『冬虫夏草』 梨木香歩 著
《こうも雨が続くと、さすがに散歩も億劫になる。机の前に端座して、原稿の進み行きもおぼつかぬまま、じわじわと湿気が、ついに皮膚の内側にまで及んだ、と感覚された。すると、肘の側のほくろが、俄にもぞもぞと動いた。そして見る間に立ち上がり、虫となって歩み去った。ほくろでいることに飽いたのだろうか。》(引用終わり)
ひと昔前の京都の町はずれ、疎水沿いの古い家屋を舞台に、自然の動植物に混じってもののけたちが立ち現れては消えていく、非現実的なはずの日常が、ごく自然にさりげなく描かれた小説『家守綺譚』の続編、『冬虫夏草』。
キノコ的だとして以前紹介した小説の続編のタイトルが、くしくもキノコそのものになろうとは。
駆け出しの小説家である主人公・綿貫は、今は亡き親友から古い家をあずかってひとりで暮らしている。この家の周りでは、妖怪だったり、あるいは動物が人間に化けたりしたものがよく出没するのだが、周囲の人々や、そして彼自身も、そのことをあまり気にかけることはない。
そんな中で、飼い犬・ゴローが姿をくらましてしまった。こころもとない目撃情報や手がかりを頼りに、彼は鈴鹿の山中にゴローを探す旅に出かけることを決意する。
滋賀の能登川の駅に降り立った彼の向かう先には、川のほとりで彼らなりの暮らしを生きる素朴な人々が居り、そしてやはり、そのまわりに立ち現れては消える、動物やもののけの姿があるのだった。
前作は、疎水沿いの家屋の周囲だけに終始した閉じられた物語であったが、今回は世界が広がり、近江から三重につながる古道「八風街道」を行くことになる。
こう書くとそれなりのストーリーがあるように思われるが、その実、この小説にストーリーらしきストーリーはない。
いくらかの個性的な登場人物にくわえ、カッパやら天狗やら竜やらイワナやら、たしかに非現実的なキャラクターも登場するし、それなりのドラマがあったりもする。
しかしそれでいて、その道中の奇妙さが強調されることも無い。ただ淡々と、主人公の道行きがつづられていく。
それどころか終いの方では、だんだん人間ともののけの差がわからなくなってきて、なんだかぼんやりしている。
これでいいのか?これでいいのだ。
作中、タイトルの『冬虫夏草』が活躍する場面はほとんどない。
序盤に「サナギタケ」と題した章が数ページあるのみだ。
それでもタイトルに冬虫夏草をすえたことに、作者の真意を見ることができる。
冬虫夏草は、虫が生きたまま菌類に侵されることで、はた目には動物とも植物ともつかない生態をとる。
この作品でタヌキやイワナが人間に化けたりするのと同じように、その姿は柔軟で形にとらわれない。
かつて我々が暮らす世界では、科学的な知識もなく、もっと世界が曖昧だった。
そこでは木や石や山が神だったり、霊性を持ったりしていた。たとえそこに証拠や実益などなくとも、彼らにとって、それは確かに存在したのだ。
それを信じることで、たとえ物質的には貧しくとも、限られた自然の恵みを分かち合い、病や災害などを耐え、精神的には豊かな暮らしを営むことができた。
合理性と経済性にしばられて身動きの取れなくなった私たち現代人を自由にしてくれるものがあるとしたら、それはさらなるイノベーションとか解決策とか、あるいは自己実現とかでもない。
それを与えてくれるのは、たとえばサナギタケが見せるような自然を生きる動植物たちが持つ柔軟さ、形を持つようで持たない生き方そのものにあるのではなかろうか。
・・・なにやら小難しいことを書いてしまったなー。
思想とか信条とかはさておき、この作品、古い近江地方を歩いて旅してるような感覚になる紀行文としてだけでも充分に楽しむことができる。
美しい自然や風物、人々の習俗や方言が詰まった旅路は、それだけで心を解放してくれる。
