庭に埋めて「守った」忠魂碑
阪急・十三駅の東口から商店街を抜けると左に神津神社がある。境内には忠魂碑がありその横の「旧神津村忠魂碑再建之記」には忠魂碑がここに建てられた経緯が書かれている。
忠魂碑は日清・日露戦争の凱旋碑で在郷軍人会が主体となって行政区に1つ建立した。「再建之記」によると1921年、旧西成郡神津村役場(現在の神津小学校の横)に建てられた後、村が大阪市へ編入される際、十三公園に移転。敗戦後、占領軍から公共地にある忠魂碑を撤去するよう命じられたため、北浦純一市会議員が自宅に持ち帰り庭に埋めて破壊をまぬかれたという。
神津神社は45年6月7日の大空襲で社殿を焼失、72年に再建された。忠魂碑は74年11月に現在地に再建された。
神津神社にある忠魂碑
戦災孤児を救済した博愛社
十三筋を挟んで北側に博愛社の礼拝堂がある。日本で数々の有名建築物を手掛けた建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(終戦後マッカーサーと近衛文麿の仲介工作に尽力した)が手掛けたものだ。
博愛社は、戦後の混乱期、戦災孤児を救済したことで知られている。1890年クリスチャンだった小橋勝之助と林歌子が現在の相生市に児童保護施設を開設。その後、勝之助亡き後を継いだ弟の実之助が歌子ともに現在の地に博愛社の原型を築いた。実之助の妻カツエは「大阪福祉活動のお母さん」と呼ばれている。
博愛社の創設にかかわった4人の像
街の守護神「平和地蔵」
東横イン大阪阪急十三駅西口店の前に小さい祠がある。かつてこのあたりに鏡ヶ池があり、明治のころ、幼い子が溺れその母が子を思い地蔵をつくり祈っていた。安産、子育ての守護神として伝わっていたが、太平洋戦争による戦災の焼け跡から掘り起こされ、地元の有志から「平和地蔵」と名付けられまつられている。
平和地蔵(淀川区十三本町1-13)
空襲で全焼した成小路国民学校
十三筋を隔てて南側に神津小学校(戦時中は国民学校)がある。戦時中、淀川区近辺の子どもたちは箕面へ学童疎開していた。敗戦後の46年、空襲で全焼した成小路(なるしょうじ)国民学校を統合した。十三公園の中に「中津第三尋常小学校(成小路国民学校)記念碑」がある。
「昭和二十年六月空襲のため校舎は全焼して、昭和二十一年四月神津小に統合」と刻まれている。
空襲で全焼し再建されることのなかった成小路国民学校の碑(十三公園)
学校防衛中に命を奪われた2人
十三公園の南側が大阪府立北野高校(旧制北野中学)だ。45年3月13日から14日未明にかけての大空襲で、生徒の罹災者129人、死亡1人に及んだ。この年の入試は実施されず志願者393人全員を入学させた。授業はほとんど行われず、生徒たちは軍需工場や食糧増産に動員された。
6月15日の空襲では、当直で学校防衛中の2年生、中島要昌君と池田彰宏君が死亡、今木伊助君が負傷した。この日の空襲で命を奪われた生徒はこの2人を含め9人にのぼった。6月から8月にかけて小型機による爆撃が続き、そのときの機銃掃射の弾痕が校舎西端の外側に残った。
86年、図書館の横に62回卒業生によって「殉難之碑」が建立された。その後、教職員・同窓生らの保存要望により機銃掃射を受けた壁面が「メモリアルウォール」としてそのまま保存されている。新入生の校内施設見学の際には、この壁と殉難之碑のことも必ず説明するという。隣接する大阪市立新北野中学校の生徒も毎年見学に来るそうだ。
28個の弾痕がある北野高校のメモリアルウォール、壁面にはコーティングが施され保存されている
「中島要昌、池田彰宏、学校防衛中焼夷弾に斃(たお)れる」と刻まれた殉難之碑