2014年奈良検定の「合格祈願会」と「答え合わせ合宿」を無事済ませ、
試験翌日は「現地実習」です。
今回のお題は「五條(新町)」
五條新町は2011年のソムリエの400字問題の一つとして出題済み。
試験翌日歩きの会は、そういうところを選んで行っている様な気もしなくも無い…。
2011年出題の「烏土塚古墳」は自分が1級受験した2011年の試験翌日に歩いたし、(出題予想的中?)
2010年出題の「柳生家老屋敷」は自分がソムリエ受験した2012年の試験直後に歩いたし。
こういうのは今まで自分が体験したことがないところを歩いてみる、
というチャンスになるため、この400字ってのも役立ってます。
まあ、五條新町および五條の町ってのは前に一度歩いたことがあるのですが…。
節分のときに、智弁さんの本拠地に行ってみようと思って歩いた時。
でもあの時は、雪が降ってて寒くて、あんまり動かなかったので、
行き逃したところがたくさんありまして。
いつかはリベンジしたいと、前々から再訪を狙っていた所。
でも、奈良市内からはビミョーに遠い。
奈良県民だった頃はそれほど苦ではなかった移動も、
田舎から”上京”して、さら五條となると結構移動だけでも大変なのだ。
(あ、東京から、五條行き高速夜行バスってのがあるので、
逆に東京方面から来る人は一日丸マル五條をウロウロできるかと…)
ちゅうことで、今回はここをチョイスしてみました。
★
この日は朝ごはん7時!
8時にはすでに歩き始めて五條をウロウロしてました。
お宿は駅前にあったんだけど、まずは近場から…と思って歩き始めると、
そこは昔ながらの商店街。そして道は細く、入り組んでいて、
地図を頼りに歩くと…「道」は路地以下。
猫道のような細さだったり、「これは道なのか?」状態だったりして、結構スリリング(笑)
道なりに歩き、道なりに下っていくと、出てきたのが「乾十郎顕彰碑」
行くべきところは地図にチェックマークを入れておいたものの、
乾十郎氏については天誅組の人だよねっていう知識だけで、不勉強のまま。
こんなソムリエダメじゃん!
乾十郎氏は、五條出身の医者。
天誅組が五條代官所を襲撃~桜井寺を本陣とする際に、
手はずを整えたがこの人らしい。
吉野川に放流する材木に課せられる材木税を不当として
紀州藩に撤廃を談じ込み成功させたり、
容認はされなかったものの吉野川の水を大和平野に疎通させて
灌漑設備を整えようと上書したりしたらしい。
五條に来るのに天誅組を予習してこないのは間違っているだろうがあ(反省)
とりあえず、こうやって復習を兼ねて、勉強しなおしてますけど。
次は、そこからすぐ下方に見えている「統神社(すえじんじゃ)」
統神社のあるあたりは須恵町といい、その名の通り須恵器の製造が行われていたらしい。
須恵→統(すべ)という文字の変遷があった模様。
ここでなぎさんがスゴイ発見を!
神社の石段の脇の石垣が、丸石ではなく、とがった石が埋め込まれています。
(写真はなぎさんのところでチェックして下さいね)
そう云われてみれば神社内のいたるところの石組みに、とがった石が
使われています。おおお、これってすぐ近くを流れる吉野川(紀の川)からの石か?
そこから国道に出て西へ向かうとすぐ桜井寺。
桜井寺といえば、天誅組が五條代官所を襲撃して、この寺に「五條御政府」の本陣を張ったところ。
奈良検定のテキストや、ガイドブックなどでは門構えはたびたび見ていましたが、
こんなに交通量の多い国道の脇に立っているとは思わなかったのでちとびっくり。
中に入ってみると…どこもかしこもコンクリート造り…。
それでも境内には、討ち取った鈴木源内代官の首を洗ったという手水鉢があり、
その場がかつて戦場だったことを思い起こさせます。
現在は国道24号線がすぐ脇を走り、こじんまり(?)とした寺域ですが、
かつては国道をまたぐほどの広さであったといわれ、
国道が現在のルートとなった時にその当時のお堂は撤去されてしまったそうです(なにぃ~!)
