵前逃亡者で、武人にはあらず」という汚名を着せ、大名を剥奪させた原因にもなったのではないでしょうか。また、それを吉として諾々とその汚名に甘んじた「勝俊」という人の人となりを今の政治家や役人どもに聞かせてやりたいと思うのですが???・