「靭(うつぼ)公園は飛行場だった」―たまにテレビや新聞でも取り上げられるが都市伝説みたいになっているのは、ちゃんとした説明板がないからだ。あちこち探し回ってやっと見つけた。なにわ筋に面した東側の公園のトイレ横に「この公園の整地は飛行場あとを昭和27年度から昭和30年度の失業対策により行われたものである 大阪市」という一文が書いてある小さな碑がある。
占領軍の飛行場だった靭公園
大阪市が建てた碑があるが、もっと詳しい説明板がほしい
ビジネス街のオアシスとして親しまれている靭公園は、総面積約9・7ha、東西約800m、南北約150mの細長い形をしており、中央を南北に通るなにわ筋によって東園と西園に分かれている。
西園には16面のテニスコートを備え、国際大会にも利用できる靱テニスセンターがある。東縁は、バラ園や四季に彩られるケヤキ並木が広がっている。
このあたり一帯は1945年(昭和20)3月13日深夜から14日の第一次大阪大空襲で焼け野原となった。戦前はまだ「なにわ筋」が建設されておらず、現在の靱公園の東園と西園はつながっていた。
戦後、占領軍は戦前からの南北幹線道路である四つ橋筋―あみだ池筋間において、京町堀川(55年埋立)と海部堀川に挟まれた区域(当時の町名でいう靱北通と靱上通の大半に相当)約3万坪を接収し、占領軍の常用飛行場として靱飛行場を設置した。52年の講和条約発効から2ヶ月後に飛行場敷地は大阪市へ返還され、戦災復興土地区画整理事業によって55年に靱公園が開園した。
空襲で焼け落ちた江之子島の旧府庁
初代の大阪府庁は今の中央区本町2丁目付近にあった西町奉行所を流用していたが、手狭で1874年(明治7)に西区江之子島に移転した。この二代目の旧府庁舎は、造成寮(現在の財務省造幣局)のイギリス人技師が設計したもので、中央に円形ドームがそびえる白亜の西洋館だった。大阪市民はここを「江之子島政府」と呼んでいた。待合室を「人民控所」と呼び、職員が高圧的な役人風を吹かせていたからだ。世間の俗称とはいえ、地方行政庁舎を「政府」と呼ぶ例は他にはない。現在の大阪城近くの大手前庁舎本館1階に江之子島府庁の模型が展示してある。
江之子島周辺は府庁舎が移転する大正末期まで官庁街で、大阪初のカフェ「キサラギ」をはじめ大阪初のものや情報が多く生み出されたモダンな街だった。
1926年(大正15)に大手前に移転してからは、大阪府工業奨励館など別の府施設として使われ、45年3月の大空襲で焼失した。
96年まで「大阪府立産業技術総合研究所」が置かれていたが、その後は放置され、2011年になってやっとこの庁舎跡の発掘調査が行われ、府文化財センターから調査報告書が刊行されている。
空き地の地下数メートルに、中央棟と南北両棟の地下のレンガ壁や、花崗(かこう)岩を組み合わせた中央棟の円形ドームの基礎部分(直径約6メートル)、レンガ積みの暖炉などが100年以上前の姿で残っていた。研究者も歴史的価値が高いと評価し、移築保存されることになっている。
ちなみに大手前にある現在の3代目庁舎は現役の都道府県庁舎として最古のもので、26年(大正15)に竣工している。この頃に建てられた都道府県庁舎はすべて東京の皇居の方角を向いていたという。確かに現府庁は東向きに建てられている。それに対し江之子島府庁は西側の木津川を挟んだ川口居留地の方向を向いていた。居留地などを通じた外国貿易との関係もあり、大阪の発展は西に向かってあると考えられていたからだという。
現在「江之子島文化芸術創造センター」の前に銘板と、大阪市青年連合団が建立した「明治天皇聖躅旧大阪府庁」の石碑があり、江之子島府庁の跡地であることを伝えている。
「明治天皇聖躅旧大阪府庁」の石碑
「川口居留地跡」の石碑―平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院や聖バルナバ病院等はこの地で創設された
今年2月、安治川沿いの川口2丁目には「大阪開港の地」碑、「大阪税関発祥の地」址、「大阪電信発祥の地」碑が並んで建っている。大阪の歴史を振り返るとき見ておきたい場所だ。
「大阪開港の地」碑、「大阪電信発祥の地」碑などが並んでいる(川口2丁目)
戦争と平和を伝える対照的な碑
阿波座交差点からほど近い薩摩堀公園(立売堀4丁目2)には「八紘一宇」が刻まれた高さ2mを超える大きな碑がある。碑は国旗掲揚台の一部分だ。1940年は「皇紀2600年」にあたるとされ、町内ごとに記念的なものを造らされた典型だ。
薩摩堀公園にある八紘一宇の碑
大阪市立図書館の西側にある土佐稲荷神社は、岩崎弥太郎事業を起こした三菱発祥の地とされている。空襲の影響で黒ずんだ石鳥居や石灯篭がある。その南側の土佐公園(北堀江4丁目)の、女神が子どもを抱いている「平和の祈りの像」は西区遺族会が作ったものだ。
土佐稲荷神社の「平和の祈りの像」