夏休みの終わりだってーのに、暑さが衰える気配もなく。
猛暑日ガンガン継続中なのですが。
夏休みの宿題の三大・大問題といえば、
「自由研究」「天気調べ」そして「読書感想文」(個人の感想です)
ということで、今回は読書感想文を提出いたします☆
『万葉学者、墓をしまい母を送る』上野誠著 講談社 2020
わが母校、奈良大学教授の上野先生が書いた本で、万葉学者というのはもちろん上野先生自身のこと。
しかし、万葉集中心のハナシではなく、「墓をしまい」「母を送る」の方が中心の本。
2016年にお母さまを亡くした時に、この本を書こうと思った上野先生が、
自分ちの墓は何故こんなに大きいのかを調べ、葬式という儀式を外注することに対して抱いた思いを、
民俗学的視点から書いている本です。
(>ということでワタクシの感想文)
もちろん先生の大好物は『万葉集』『古事記』『日本書紀』なので、
それらを通して見る、親の死、墓の必要性にも言及しますが、
やはりタイトルになっている通り、「母を送る」ことが一番の主題。
本の中では祖父の死、祖母の死、父の死、兄の死、そして母の死が書かれていますが、
古い方から新しい方への流れの中で、ある一つの法則がみつかります。
それは葬儀の外注化。
昔は自宅で見取り、亡くなった人を家から送りだしていた。
それを行ったのは家族、親族、そして近隣の人。
故人と何らかのつながりがあった人が力を合わせて葬式を行っていた。
それが現代では葬儀屋の台頭で、葬儀がシステム化され、パック化され、
ファストフードのセットを選ぶように、必要最低限のものが詰め込まれた
○○コース・葬儀一式何百万円の世界が主流となる。
そして現在、葬儀屋が仕切るが葬儀の無い、病院から火葬場への直送(直葬)という方法も珍しくない。
ああ、この葬儀屋というシステムは何と素晴しいシステムであったことだろう。
その昔、名取裕子が演じる末永卯月が、葬儀屋を開く資金集めのために、
結婚式場紹介所の相談員をしているという『地獄の花嫁』という
二時間ドラマがありましたが(知らんがな)
荒唐無稽な設定ながら、結婚式をしないカップルはあっても、
葬式をしないという選択肢はなかった20世紀末。
となれば、結婚式業界に身を置くよりも、葬式業界に身を投じる方が堅実なのかも、
と私自身も思いました>ドラマを見ていて。
それが今では葬儀はしない、社葬はしない、家族だけで見送ってほしいと望み、
葬儀は密葬で、本人の遺体亡き後日にお別れの会を開くという「お別れ」もよく聞かれるようになりました。
つい最近では、渡哲也さんが家族のみでの葬儀にして、誰も呼ぶことなかれと遺言したといいます。
あれだけの大スターですら、大規模な葬儀を行いませんでした。
そんなこんなで葬儀屋というのはなかなか便利なシステムであり、
自宅で葬儀をしない、できない人達にとっては便利なもので、
中でも集合住宅に住んでいる人にとっては無くてはならないものとなった。
マンションは個人のお宅とはいえ、集合住宅の一室で葬儀を行うにはなかなかにムズカシイだろうし。
マンションの集会所というでは葬儀を行うとなると、他の人たちからの抵抗もあるだろうし。
そんな人たちにとって通夜・葬儀・告別式を行う専用の空間を貸してくれる葬儀屋というのは
非常に重宝されたし、今やなくてはならない場所になったことでしょう。
とまあ、葬儀屋のハナシばかり書きましたが。
先生の本の話にもどれば。印象的な話は『湯灌』のハナシ。
死者の体を清め、衣を着替えさせて、遺体を納棺する前にきれいにする行いですが。
先生の「祖父」の時は、湯灌を自宅の風呂場で行ったりしたんだというからびっくり仰天。
それまで自分が体験した湯灌は、洗面器に水を張ってからお湯を入れて、適温にしてから持ってきて、
タオルで死者の手足を拭く程度のことでした。
(普通はお湯を張ってから、水で薄めて、適温にするわけですが、
死者に対しての行動はすべてが「通常の生活とは別」の方法で行うため、
水を入れておいてから、お湯をはるという方法が取られるそうです)
昨今の葬儀では、入浴介護のノウハウもあってか、丸洗い(!)というか、
最後に本当にお風呂に入っていただいて、さっぱりしてから旅立っていただく