次は、その代官さんたちを葬ったとされる墓地へ。
ここでも予習不足のワタクシ、墓地へはたどり着いたものの、墓石の位置がわからん。
それというのも、想像していた墓地の大きさが思ったよりも広大だったから。
代官さんたちの墓は、代官さんたちを偲んで当時の地元民さんたちが建てたらしい。
それくらい代官さんは民に慕われていたらしい。
五條代官の襲撃は、よくある「悪代官を討った」というものではなく、
たまたまその時、代官の職にあった彼が「打つべき相手=徳川側の人間の代表」として
そこに赴任してしまっていたことが悲運だったわけで。
…とまあ、そんな知識のみで極楽寺墓地へ行ってみたところ、
こじんまりした墓所かと思っていたら、思いっきり、フツーの人の墓も林立している墓所でした。
しかも、現代になってからの墓というのは少なく、江戸や明治な感じの墓が多く、
市民墓地の一角だった模様。広すぎて、どこにあるのか判らんし、
墓地内もアップダウンが激しいし、墓地と通路の区別もつかないほどの混雑ぶり。
近所の方に聞いたり、この墓所の一角に花屋さんをやっているおじさまに聞いたりして、
ようやくその場所がわかりましたわ。
(でもね、墓所の端まで道なりに降りていったら、でっかい看板に
「この墓地に眠る有名人」みたいな看板を発見しました…)
幕末あたりの五條ゆかりの人が結構ここに眠っているようです。
代官所の皆様は一画に集めて葬られており、
ライオンズクラブの皆様の手によって建てられた木の柵が目印です。
その柵がなかったら、全然判らないほどひっそりと建っているので、要注意です。
次は時間短縮のためにタクシーをおごって榮山寺へ。
榮山寺へはいつも冬に来るな~とかしみじみしてしまったよ。
吉野川沿いに建つ榮山寺は、藤原武智麻呂の創建の古刹で、
藤原仲麻呂が父・武智麻呂の追善供養として創建したという八角円堂が残る美しい寺。
奈良から遠く離れた鄙びたこの地で、こんな美しい円堂が残っているなんて素晴らしいですね。
前に来た時は扉が開いていて、雪が横殴りに降っていたので、
幻想的な光景に出くわしましたが…。
でも今年も負けず劣らず寒い。
冬枯れの感じがますます詫び寂びな感じです。
本当は武智麻呂の墓(といっても改葬墓だけど)まで行ってみたかったんだけど、
墓はこのお寺の裏手の山の上にあるとのことで、
今日は時間的にちょっと厳しいかな…ということでパス。
また気候の良いときにでも来ましょう。
次はバスで御霊神社へ行くためにバスに乗り換え。
国道まで戻る間、脇を流れているのが吉野川。
ここらへんの川は本当にきれいで、瑠璃色そのもの。
そして岸辺はごつごつした岩石が露出していて、
この岩を拾ってきて基壇やら、石段や、石組みやらに利用したんでしょうな。
(榮山寺の基壇にも、ごつごつ岩が使われていましたわ)
国道のバス停でバスを待ち、やってきたのが「特急新宮駅」キャー♪
日本一長い距離走る路線バス>八木新宮バス。
大和八木から和歌山県の新宮までの間を167個のバス停でつなぎ、
6時間30分かけて走る「路線バス」
「特急」と名はついていますが、特急料金は必要なく、
地域の人の足としても利用されています。
奈良交通に問い合わせてみたら、路線バスと同じように利用できるとのことなので、
時間短縮のために、利用してみました。
ってか、時刻表を見てみたら、一日に三本しかないバスなのに、
これが見学時間とのからみでちょど使えそうだったので、乗ってみたわけ。
狙って乗るのは難しいけど、偶然使える時間帯だったのがラッキー。
というか、これに乗れるように早起きしたんですけどね。
タクシーで来た道をバスで戻り、五條バスセンターでトイレ休憩(笑)
そののち、五条駅で乗客を拾って、目的路線へ戻ります。
地元の人の足としてそこそこ乗っていますが、
我々が降りた「霊安寺」バス停から先は乗車人数の極端に減ります。
「新宮めざすぜ!」って感じの人も乗車されていました。
「霊安寺」は「御霊神社」の神宮寺。
でも我々の目指すは、その「御霊神社」です。
奈良で御霊神社といえば「井上皇后」と「他戸親王」は外せないご祭神。
井上皇后は称徳天皇亡き後即位した光仁天皇の皇后。
天武天皇系の血筋から天智天皇系の皇子に皇位継承のお鉢が回ってきた即位で、
彼としては棚ぼた(?)即位。
井上皇后は内親王(聖武天皇の娘)の頃に伊勢の斎宮を経験し、
年とってからの婚姻で、光仁天皇の即位にともなって皇后となった人。
しかし、それを快く思わないのが藤原百川。
自分の推す山部親王をなんとか次の皇太子にしたいがために、
こともあろうに皇后と親王を陥れたとされます。
皇后が自分のオットである天皇を呪詛したという、
なんともはやアヒャヒャなことを敵対勢力は言い出します。
皇后の地位ってのは、天皇あってのものなんだから、
天皇が失脚すればその后だってその地位を奪われるのに。
なんでそんなことをする必要がある?
都を遠く離れた宇智郡(五條)に幽閉された皇后と親王は、
同じ日に急死したとされますが、そんなの誰が信じますかいな。
ザクっとやられちゃったに決まっています(をい)。
その後何が起こったかはご存知の通り。
良くないことが立て続けに起こります。
慌てた首謀者たちは、これは彼らが祟っているんだーと信じ、
ナムナムパンパンして神様と祀り上げてしまいましたとさ。
(自分が貶めておいて、神様にしちゃうって、すごいメンタリティなんだけど)
そして五條には「御霊神社」があちこちにある。
何を隠そう、奈良検定のテキストにも二つ載っているのだが、
五條市内にはざっと20箇所もの「御霊神社」があるのだそうで。
その原因は、鎌倉時代の豪族同士の争いの中で、
あちこちに御分霊が祀られることとなったためだそうで。
(あいつのパンパンしてる神社には、自分は参りたくないから、
別の社を建てちゃおうってこと?)
