私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

藤原保則と云う人の心は・・・・

2020-07-14 06:56:57 | 日記
平安の初期(860年頃)の話です。保則の廉潔さを物語るもう一つのエピソードが光圀の大日本史に書かれております。それを紹介して保則の話の最後とします。
 それは保則が備前国守の任を終えた貞観17年の、京に帰る時の送別の時です

 "京に帰らんとするや、両備の民、悲号して路を遮り、戴伯のもの、各々酒肴を捧げて、道左に拝伏す。”

 とあります。両備ですから備前備中の人達は泣きながら、中には酒肴を携えてたりして、道端人が溢れるように並び、保則を見送ります。折角、このように別れを惜しんでくれる人々の真心を感じた保則はその出立を数日伸ばします。それでも人々は相次いで別れを惜しんで保則を見送るのです。あまりにも大勢の国民が引きも切らず別れを惜しんで見送りに集まってくれます。
 でも、何時までもという訳にはいきません。竊かに小舟に乗り帰ります。その為、保則はほとんど何も持ってはいなかったのです。それを察した備前の役人たちは相談して保則が宿泊していた備前の方上津(現在の片上の港)に

            「二百石の白米」

を持参して差し出します。保則は、それを堅く固辞するだろうと予想していた役人は、大変驚くやら嬉しがるやらしたのです。

 ここまでなら誰でも出来ることですが、その後の保則は行ったことには本当に
 「この人の心はいかに」
 と、その心の簾潔さは如何なるものかと頻りに感心させられます。

“その徳を以て人に感ぜしむること、皆此の類なり”

2020-07-12 09:45:45 | 日記
 備前守になった保則は備中と備前の間にある吉備津神社に、何か国に水旱がれば、自ら参って祈ります。すると

                ”必ず感観致し、若し堺中に姦あれば、神必ず之を罰す”

 とあり、このように吉備津神社の加護もあり、この二国は豊穣になり"百姓和楽せり”です。こんな話も「大日本史」には書いてあります。

 この保則が備前の太守になったある時です。安芸の盗賊が備後の国で国家に収める絹織物の盗みだし、備前国「石梨郡」の宿に泊まります。その時、盗賊は宿の亭主に尋ねます。
 「此の国も太守はどのような政治をしておられますか。」
 すると、宿の亭主は言います。
 「此の国の太守様は民に対して仁義を用いて政治をしておられます。その為に人々は安心して豊かな生活をしており、何時も神に感謝しております。その為、若し国に盗賊など姦濫悪人がいるならば、吉備津彦神が、その者にたちどころに誅罸を与えます。」
 と。これを聞いた安芸の盗賊は、大変驚いて、終夜ため息ばかりが出て、眠られず、暁になると居ても立ってもおられず、とんで役所に駆け込み言います。
 「私は備後の国で特産物の絹織物四十疋を盗みましたが、心を改め、その罪に復します。命だけはお助けください。」
 それを聞いた保則は
 「今、お前の悪事を聞いた。お前は、己の悪心を改心して、これからは決して悪事はしない善人になったのだ。」
 と食べ物を与えて、盗んだ絹と一緒に元に返すよう備後へ返します。。それを聞いた部下たちは言います。
 「国守様、そんなことをすればきっとこの盗人は途中から逃げてしまうでしょう。」
 と。保則は言います。
 
   "彼、既に心を改めて誠に帰せり。豈に更に変あらんや。”

 その盗賊は保則から渡された手紙を懐に約束通りに備後に至って、備後の国守「小野朝臣喬査<オノノアソンタカナホ>」に、己の罪を告白します。国守はその罪を許し、解き放ちます。そして、その足で備前にきて謝意を述べたのです。このように保則という人は

    "その徳を以て人に感ぜしむること、皆此の類なり”

 「信なくば立たず・」とか何とか云った人に、若しあるならば爪の垢でも飲ましたいですよね。

 

 

