私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「九州の道の記」で、長嘯子も我が「細谷川」を尋ねております・・・

2020-07-25 07:22:56 | 日記
 長嘯子がまだ「木下勝俊」と名乗っていた(龍野藩主)頃、秀吉の文禄の役(1592年)に参加して九州まで旅しますが、その時の旅行記です。ということは、まだ秀吉の一武将として活躍していたころで、後に藩主となる足守をはじめ備中との関わりはほとんどなかった時の旅行記です。それも朝鮮との戦争という非常時にですが、三か月もかけてゆっくりとした旅を楽しむように記しております。あまり詳しいことは解らないのですが、彼の叔母「北政所ねね」が甥の中で勝俊を特にかわいがったと伝えられておりますので、その影響もあってか???。
 そんな彼は当時から「古今集」や「枕草子」などに古典に精通していたのでしょうか。その中で「細谷川」を、特に、取り上げて次のように記しています

 ”その水上にのぼりてみれば、ちひさき池のなかより、たえだえに出る清水なりけり。かのしみず、みな月のころほひもたゆることなしとなむいへり。”

 と書かれております。長嘯子が訪れたのは二月の頃で大変水がすくなく、此処に書かれているように”たえだえ”にほとんど水は流れておらず、あの「音のさやけさ」を聞けなかったのでしょう。その残念なる思いが川の上流まで彼の歩を歩めさせます。水無月の頃は谷川の水も絶えることがなく流れてその美しい響きを聞くことが出来たのにとその無念なる思いを書き綴っております。この旅行記の中でも彼は、特に、この細谷川の瀬音を一番に楽しみにしていたのではなかろうかとも私は一人ですが心ひそかに慮っております。武人である彼がです。この朝鮮との戦争も、そんなことは決して口には出さなかったはずですが、心の底では無意味な戦いであると思って参戦していたんだろうと想像がつきます。だからこそ、この細谷川を訪れてその清音が己の耳に直接届かなく聞けないのを大変残がって、此の源まで立ち上って探っておるのです。そして、やっとその谷川の上の方でわずかに流れる水があるのを聞きつけます。

   ”その谷川のひろき篳篥といふもののなかさばかりなむありける”

 とやって来た甲斐があったと喜びの声を上げたのではと思われます。
 勝俊という人のその心の深といいましょうか、何事も深くその源まで立ち入って、人としての心情溢れる人物ではなかったかと、たったこれだけからの文章からもひしひしと、武人には非ざる稀有な人物のような響きが感じられますが・・・・

 その言動の一つ一つが、後に家康をして「敵前逃亡者で、武人にはあらず」という汚名を着せ、大名を剥奪させた原因にもなったのではないでしょうか。また、それを吉として諾々とその汚名に甘んじた「勝俊」という人の人となりを今の政治家や役人どもに聞かせてやりたいと思うのですが???・

 秀吉の伏見城は・・・

2020-07-24 08:13:47 | 日記
昨日も書いたのですが、その荘厳さが目の前から忽然と消え去るだろう戦の不条理さを感じて、来し方の己の人生を悟って、
    
    "人世の無常に不覚の涙こぼれける”
 
 講釈師が「ポンポン」と手にした扇子で講釈台を力強く打ち鳴らす所です。

 木下勝俊は武士の魂である刀をその場に投げ捨てるようにその場から誰もつれずに己の姿を消したのです。勝俊のこの行為は、当時の武人には到底理解し難き行為と受け止められたのでしょうか????この伏見城は攻撃してきた西軍により炎上し落城します。
特に家康より 
「敵前逃亡だ。武士たる者にあらざる裏切りだ。」
 と、即刻、木下藩主の座を取り上げられてしまいます。
  その秀吉の伏見城の造りの荘厳さが、この「三百諸侯」には次のように書き記されています。

  ”我が住む本丸は叉外の軒端の瓦にも、黄金を敷き、内は唐木、檜の、柱鴨居、上段も下段も金襖に極彩色の花鳥を画きたり”