その中でも、この霊安寺町の御霊神社が最初のお社、元祖御霊神社なのだそうです。
で。
「おーこわ、こわ」とかいっていたら、
お賽銭の財布を取り出したあと、カバンのファスナーが閉まらなくなってしまい、
うんともすんとも云わなくなる。ギョエー!
「きゃー、祟りとかいっていたバチが当たった?」
とか涙目。とりあえず御参りを済ませることにしましたが…。
(帰宅後、なぎさんのご進言のとおりのことをしたら、
難なく、するりと直りました。えがったえがった)
鳥居からすぐに拝殿が見えるかたちなので、
おどろおどろしさはありませんが、
なんだか由緒を知って訪ねているせいか、境内全域が静謐な感じはします。
そして、御霊神社に別れを告げて、小高くなった土地から道なりに国道へ降りてゆくと、
見えてきたのが野ざらしの橋脚。
「あ!」
五新線の橋脚です。
新町側の遺構は探して見に行ったことがあるものの、
こちら側の遺構は見に来てなかったので、ちょっと興奮。
国道でぶった切れている橋脚「跡」の先には、吉野川が流れていて、
五條新町のあたりから川をまたいで、こちらへと続く「予定」でした。
鉄道の需要を見込んでの、五條と新宮を結ぶはずだった新路線は、
戦争やその後の世の中の変化で、建設は途中まで行われたものの断念。
開通することなく廃線が決定しました。
道をくだっていくと見覚えのある風景。
そうそう、ここから五新線の敷設されるはずだったルートを利用しての、
専用バス道がここから続いていくという場所でした。
歩きでその先を進んでいくことは出来るようですが、
自家用車での侵入は禁止されている道路で、
線路が走るはずだったルートに、現在は奈良交通のバスのみが走るバス専用道。
今回は偶然ではありましたが、新宮行き特急にも少しは乗れたことだし、
今度はこちらのルートでいけるところ(城戸という所)まで乗ってみようかな。
何気に乗り鉄でもあるし、乗りバス好きでもあります>わたし。
それから県立五條病院の手前から住宅街の中をテクテクして、金剛寺へ。
ここは花の寺二十五ヶ所の第23番。
春はボタン、秋は菊、がキレイとの話ですが、以前訪れた時も節分ですから…。
次回こそは花がある時期に来たい!
以前訪問した時は住職さんがつきっきりでご説明してくださいましたが、
今回はおかーさん(?)が一人で留守番をしていて説明をしてくださいました。
しかし、ここ花の寺の名にふさわしく、あげてもらった堂内の室礼がいつも素敵で、
あちこちに花が活けてあって、お庭の花がない時期にもかかわらず御花を堪能できました。
萱葺の庫裡、瓦葺の本堂と、観音堂が階段状に立ち並び、
中の仏様も多種多様…のーんびり、菊寿司(予約要)でもたべながら、
花を愛でて、のほほーんとできるような頃に、又来たいもんです(そればっかり)
そこからは徒歩で五條新町へ移動。
吉野川をまたぐ大川橋を渡っていきます。
この時期は水の量が少なくて、川幅は狭く、かえって橋の長さが強調されていますが、
途中河川公園で面白いものを発見。
「男性用」「女性用」「身障者用」のトイレがプレハブ風で置かれているのですが、
その建物の下にはタイヤがついていて、動かせるようになっています。
「???」
と思ったものの、
「そういえば、川が増水して、トイレ水没したら大変なことになるよね?」
「きゃー、便器のみならず、壁まで水没?!」
「あ!だから水没しないように、タイヤ付き移動トイレなのか!」
スゴイ、目から鱗の発見でした。
(違う理由だったりして…)
橋を渡りきった当たりから五條の新町通り。
ここらへんは、古い商家がたくさん残っています。
なかでも、五條新町の入り口に添って立っている栗山邸(県指定重要文化財)や、
そのお向かいの中家住宅(県指定重要文化財)、
少し北にある栗山家住宅(国指定重要文化財)などなど、
江戸の香りが残る商家町にふさわしい家が並んでいます。
とりあえず新町探索の前にご飯を食べようということで、
町屋を改造してレストランにしている「源兵衛」にてランチ。
地元の野菜を契約農家さんから仕入れているこだわりの食材のようで、
ドカンと大皿に盛った「本日の野菜」をテーブルに持ってきてくれて、
それを見ながら説明を受けて、美味しくいただきました。
スゴイびっくりしたのが、昔ながらの製法で作られた蒟蒻を、
てんぷらにしたもの。甘い味がついていて、熱々で、ハフハフうまうま♪
あれだけお代わりしたいくらい美味でしたわ。
「今度は筍の新モノが出たらまた…」とお誘いをいただきましたので、
また行かねば!(笑)
おなかがふくれたところで、消費すべくテクテクと町歩き。
新町通りから北に行って、前回行きそこねた五条代官所跡方面へ。
途中、有名な御餅屋さんの前を通ったら「閉店ガラガラ」とばかりに、
雨戸までもが閉まってて、本日の商売は終了してましたわ。
さっき素通りした時には、「饅頭類は売り切れです」「小餅あります」
と窓に貼ってあって、のしもち(丸餅かな)は残っているようでしたが、