《こうも雨が続くと、さすがに散歩も億劫になる。机の前に端座して、原稿の進み行きもおぼつかぬまま、じわじわと湿気が、ついに皮膚の内側にまで及んだ、と感覚された。すると、肘の側のほくろが、俄にもぞもぞと動いた。そして見る間に立ち上がり、虫となって歩み去った。ほくろでいることに飽いたのだろうか。》(引用終わり)
ひと昔前の京都の町はずれ、疎水沿いの古い家屋を舞台に、自然の動植物に混じってもののけたちが立ち現れては消えていく、非現実的なはずの日常が、ごく自然にさりげなく描かれた小説『家守綺譚』の続編、『冬虫夏草』。
キノコ的だとして以前紹介した小説の続編のタイトルが、くしくもキノコそのものになろうとは。
駆け出しの小説家である主人公・綿貫は、今は亡き親友から古い家をあずかってひとりで暮らしている。この家の周りでは、妖怪だったり、あるいは動物が人間に化けたりしたものがよく出没するのだが、周囲の人々や、そして彼自身も、そのことをあまり気にかけることはない。
そんな中で、飼い犬・ゴローが姿をくらましてしまった。こころもとない目撃情報や手がかりを頼りに、彼は鈴鹿の山中にゴローを探す旅に出かけることを決意する。
滋賀の能登川の駅に降り立った彼の向かう先には、川のほとりで彼らなりの暮らしを生きる素朴な人々が居り、そしてやはり、そのまわりに立ち現れては消える、動物やもののけの姿があるのだった。
前作は、疎水沿いの家屋の周囲だけに終始した閉じられた物語であったが、今回は世界が広がり、近江から三重につながる古道「八風街道」を行くことになる。
こう書くとそれなりのストーリーがあるように思われるが、その実、この小説にストーリーらしきストーリーはない。
いくらかの個性的な登場人物にくわえ、カッパやら天狗やら竜やらイワナやら、たしかに非現実的なキャラクターも登場するし、それなりのドラマがあったりもする。
しかしそれでいて、その道中の奇妙さが強調されることも無い。ただ淡々と、主人公の道行きがつづられていく。
それどころか終いの方では、だんだん人間ともののけの差がわからなくなってきて、なんだかぼんやりしている。
これでいいのか?これでいいのだ。
作中、タイトルの『冬虫夏草』が活躍する場面はほとんどない。
序盤に「サナギタケ」と題した章が数ページあるのみだ。
それでもタイトルに冬虫夏草をすえたことに、作者の真意を見ることができる。
冬虫夏草は、虫が生きたまま菌類に侵されることで、はた目には動物とも植物ともつかない生態をとる。
この作品でタヌキやイワナが人間に化けたりするのと同じように、その姿は柔軟で形にとらわれない。
かつて我々が暮らす世界では、科学的な知識もなく、もっと世界が曖昧だった。
そこでは木や石や山が神だったり、霊性を持ったりしていた。たとえそこに証拠や実益などなくとも、彼らにとって、それは確かに存在したのだ。
それを信じることで、たとえ物質的には貧しくとも、限られた自然の恵みを分かち合い、病や災害などを耐え、精神的には豊かな暮らしを営むことができた。
合理性と経済性にしばられて身動きの取れなくなった私たち現代人を自由にしてくれるものがあるとしたら、それはさらなるイノベーションとか解決策とか、あるいは自己実現とかでもない。
それを与えてくれるのは、たとえばサナギタケが見せるような自然を生きる動植物たちが持つ柔軟さ、形を持つようで持たない生き方そのものにあるのではなかろうか。
・・・なにやら小難しいことを書いてしまったなー。
思想とか信条とかはさておき、この作品、古い近江地方を歩いて旅してるような感覚になる紀行文としてだけでも充分に楽しむことができる。
美しい自然や風物、人々の習俗や方言が詰まった旅路は、それだけで心を解放してくれる。