ということも可能になったようです。
「祖父」の時には自らの家で風呂で湯灌をしたものが、
「母」の時には、葬儀式次第を相談する時点で(ご湯灌)の項目に、
タブレット端末でチェックを入れたら、
翌日にはピットインよろしく、ご湯灌チームがやってきて、
テキパキとお風呂を設営して、ご遺体を清めて、衣を着せ替えて、死化粧を施し、
納棺までしてくれる。ああ、葬儀はココまで来たんだなあ。
とまあ、全編にわたって上野家の歴史と、上野家の代々の墓と、上野家の葬儀の歴史を通して、
葬儀と葬送儀礼を民俗的視点から書いた「作品」です。(とかって書いていいのかなあ)
「母」はかねてから
「私が死んだら、介護記ば書いて、儲けにゃ、いかんばい」と言っていたそうですが、
介護日記というか、介護から臨終、そして葬式のハナシと人生の最終盤フルコースだったわけですが。
去年母を見送った身としては、「ああ、わかるわかる」ということがたくさんありました。
先生の「祖父」がたてた御殿のような「上野家累代之墓」は代々続くことはなく、三代で姿を消し、
血は続いているけど、墓は無くなりましたとさ。
しかし、「墓終い」とはタイトルにはあるけど、完璧にお墓が消えたわけではなく、
二階建ての家のような大きな墓はなくなったけど、
こじんまりした普通サイズのお墓に引っ越ししたので、
完璧に墓終いをしたわけではないのだけど。
私の場合は、その先の「本当の墓終い」
(墓石を魂抜きしてただの石にして撤去し、墓地を更地にして返して、
入っていた遺骨をどうするか?ってのを決定しなくちゃいかん)をしなければならないので、
そろそろ本腰を入れて遺言状でも描いておかないといけないわねって改めて思いました。
はい。
この本は、第68回日本エッセイスト・クラブ賞に決まったそうです。
上野先生おめでとうございます。
上野先生ファンの方にも、お初の方にも、「楽しめる」一冊となっています。
するする読める良書なので、ぜひお手に取って下さい。
(奈良大生は図書館にありますよ、絶対(笑))
おしまい。
猛暑日ガンガン継続中なのですが。
夏休みの宿題の三大・大問題といえば、
「自由研究」「天気調べ」そして「読書感想文」(個人の感想です)
ということで、今回は読書感想文を提出いたします☆
『万葉学者、墓をしまい母を送る』上野誠著 講談社 2020
わが母校、奈良大学教授の上野先生が書いた本で、万葉学者というのはもちろん上野先生自身のこと。
しかし、万葉集中心のハナシではなく、「墓をしまい」「母を送る」の方が中心の本。
2016年にお母さまを亡くした時に、この本を書こうと思った上野先生が、
自分ちの墓は何故こんなに大きいのかを調べ、葬式という儀式を外注することに対して抱いた思いを、
民俗学的視点から書いている本です。
(>ということでワタクシの感想文)
もちろん先生の大好物は『万葉集』『古事記』『日本書紀』なので、
それらを通して見る、親の死、墓の必要性にも言及しますが、
やはりタイトルになっている通り、「母を送る」ことが一番の主題。
本の中では祖父の死、祖母の死、父の死、兄の死、そして母の死が書かれていますが、
古い方から新しい方への流れの中で、ある一つの法則がみつかります。
それは葬儀の外注化。
昔は自宅で見取り、亡くなった人を家から送りだしていた。
それを行ったのは家族、親族、そして近隣の人。
故人と何らかのつながりがあった人が力を合わせて葬式を行っていた。
それが現代では葬儀屋の台頭で、葬儀がシステム化され、パック化され、
ファストフードのセットを選ぶように、必要最低限のものが詰め込まれた
○○コース・葬儀一式何百万円の世界が主流となる。
そして現在、葬儀屋が仕切るが葬儀の無い、病院から火葬場への直送(直葬)という方法も珍しくない。
ああ、この葬儀屋というシステムは何と素晴しいシステムであったことだろう。
その昔、名取裕子が演じる末永卯月が、葬儀屋を開く資金集めのために、
結婚式場紹介所の相談員をしているという『地獄の花嫁』という
二時間ドラマがありましたが(知らんがな)
荒唐無稽な設定ながら、結婚式をしないカップルはあっても、
葬式をしないという選択肢はなかった20世紀末。