この小一時間のうちに、御餅も売り切れちゃったようです。
ここは売り切れ終了のお店なので、絶対に欲しかったら
アサイチに来なくちゃいかんのだな。
次回は要チェックで。
五條代官所は現在の市役所。
現在史跡公園に移された五條代官所の長屋門だった建物は民俗資料館として、
天誅組に関する資料が展示されており、
それを見るたびに「わかんなかった天誅組の問題」と「賀名生皇居跡」の
400字問題が頭の中をグルグル巡り、またしてもギャー!(笑)
史跡公園は現在の五條家庭裁判所の一角にありました。
家裁前から吉野川方面を臨むと、道路でぶったぎれている橋脚跡。
またしても、五新線の跡です。
おお、そうだ~五新線ルート探索ツアーに出ねば~。
五新線は、五条駅を出て家庭裁判所の敷地の西をカーブして南下する進路だったそうで。
家庭裁判所から西へ行き、ちょっと道を登ると、どうやら分岐された鉄道が
走るはずだった道にでました。不必要なまでに広い十字路はその交差点。
以前ここらへんまでは国道側から登ってみたので、
こちら側からも橋脚跡も見れたはず…と思っていくと、
その当時は竹林が少しあった場所が、
今回はボーボーになっていて金網もあって、先へは進めなくなっていました。
とりあえず行ける所まで進んでみると、
銀河鉄道999の鉄道が切れた先…みたいになっています。
先が続いていたらどうなっていたんだろうなあって思うばかり。
そこまで見たら、また新町通りに戻って、町なみ伝承館や鉄道ジオラマ館(私設)などを見て、
通りを西へと進みます。素敵なたたずまいの旅館が見えてきたら、
その手前のお寺が松倉重政のお墓のある西方寺。
元々は郡山の筒井家の家臣だったものが、のちに大名となり、
二見に配されたとき、紀州街道の交通の要所たるこの地に、
商売の規制緩和をとり、商人や商品を集めさせ、新たな街づくりをしたのがこの人。
それゆえに、この人は、人々にとても慕われていたそうな。
(鈴木源内しかり、松倉重政しかり、五條の人は良い人ばかり?)
お隣の山田旅館は素泊まり宿や、喫茶店として開いているというはずでしたが、
当日は喫茶としても開いてないようで、ちょっと残念。
そこから道が上り坂になっていて、道なりに歩いてきたらすでに二見駅前の看板。
あー、一つ重要な見学ポイントを忘れている~と慌ててちょっと戻り、
二見の大ムクを見に行きます。
これ、奈良検定のビッグ見学ポイントなのだ~。
五條のHPにも場所が載ってないので、グーグル地図で場所を割り出して、
郵便局の先の…お屋敷…おお、あったあった!
大きな蔵のあるお家の敷地内に、巨木がどどんと…。
樹齢は千年ほどで、伊勢湾台風の際に先端の方が折れてしまったそうです。
それでもなんとか2008年くらいには、木の体裁はととのっていましたが、
今回の訪問では、特に今は葉っぱのない寂しい時期でもあるので、
葉っぱがある時期に比べて非常に寂しい状態。
でもこれ、国指定の天然記念物なので、邪険にするわけにもいかない。
ただ、フツーのおうちとは違って、こんな大木がここにあっても、
別に邪魔になるふうでもないほどの広大なお屋敷なので、
ここにあっても、大丈夫なんでしょうね。
ということで、本日の予定はすべてクリア。
午後は一度お茶を飲もうと思っていたけど、
山田旅館以外に新町通りには適当なところがなかったから
予定よりも早い時間でお開きとなりました。
JR大和二見駅は奈良で最南の駅。
すぐ次の駅からはもう和歌山県です。
県境としてはまだまだ南に領域はありますが、鉄道ではここらへんが最南端。
西のはずれに来ちゃったな~。
奈良県は広いなーということを実感するところでした。
大和二見から電車に乗ったら、
五新線の橋脚跡とか、
迷いに迷った極楽園墓地@代官所の皆様のお墓とか、
榮山寺へ向かう途中で見えたマツヤデンキとか(?)が見えて、
雰囲気は壷阪山駅からの眺めに似ていました。(なんのこっちゃ)
近鉄とJRの乗り換えは吉野口駅で。
そこから東へ向かえば下市・吉野方面。
そっち方面と割と近い気がしたのは、帰り道だからか?
また歩きたいな~五條。
これで五條新町は二度歩いたし、宇陀松山も二度歩いた。
となれば、久しぶりに今井町も歩きに行かねばならんかな。
「今井町は、八木西口で降りると便利」などと400字問題のようなことを云いつつ、
電車は八木駅に着き、なぎさんとはそこでお別れして、
わたしはひたすら鈍行(否、快速急行)で名古屋への道を目指したのでした。
次の400字問題実践の旅は「葛下川」にでもするべ?(はっはっは★)
久しぶりに高低差のほとんど無い、歩け歩け会でした。
試験翌日は「現地実習」です。
今回のお題は「五條(新町)」
五條新町は2011年のソムリエの400字問題の一つとして出題済み。
試験翌日歩きの会は、そういうところを選んで行っている様な気もしなくも無い…。
2011年出題の「烏土塚古墳」は自分が1級受験した2011年の試験翌日に歩いたし、(出題予想的中?)