 その全貌は今は知りがたく、残念ですが、唯、この文章からは当時の模様がうっすらと目の奥に偲ばれるだけです。

 「軒端の瓦は黄金を敷き、内は金襖に極彩色の花鳥を画き」

 です。誰の手でどのように書かれたのがそれさえも分からず秀吉の栄華も、今は、聚楽第にそのわずかな影を残すのみとなって、長嘯子の嘆きを聞き様もありません。

「三百諸侯」の長嘯子は/…その2

2020-07-23 06:48:43 | 日記
 ・・・
 「宇治川は白く霧たちこめ、男山も淋しく独りたち、葛城、笠置、雲井にそびえて常ならば面白かる可きに、思ある身は皆是涙のよすがのみ、二三の丸の方を見れば、鳥居、松平等が死を決して戦はむとの準備(そなへ)をなす様なり。我が住む本丸は叉外の軒端の瓦にも、黄金を敷き、内は唐木、檜の、柱鴨居、上段も下段も金襖に極彩色の花鳥を画きたり、太閤の在まし昔も思い出て、この城も兵火にかかるならむと察すれば、人世の無常に不覚の涙ぞこぼれける。
 勝俊は種々に思い乱れしが、今はひたすら世の厭はしきのみ、少将の位階も、万石の封土も塵芥の如し、心に決すことありしが掌(たなごころ)を打ち慣らして、家の老の某を呼び城を去りぬ。数日の後に勝俊は政所の御殿に在りて、伏見、大津の矢叫をも聞かず、隈なき中秋の月をながめて心を澄したりと。」

 とあります。何かあの講釈師神田白山の話の中い引き込まれたような思いにさせられますよね。どうでしょうかね????

木下長嘯子とは???

2020-07-22 10:15:18 | 日記
 また自慢本ですが、私の持っている本「新井白石著;藩翰譜」に「木下藩(足守藩)」の成り立ちの由来について簡単に説明が書かれています。
    
 しかし、明治27年に出版された「三百諸侯」には、「木下長嘯子」の項を特別に設けて、従来からの定説???となっている石田軍の攻撃から自らが守る伏見城を捨てて逃げたとする「敵前逃亡説」と全く違う話を載せておりますので紹介しておきます。(勝俊が長嘯子の本名です。)
  
 慶長5年(1600年)の秋は朝夕の風も荒く吹くかと覚えたりり。若狭少将勝俊は伏見の城の本丸に空うち仰ぎて長く嘯き、
 「あゝ、天哉(てんなるかな)。豊臣家も二代を以て断絶(たゆ)るかな。やとひ秀頼が生長せしとて、其時には、はや天下の覇権は家康の手に落ちなむ。又今度の戦争(いくさ)に、石田等が勝ちしとて秀頼の為にならず、天下は誰が手にか落つるならむ。豊臣の血統(ちすじ)はらざれどかりにも秀頼とは叔姓(おじおひ)の名あり、家康を助けて戦うべきか、それも情として忍びざることなり。さりとて、奉行等が後舞(しりまひ)をして徳川と戦はむも余りに愚なり。実(げ)に捨つ可きは弓矢なり。」
 と愁然として暮れゆく方をながめたり。

 と書かれています。少々長くなりますので、後半は明日にでも・・・・・

    

                  乞う次回を!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


木下長嘯子とは・・・

2020-07-21 09:52:10 | 日記
 本名は「木下勝敏」。 秀吉の妻北政所「ねね」の甥で、第2代目「足守藩主」でもあったのですが、関ケ原の戦いで東軍として参加するのですが、三成の攻撃を受け守っていた伏見の城から逃げ出し、「敵前逃亡」の謗りを受け、役後、家康からその城地を没収され32歳て遁世し、名を「木下長嘯子<キノシタチョウチョウシ>」と号し、京の東山に叔母北政所の援助を受けて広大な山荘を造って、多くの文人たちと交流し、風流三昧に世を送ります。
 この彼とかかわった文人には
      「細川幽斎」「松永貞徳」「藤原惺窩」「林羅山」「小堀遠州」・・・
などが名を連ね、江戸の初期に、京都雅文壇の中心人物として幅広く活躍した人です。

 なお、彼に関係して大変面白いことはあります。それは、ご存じ「小早川秀秋」の兄です。

 なお、彼の歌を数種書いておきます(挙白集より)。
   
    ”むらさきも 朱(あけ)もみどりも 春の色は  あるにもあらぬ 山桜かな”     

 "身の程を 忘れてふかき 山桜 花こそ人を 世にあらせけり”
  
 また こんな歌も。(足守の風景を読んだものではなかろうかとも???)

    ”古郷の まがきは野らと 広く荒れて つむ人なしに なずな花さく”

 「故郷の家の垣根は今では荒れ果ててしまい、そこにあるナズナは、誰からも見捨てられて、只、花だけが無心に咲いていることよ」
 この歌について長嘯子は何も説明は付けてはないのですが九州旅行の時に立ち寄った足守での歌ではなかろうかと私は思っています???

 なお蛇足ですが、その後足守藩主は、一時、他の武人の城となりますが、北政所の働きかけにより???その後、長嘯子の弟「利房」が3代足守藩主なり、以後明治まで木下家として存続します。