私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「吉備津神社記」参詣その2 木下長嘯子って・・・・

2020-07-20 11:15:02 | 日記
 「吉備津神社記」に書かれている吉備津神社に参詣した人として、次に上げられているのは

             "木下長嘯子”

 です。彼の「九州道の記」にあります

   ”けふぞふる ほそ谷川の おとにのみ 聞きわたりにし きびの中山”

 の歌を残した人です。
 
   「今日も降り注ぐようにあの爽やかな音を立てて流れ下る細谷川の瀬音にだけで知れ渡っている吉備の中山であることよ」

 この「吉備の中山」や「細谷川」の歌を読んだ歌人は古来から沢山いますが、その中で、この人の歌は何かちょっと変わった響きを以て読む人の心を騒がせるのですが・・・・

 この歌を読んだ「木下長嘯子」ってどんなお人かご存じですか????????????????
 私はこのの「長嘯人」について、その歴史的人物としての名だけはちょくちょく聞いておりますが、どのような人であったかはよく知りませんので調べてみました。

またまた余残ごとです・・・今川了俊の九州探題は・・・

2020-07-18 11:06:37 | 日記
 今川了俊の「道ゆきのぶり」に

 "みちのほとりちかき鳥居のもとに、くちなし色の衣きたる神づかさも立なみつつ、たびのぬさたてまるつなるべし。”

 と書かれています。神官がどうして鳥居の傍まで出てきて、旅人に「旅の幣」を売っていたのでしょうか。不思議ですね???
 時は応安四年です。1371年のことです。この時の吉備津神社はと言いますと、先に説明しましたが、社務代松田氏らによって「吉備津神社」は悉く灰燼に帰してしまいます。その為に、神官たちは生きるためにも何らかの経済的な対策を取らざるを得なっかたのでしょう、「旅の幣」を売っていたのでしょう。神社そのものは焼けてありません。仕方なく山陽道まで出向いて仮の小屋でも立て、そこで「旅の幣」を売って細々と生計の足しにでもしていたのでしょうか??

それまでは、尊氏の一子「直冬」が南朝方の鎮西探題として九州方面を支配下に置いていたのですが、応安4年ごろになって義満によって北朝の今川了俊が
        「九州探題」
 に任命された経緯がありますが、詳しくは亀田俊和の「観応の騒乱」を・・・・・なお。この時の今川了俊は如何なる思いで吉備津神社の旅の幣を買ったのでしょうかね???何も書き残されてはいませんが、その思いには如何なるものがあったか想像すると思いを絶するものがありますよね。

 その辺り現在です。室町期といかなる変化があったのでしょうかね。松並木はあったのか?????



「吉備津神社記」の・・・今川了俊の参詣

2020-07-17 09:46:04 | 日記
 ぼつぼつ「吉備津神社記」も終わりです。この「吉備津神社記」には沢山の有名人が参詣されたと書かれております。あの「保則」も「政長」もそうですがその他に沢山の有名人が書き込まれています。

 今川了俊の「道ゆきぶり」から。
 
 「から川(岡山市一宮)とかいうところにとどまりて、つとめてきびつ宮の御まへよりすぐる、みちのほとりちかき鳥居ののもとに、くちなし色の衣きたる神づかさも立なみつつ、たびのぬさたてまるつなるべし。吉備の中山とは、備中と此備前との二つの社の中なれはなるべし。細谷川はおとにききしより、猶心ぼそげなり。うちつづきたるはがきのさまは、げにぞかうかうしきや、この御社ともに上矢一づつたてまつりぬ。」

 今川了俊という人は室町時代に活躍した人です。九州探題として赴任する時の旅行記(応永十二年)を書き綴った手記です。その途中吉備津神社に参詣した時の様子もこのように書かれています。総てが焼けた吉備津神社はその時ようやく再建して、仮遷宮を終えたばかりの頃だと思われます

安倍や麻生や佐川などの名前が・・・

2020-07-16 09:39:10 | 日記
 今朝の新聞に大々的に報じられております。
「わしには関係ないことだ」と、これらの人々は高をくくって冷ややかに眺めているのでしょうかね。それとも内心はびくびくしながら無視している姿勢をわざと見せているのでしょうかね????????
 でも、「公文書改ざん」が財務省の中で堂々と行われたのは確かなことです。普通の人ならあのように「わしには関係ないことだ」として平気でいられるものでしょうかね。そこらあたりの政治家の感覚にずれがあるのでしょうか。

 「忖度」
 
 保則の時代にもあったことは確かなことですが、この保則の吉備国での歴史を深く読んで、自らの政治にも生かすよう努力する姿が、安倍麻生を始め、彼らを取りまく自民党の政治家たちの中に芽生えてこないのでしょうか??
 

        もううんざりの連続の我が愛する日本国です。

「米百俵」ではありません。わずか200石です

2020-07-15 09:40:17 | 日記
 その簾潔さから「たぶん受け取らないのでは??」と思っていた役人たちの思いに反して保則は快く受け取ります。それには、また、保則の深い思いがあったのです。時は聖武天皇の国分寺建立から百年が過ぎて、藤原良房が関白になった頃です。国家からの援助も底をつき、国分寺の僧侶たちの生活も大変困窮していた時代です。保則の在任中も、その僧侶たちの生活が大変な困窮する時代を迎えていました。その僧侶たちへの配慮を最後の置き土産にしよと保則は考えたのです。
 保則は部下に伝えます。

  「私の周りには、最近、しきりと妖怪が出回り大いに悩まされている。これから航海する上でも大変不安です。どうか国分寺の僧侶たちに祈祷してもらいたい。それも般若心経をただ一回だけ唱えてくればいい。」

 と国分寺の僧侶たちも今までに受けた沢山の保則のご恩に報いることが出来るならと船に乗り来て経をあげます。保則はそのお礼にと国の人たちから当面の食料にと送られた白米200石をすべて祈祷代にと僧侶たちに与えます。そこら辺りのやり取りは何も書かれてはいませんが、「いりません。」「いや是非持って帰りなさい。」などの言い争いはあったと想像されます。

 このようにして国司の任を終えても、外の国司が誰もがしているような財産的なものは何も持たずに身一つで京へ帰ります。

 平安の世の稀有な人物として徳川光圀は「大日本史」ので取り上げられているのですが、「吉備津神社記」には、そこまでは詳しくは書かれてはいません。

 ちょっと長々しくなりましたが「保則」のお話は終えます。