2010年出題の「柳生家老屋敷」は自分がソムリエ受験した2012年の試験直後に歩いたし。
こういうのは今まで自分が体験したことがないところを歩いてみる、
というチャンスになるため、この400字ってのも役立ってます。
まあ、五條新町および五條の町ってのは前に一度歩いたことがあるのですが…。
節分のときに、智弁さんの本拠地に行ってみようと思って歩いた時。
でもあの時は、雪が降ってて寒くて、あんまり動かなかったので、
行き逃したところがたくさんありまして。
いつかはリベンジしたいと、前々から再訪を狙っていた所。
でも、奈良市内からはビミョーに遠い。
奈良県民だった頃はそれほど苦ではなかった移動も、
田舎から”上京”して、さら五條となると結構移動だけでも大変なのだ。
(あ、東京から、五條行き高速夜行バスってのがあるので、
逆に東京方面から来る人は一日丸マル五條をウロウロできるかと…)
ちゅうことで、今回はここをチョイスしてみました。
★
この日は朝ごはん7時!
8時にはすでに歩き始めて五條をウロウロしてました。
お宿は駅前にあったんだけど、まずは近場から…と思って歩き始めると、
そこは昔ながらの商店街。そして道は細く、入り組んでいて、
地図を頼りに歩くと…「道」は路地以下。
猫道のような細さだったり、「これは道なのか?」状態だったりして、結構スリリング(笑)
道なりに歩き、道なりに下っていくと、出てきたのが「乾十郎顕彰碑」
行くべきところは地図にチェックマークを入れておいたものの、
乾十郎氏については天誅組の人だよねっていう知識だけで、不勉強のまま。
こんなソムリエダメじゃん!
乾十郎氏は、五條出身の医者。
天誅組が五條代官所を襲撃~桜井寺を本陣とする際に、
手はずを整えたがこの人らしい。
吉野川に放流する材木に課せられる材木税を不当として
紀州藩に撤廃を談じ込み成功させたり、
容認はされなかったものの吉野川の水を大和平野に疎通させて
灌漑設備を整えようと上書したりしたらしい。
五條に来るのに天誅組を予習してこないのは間違っているだろうがあ(反省)
とりあえず、こうやって復習を兼ねて、勉強しなおしてますけど。
次は、そこからすぐ下方に見えている「統神社(すえじんじゃ)」
統神社のあるあたりは須恵町といい、その名の通り須恵器の製造が行われていたらしい。
須恵→統(すべ)という文字の変遷があった模様。
ここでなぎさんがスゴイ発見を!
神社の石段の脇の石垣が、丸石ではなく、とがった石が埋め込まれています。
(写真はなぎさんのところでチェックして下さいね)
そう云われてみれば神社内のいたるところの石組みに、とがった石が
使われています。おおお、これってすぐ近くを流れる吉野川(紀の川)からの石か?
そこから国道に出て西へ向かうとすぐ桜井寺。
桜井寺といえば、天誅組が五條代官所を襲撃して、この寺に「五條御政府」の本陣を張ったところ。
奈良検定のテキストや、ガイドブックなどでは門構えはたびたび見ていましたが、
こんなに交通量の多い国道の脇に立っているとは思わなかったのでちとびっくり。
中に入ってみると…どこもかしこもコンクリート造り…。
それでも境内には、討ち取った鈴木源内代官の首を洗ったという手水鉢があり、
その場がかつて戦場だったことを思い起こさせます。
現在は国道24号線がすぐ脇を走り、こじんまり(?)とした寺域ですが、
かつては国道をまたぐほどの広さであったといわれ、
国道が現在のルートとなった時にその当時のお堂は撤去されてしまったそうです(なにぃ~!)