となれば、結婚式業界に身を置くよりも、葬式業界に身を投じる方が堅実なのかも、
と私自身も思いました>ドラマを見ていて。
それが今では葬儀はしない、社葬はしない、家族だけで見送ってほしいと望み、
葬儀は密葬で、本人の遺体亡き後日にお別れの会を開くという「お別れ」もよく聞かれるようになりました。
つい最近では、渡哲也さんが家族のみでの葬儀にして、誰も呼ぶことなかれと遺言したといいます。
あれだけの大スターですら、大規模な葬儀を行いませんでした。
そんなこんなで葬儀屋というのはなかなか便利なシステムであり、
自宅で葬儀をしない、できない人達にとっては便利なもので、
中でも集合住宅に住んでいる人にとっては無くてはならないものとなった。
マンションは個人のお宅とはいえ、集合住宅の一室で葬儀を行うにはなかなかにムズカシイだろうし。
マンションの集会所というでは葬儀を行うとなると、他の人たちからの抵抗もあるだろうし。
そんな人たちにとって通夜・葬儀・告別式を行う専用の空間を貸してくれる葬儀屋というのは
非常に重宝されたし、今やなくてはならない場所になったことでしょう。
とまあ、葬儀屋のハナシばかり書きましたが。
先生の本の話にもどれば。印象的な話は『湯灌』のハナシ。
死者の体を清め、衣を着替えさせて、遺体を納棺する前にきれいにする行いですが。
先生の「祖父」の時は、湯灌を自宅の風呂場で行ったりしたんだというからびっくり仰天。
それまで自分が体験した湯灌は、洗面器に水を張ってからお湯を入れて、適温にしてから持ってきて、
タオルで死者の手足を拭く程度のことでした。
(普通はお湯を張ってから、水で薄めて、適温にするわけですが、
死者に対しての行動はすべてが「通常の生活とは別」の方法で行うため、
水を入れておいてから、お湯をはるという方法が取られるそうです)
昨今の葬儀では、入浴介護のノウハウもあってか、丸洗い(!)というか、
最後に本当にお風呂に入っていただいて、さっぱりしてから旅立っていただく
ということも可能になったようです。
「祖父」の時には自らの家で風呂で湯灌をしたものが、
「母」の時には、葬儀式次第を相談する時点で(ご湯灌)の項目に、
タブレット端末でチェックを入れたら、
翌日にはピットインよろしく、ご湯灌チームがやってきて、
テキパキとお風呂を設営して、ご遺体を清めて、衣を着せ替えて、死化粧を施し、
納棺までしてくれる。ああ、葬儀はココまで来たんだなあ。
とまあ、全編にわたって上野家の歴史と、上野家の代々の墓と、上野家の葬儀の歴史を通して、
葬儀と葬送儀礼を民俗的視点から書いた「作品」です。(とかって書いていいのかなあ)
「母」はかねてから
「私が死んだら、介護記ば書いて、儲けにゃ、いかんばい」と言っていたそうですが、
介護日記というか、介護から臨終、そして葬式のハナシと人生の最終盤フルコースだったわけですが。
去年母を見送った身としては、「ああ、わかるわかる」ということがたくさんありました。
先生の「祖父」がたてた御殿のような「上野家累代之墓」は代々続くことはなく、三代で姿を消し、
血は続いているけど、墓は無くなりましたとさ。
しかし、「墓終い」とはタイトルにはあるけど、完璧にお墓が消えたわけではなく、
二階建ての家のような大きな墓はなくなったけど、
こじんまりした普通サイズのお墓に引っ越ししたので、
完璧に墓終いをしたわけではないのだけど。
私の場合は、その先の「本当の墓終い」
(墓石を魂抜きしてただの石にして撤去し、墓地を更地にして返して、
入っていた遺骨をどうするか?ってのを決定しなくちゃいかん)をしなければならないので、
そろそろ本腰を入れて遺言状でも描いておかないといけないわねって改めて思いました。
はい。
この本は、第68回日本エッセイスト・クラブ賞に決まったそうです。
上野先生おめでとうございます。
上野先生ファンの方にも、お初の方にも、「楽しめる」一冊となっています。
するする読める良書なので、ぜひお手に取って下さい。
(奈良大生は図書館にありますよ、絶対(笑))
おしまい。
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