これまで「吉備津神社記」に記載されていることについて色々と書き綴ってきたのですが、いよいよ最終章[吉備津神社に参詣した人たち]についてです。この中には「十訓抄」の長政の記事もありあすが、その他の人たちの参詣の様子を見ていきます。
まず、光圀の「大日本史」の草稿と明治45年の「訳本大日本史」の中から
その「列伝第五十七 藤原朝臣保則」より記されています。
貞観の始め(860年台)ごろです。当時。備中の国には
"亢旱飢饉して、道殣相望み、群盗公行して 邑里蕭条たり・・・”
「旱害で飢饉が発生して、道端は飢え死にした人の死骸で埋まり、群盗がはびこり、村々は荒れ果ててしまっている」状態でした。国司の「朝野貞吉」はそのよう中で「治をなすこと過酷にして」(ごく小さな過ちであっも逃さず厳しく取り締まり)常に牢獄には捕らえた者で満ち、また、路上に倒れる者が溢れていた。
このような備中国の状態の時に新しい国司として赴任してきたのが
”藤原朝臣保則”
という人です。この人の政治がこの列伝に細かく述べられています。それを少しく詳しく見ていきたいと思います。
まず、光圀の「大日本史」の草稿と明治45年の「訳本大日本史」の中から
その「列伝第五十七 藤原朝臣保則」より記されています。
貞観の始め(860年台)ごろです。当時。備中の国には
"亢旱飢饉して、道殣相望み、群盗公行して 邑里蕭条たり・・・”
「旱害で飢饉が発生して、道端は飢え死にした人の死骸で埋まり、群盗がはびこり、村々は荒れ果ててしまっている」状態でした。国司の「朝野貞吉」はそのよう中で「治をなすこと過酷にして」(ごく小さな過ちであっも逃さず厳しく取り締まり)常に牢獄には捕らえた者で満ち、また、路上に倒れる者が溢れていた。
このような備中国の状態の時に新しい国司として赴任してきたのが
”藤原朝臣保則”
という人です。この人の政治がこの列伝に細かく述べられています。それを少しく詳しく見ていきたいと思います。