次は、その代官さんたちを葬ったとされる墓地へ。
ここでも予習不足のワタクシ、墓地へはたどり着いたものの、墓石の位置がわからん。
それというのも、想像していた墓地の大きさが思ったよりも広大だったから。
代官さんたちの墓は、代官さんたちを偲んで当時の地元民さんたちが建てたらしい。
それくらい代官さんは民に慕われていたらしい。
五條代官の襲撃は、よくある「悪代官を討った」というものではなく、
たまたまその時、代官の職にあった彼が「打つべき相手=徳川側の人間の代表」として
そこに赴任してしまっていたことが悲運だったわけで。
…とまあ、そんな知識のみで極楽寺墓地へ行ってみたところ、
こじんまりした墓所かと思っていたら、思いっきり、フツーの人の墓も林立している墓所でした。
しかも、現代になってからの墓というのは少なく、江戸や明治な感じの墓が多く、
市民墓地の一角だった模様。広すぎて、どこにあるのか判らんし、
墓地内もアップダウンが激しいし、墓地と通路の区別もつかないほどの混雑ぶり。
近所の方に聞いたり、この墓所の一角に花屋さんをやっているおじさまに聞いたりして、
ようやくその場所がわかりましたわ。
(でもね、墓所の端まで道なりに降りていったら、でっかい看板に
「この墓地に眠る有名人」みたいな看板を発見しました…)
幕末あたりの五條ゆかりの人が結構ここに眠っているようです。
代官所の皆様は一画に集めて葬られており、
ライオンズクラブの皆様の手によって建てられた木の柵が目印です。
その柵がなかったら、全然判らないほどひっそりと建っているので、要注意です。
次は時間短縮のためにタクシーをおごって榮山寺へ。
榮山寺へはいつも冬に来るな~とかしみじみしてしまったよ。
吉野川沿いに建つ榮山寺は、藤原武智麻呂の創建の古刹で、
藤原仲麻呂が父・武智麻呂の追善供養として創建したという八角円堂が残る美しい寺。
奈良から遠く離れた鄙びたこの地で、こんな美しい円堂が残っているなんて素晴らしいですね。
前に来た時は扉が開いていて、雪が横殴りに降っていたので、
幻想的な光景に出くわしましたが…。
でも今年も負けず劣らず寒い。
冬枯れの感じがますます詫び寂びな感じです。
本当は武智麻呂の墓(といっても改葬墓だけど)まで行ってみたかったんだけど、
墓はこのお寺の裏手の山の上にあるとのことで、
今日は時間的にちょっと厳しいかな…ということでパス。
また気候の良いときにでも来ましょう。
次はバスで御霊神社へ行くためにバスに乗り換え。
国道まで戻る間、脇を流れているのが吉野川。
ここらへんの川は本当にきれいで、瑠璃色そのもの。
そして岸辺はごつごつした岩石が露出していて、
この岩を拾ってきて基壇やら、石段や、石組みやらに利用したんでしょうな。
(榮山寺の基壇にも、ごつごつ岩が使われていましたわ)
国道のバス停でバスを待ち、やってきたのが「特急新宮駅」キャー♪
日本一長い距離走る路線バス>八木新宮バス。
大和八木から和歌山県の新宮までの間を167個のバス停でつなぎ、
6時間30分かけて走る「路線バス」
「特急」と名はついていますが、特急料金は必要なく、
地域の人の足としても利用されています。
奈良交通に問い合わせてみたら、路線バスと同じように利用できるとのことなので、
時間短縮のために、利用してみました。
ってか、時刻表を見てみたら、一日に三本しかないバスなのに、
これが見学時間とのからみでちょど使えそうだったので、乗ってみたわけ。
狙って乗るのは難しいけど、偶然使える時間帯だったのがラッキー。
というか、これに乗れるように早起きしたんですけどね。
タクシーで来た道をバスで戻り、五條バスセンターでトイレ休憩(笑)
そののち、五条駅で乗客を拾って、目的路線へ戻ります。
地元の人の足としてそこそこ乗っていますが、
我々が降りた「霊安寺」バス停から先は乗車人数の極端に減ります。
「新宮めざすぜ!」って感じの人も乗車されていました。
「霊安寺」は「御霊神社」の神宮寺。
でも我々の目指すは、その「御霊神社」です。
奈良で御霊神社といえば「井上皇后」と「他戸親王」は外せないご祭神。
井上皇后は称徳天皇亡き後即位した光仁天皇の皇后。
天武天皇系の血筋から天智天皇系の皇子に皇位継承のお鉢が回ってきた即位で、
彼としては棚ぼた(?)即位。
井上皇后は内親王(聖武天皇の娘)の頃に伊勢の斎宮を経験し、
年とってからの婚姻で、光仁天皇の即位にともなって皇后となった人。
しかし、それを快く思わないのが藤原百川。
自分の推す山部親王をなんとか次の皇太子にしたいがために、
こともあろうに皇后と親王を陥れたとされます。
皇后が自分のオットである天皇を呪詛したという、
なんともはやアヒャヒャなことを敵対勢力は言い出します。
皇后の地位ってのは、天皇あってのものなんだから、
天皇が失脚すればその后だってその地位を奪われるのに。
なんでそんなことをする必要がある?
都を遠く離れた宇智郡(五條)に幽閉された皇后と親王は、
同じ日に急死したとされますが、そんなの誰が信じますかいな。
ザクっとやられちゃったに決まっています(をい)。
その後何が起こったかはご存知の通り。
良くないことが立て続けに起こります。
慌てた首謀者たちは、これは彼らが祟っているんだーと信じ、
ナムナムパンパンして神様と祀り上げてしまいましたとさ。
(自分が貶めておいて、神様にしちゃうって、すごいメンタリティなんだけど)
そして五條には「御霊神社」があちこちにある。
何を隠そう、奈良検定のテキストにも二つ載っているのだが、
五條市内にはざっと20箇所もの「御霊神社」があるのだそうで。
その原因は、鎌倉時代の豪族同士の争いの中で、
あちこちに御分霊が祀られることとなったためだそうで。
(あいつのパンパンしてる神社には、自分は参りたくないから、
別の社を建てちゃおうってこと?)