睡蓮の花

2020-07-12 09:45:45 | 日記
 「大賀ハス」の花咲く瞬間の音の素晴らしさを「日本の音風景100選」に・・・と書いたのですが、午後からでしたから音ないハスの美しい絵姿を見に、昨日、高松城址のハス園に行ってきました。
 花ビラがもうち散り去って花弁だけを葉上に撒き散らしているものも見えます。「まだこれからだよ。2、3日したらから開くからぜひ見に来てね。」と蕾がささやくように梅雨空を通り過ぎる風と一緒に耳元をくすぐります。また、今を盛りと一面に咲き誇り、目の覚めるようなピンクの色を惜しげもなく葉上に繰り広げ、公園全体を静寂の空間に作り上げています。そんなハスと戯れてきました。その美しい絵姿を

   

  
 
  

 

 

 なお、最後の草は半夏生です。蓮の花下に隠れるようにそっと咲いていましたから写してきました。風情とはとない頭を回らしながら・・・
 

「大日本史」に記された保則の善政とは・・・

2020-07-11 06:38:17 | 日記
 藤原保則は、その4年後に備前守となってお隣の国「備前」に赴任します。「政績、一に備中に在るが如し」とありますから、ここでも善政をしたのでしょう。その具体的な事例として、次のように記しております。
 
 もし部下の職員が公金横領でもしようものならば、呼んで優しく注意をし(若し”姦伏<カンプク>あれば、発擿<ハツテキ>を加えず)、こんこんと、何事にも清く正しい事を尽くして勤務しなさいと教え(必ず当に廉節を立て、勉て栄誉を取るべし)、更に、(謹みて官物を犯すこと勿れ)と諭します。」
 更に、藤原保則はその役人言います。
 「あなたは父母や妻子を養うために、心ならずも公金を手にしたのでしょう。これは皆「貧窶の憂、善人を羇累するなり」(みな貧しさのなせる禍であり、誰でも陥りやすいことだ)」
 と、その非を叱責しないで、お金まで与えたのだそうです。
 このような上司ですから役人だけでなく国民総てから畏愛され
      「国民みんなの父母」
 であると慕われたとあります。

 どうです。このような上司は、現在には、どこを探しても影も形も見えず、有るのはもっぱら自分の保身のため、平気で総理など上の人に(国会議員など)に忖度する上級役人の何て多いことか・・・・・私と同じ姓の赤木とかいう自殺した大阪あたりの小役人を憐れんでこんなことを書いてみました。
 
  なんて嘆かわしい忌々しきご時世ですこと・・・・・そんなことが頻りに頭にこびりついてくる今朝です。

「藤原保則」が吉備の国守に

2020-07-10 06:06:22 | 日記
 平安時代の前期(860年頃)の備中の国は大変乱れていました。そこに国司として赴任したのが藤原保則です。その保則の備中での政治が日本の歴史の上から云っても大変に善政であったと称賛されています(のちには備前の守に)。どのような政治を行ったか詳しく大日本史に書かれていますので、それを・・・

 貞観6年(868年)国司となり赴任します。その時は国内は、特に国の北部は

                "境内丘墟となりて 単丁あることなし”

 「大変荒れ果てて 働き手の姿が見当たらない」でした。そのような所に赴任した保則がした政治は

”施すに寛政を以てし、小過をゆるして大体を存し、徒隷を放散して、綏撫賑恤し、農桑を勧め遊費を禁ず。是に於いて、百姓襁負し、来り附くこと帰るが如し、田園尽く闢け、戸口殷阜、門、夜扁さず、賦税倍入し・・・”

 と書かれています。大変難しい漢字が使われ、辞書がなければ分らないような文章ですが・・・
 例えば「綏撫賑恤」は<スイブ シンジュツ>と読み、「領民をいたわり、救いの手を差し延べる」で、「百姓襁負<ヒャクセイ キョウフ」は「国民の身を保護する」という意味です。

 前の国守とは大変な違いの政治を施します。そして

  "古より以来、未だかって此の類あらざりしなり”
 
 「このような政治は見たことがないような」善政が、突如として備中の国に実現できたのです。