その中でも、この霊安寺町の御霊神社が最初のお社、元祖御霊神社なのだそうです。
で。
「おーこわ、こわ」とかいっていたら、
お賽銭の財布を取り出したあと、カバンのファスナーが閉まらなくなってしまい、
うんともすんとも云わなくなる。ギョエー!
「きゃー、祟りとかいっていたバチが当たった?」
とか涙目。とりあえず御参りを済ませることにしましたが…。
(帰宅後、なぎさんのご進言のとおりのことをしたら、
難なく、するりと直りました。えがったえがった)
鳥居からすぐに拝殿が見えるかたちなので、
おどろおどろしさはありませんが、
なんだか由緒を知って訪ねているせいか、境内全域が静謐な感じはします。
そして、御霊神社に別れを告げて、小高くなった土地から道なりに国道へ降りてゆくと、
見えてきたのが野ざらしの橋脚。
「あ!」
五新線の橋脚です。
新町側の遺構は探して見に行ったことがあるものの、
こちら側の遺構は見に来てなかったので、ちょっと興奮。
国道でぶった切れている橋脚「跡」の先には、吉野川が流れていて、
五條新町のあたりから川をまたいで、こちらへと続く「予定」でした。
鉄道の需要を見込んでの、五條と新宮を結ぶはずだった新路線は、
戦争やその後の世の中の変化で、建設は途中まで行われたものの断念。
開通することなく廃線が決定しました。
道をくだっていくと見覚えのある風景。
そうそう、ここから五新線の敷設されるはずだったルートを利用しての、
専用バス道がここから続いていくという場所でした。
歩きでその先を進んでいくことは出来るようですが、
自家用車での侵入は禁止されている道路で、
線路が走るはずだったルートに、現在は奈良交通のバスのみが走るバス専用道。
今回は偶然ではありましたが、新宮行き特急にも少しは乗れたことだし、
今度はこちらのルートでいけるところ(城戸という所)まで乗ってみようかな。
何気に乗り鉄でもあるし、乗りバス好きでもあります>わたし。
それから県立五條病院の手前から住宅街の中をテクテクして、金剛寺へ。
ここは花の寺二十五ヶ所の第23番。
春はボタン、秋は菊、がキレイとの話ですが、以前訪れた時も節分ですから…。
次回こそは花がある時期に来たい!
以前訪問した時は住職さんがつきっきりでご説明してくださいましたが、
今回はおかーさん(?)が一人で留守番をしていて説明をしてくださいました。
しかし、ここ花の寺の名にふさわしく、あげてもらった堂内の室礼がいつも素敵で、
あちこちに花が活けてあって、お庭の花がない時期にもかかわらず御花を堪能できました。
萱葺の庫裡、瓦葺の本堂と、観音堂が階段状に立ち並び、
中の仏様も多種多様…のーんびり、菊寿司(予約要)でもたべながら、
花を愛でて、のほほーんとできるような頃に、又来たいもんです(そればっかり)
そこからは徒歩で五條新町へ移動。
吉野川をまたぐ大川橋を渡っていきます。
この時期は水の量が少なくて、川幅は狭く、かえって橋の長さが強調されていますが、
途中河川公園で面白いものを発見。
「男性用」「女性用」「身障者用」のトイレがプレハブ風で置かれているのですが、
その建物の下にはタイヤがついていて、動かせるようになっています。
「???」
と思ったものの、
「そういえば、川が増水して、トイレ水没したら大変なことになるよね?」
「きゃー、便器のみならず、壁まで水没?!」
「あ!だから水没しないように、タイヤ付き移動トイレなのか!」
スゴイ、目から鱗の発見でした。
(違う理由だったりして…)
橋を渡りきった当たりから五條の新町通り。
ここらへんは、古い商家がたくさん残っています。
なかでも、五條新町の入り口に添って立っている栗山邸(県指定重要文化財)や、
そのお向かいの中家住宅(県指定重要文化財)、
少し北にある栗山家住宅(国指定重要文化財)などなど、
江戸の香りが残る商家町にふさわしい家が並んでいます。
とりあえず新町探索の前にご飯を食べようということで、
町屋を改造してレストランにしている「源兵衛」にてランチ。
地元の野菜を契約農家さんから仕入れているこだわりの食材のようで、
ドカンと大皿に盛った「本日の野菜」をテーブルに持ってきてくれて、
それを見ながら説明を受けて、美味しくいただきました。
スゴイびっくりしたのが、昔ながらの製法で作られた蒟蒻を、
てんぷらにしたもの。甘い味がついていて、熱々で、ハフハフうまうま♪
あれだけお代わりしたいくらい美味でしたわ。
「今度は筍の新モノが出たらまた…」とお誘いをいただきましたので、
また行かねば!(笑)
おなかがふくれたところで、消費すべくテクテクと町歩き。
新町通りから北に行って、前回行きそこねた五条代官所跡方面へ。
途中、有名な御餅屋さんの前を通ったら「閉店ガラガラ」とばかりに、
雨戸までもが閉まってて、本日の商売は終了してましたわ。
さっき素通りした時には、「饅頭類は売り切れです」「小餅あります」
と窓に貼ってあって、のしもち(丸餅かな)は残っているようでしたが、
この小一時間のうちに、御餅も売り切れちゃったようです。
ここは売り切れ終了のお店なので、絶対に欲しかったら
アサイチに来なくちゃいかんのだな。
次回は要チェックで。
五條代官所は現在の市役所。
現在史跡公園に移された五條代官所の長屋門だった建物は民俗資料館として、
天誅組に関する資料が展示されており、
それを見るたびに「わかんなかった天誅組の問題」と「賀名生皇居跡」の
400字問題が頭の中をグルグル巡り、またしてもギャー!(笑)
史跡公園は現在の五條家庭裁判所の一角にありました。
家裁前から吉野川方面を臨むと、道路でぶったぎれている橋脚跡。
またしても、五新線の跡です。
おお、そうだ~五新線ルート探索ツアーに出ねば~。
五新線は、五条駅を出て家庭裁判所の敷地の西をカーブして南下する進路だったそうで。
家庭裁判所から西へ行き、ちょっと道を登ると、どうやら分岐された鉄道が
走るはずだった道にでました。不必要なまでに広い十字路はその交差点。
以前ここらへんまでは国道側から登ってみたので、
こちら側からも橋脚跡も見れたはず…と思っていくと、
その当時は竹林が少しあった場所が、
今回はボーボーになっていて金網もあって、先へは進めなくなっていました。
とりあえず行ける所まで進んでみると、
銀河鉄道999の鉄道が切れた先…みたいになっています。
先が続いていたらどうなっていたんだろうなあって思うばかり。
そこまで見たら、また新町通りに戻って、町なみ伝承館や鉄道ジオラマ館(私設)などを見て、
通りを西へと進みます。素敵なたたずまいの旅館が見えてきたら、
その手前のお寺が松倉重政のお墓のある西方寺。
元々は郡山の筒井家の家臣だったものが、のちに大名となり、
二見に配されたとき、紀州街道の交通の要所たるこの地に、
商売の規制緩和をとり、商人や商品を集めさせ、新たな街づくりをしたのがこの人。
それゆえに、この人は、人々にとても慕われていたそうな。
(鈴木源内しかり、松倉重政しかり、五條の人は良い人ばかり?)
お隣の山田旅館は素泊まり宿や、喫茶店として開いているというはずでしたが、
当日は喫茶としても開いてないようで、ちょっと残念。
そこから道が上り坂になっていて、道なりに歩いてきたらすでに二見駅前の看板。
あー、一つ重要な見学ポイントを忘れている~と慌ててちょっと戻り、
二見の大ムクを見に行きます。
これ、奈良検定のビッグ見学ポイントなのだ~。
五條のHPにも場所が載ってないので、グーグル地図で場所を割り出して、
郵便局の先の…お屋敷…おお、あったあった!
大きな蔵のあるお家の敷地内に、巨木がどどんと…。
樹齢は千年ほどで、伊勢湾台風の際に先端の方が折れてしまったそうです。
それでもなんとか2008年くらいには、木の体裁はととのっていましたが、
今回の訪問では、特に今は葉っぱのない寂しい時期でもあるので、
葉っぱがある時期に比べて非常に寂しい状態。
でもこれ、国指定の天然記念物なので、邪険にするわけにもいかない。
ただ、フツーのおうちとは違って、こんな大木がここにあっても、
別に邪魔になるふうでもないほどの広大なお屋敷なので、
ここにあっても、大丈夫なんでしょうね。
ということで、本日の予定はすべてクリア。
午後は一度お茶を飲もうと思っていたけど、
山田旅館以外に新町通りには適当なところがなかったから
予定よりも早い時間でお開きとなりました。
JR大和二見駅は奈良で最南の駅。
すぐ次の駅からはもう和歌山県です。
県境としてはまだまだ南に領域はありますが、鉄道ではここらへんが最南端。
西のはずれに来ちゃったな~。
奈良県は広いなーということを実感するところでした。
大和二見から電車に乗ったら、
五新線の橋脚跡とか、
迷いに迷った極楽園墓地@代官所の皆様のお墓とか、
榮山寺へ向かう途中で見えたマツヤデンキとか(?)が見えて、
雰囲気は壷阪山駅からの眺めに似ていました。(なんのこっちゃ)
近鉄とJRの乗り換えは吉野口駅で。
そこから東へ向かえば下市・吉野方面。
そっち方面と割と近い気がしたのは、帰り道だからか?
また歩きたいな~五條。
これで五條新町は二度歩いたし、宇陀松山も二度歩いた。
となれば、久しぶりに今井町も歩きに行かねばならんかな。
「今井町は、八木西口で降りると便利」などと400字問題のようなことを云いつつ、
電車は八木駅に着き、なぎさんとはそこでお別れして、
わたしはひたすら鈍行(否、快速急行)で名古屋への道を目指したのでした。
次の400字問題実践の旅は「葛下川」にでもするべ?(はっはっは★)
久しぶりに高低差のほとんど無い、歩け歩け会でした。