きたまちランチののち、奈良女子大の壁を伝って歩き(比喩です)、
西へ向かって一路称名寺(しょうみょうじ)へと。
ここは年に一度、5月15日にしか公開してないということで、
いまだ中へ入ったことはなく、今日を逃すとまた来年なので、行きますっ!
称名寺は菖蒲池町にある西山浄土宗のお寺。
お寺のはじまりは、興福寺の学僧であった専英・琳英兄弟が、
常行念仏の道場として、文久2年(1265)に創建したことによる。
当初は興福寺の北に位置し、興福寺の別院ということで、
興北寺(こうほくじ)と称し、室町時代に現在の地に移転。
四宗(浄土宗、法相宗、天台宗、律宗)兼学の寺としてきたけど、
明治の廃宗の令により、興福寺から離れて現在は浄土宗のお寺。
このお寺を有名にしたエピソードは、茶の湯の祖として有名な
村田珠光がこの寺で出家したとされること。
村田珠光は、室町時代中期の茶人。
侘び茶の祖といわれているけど、
この方、僧侶でもあったんですね。
村田珠光は現在の奈良市中御門町で生を受け、
十一歳で称名寺へ預けられる。
父は検校の村田杢市。
検校とは、中世・近世では盲官(盲人の役職)の最高位の名称。
でも村田珠光の時代には、庶務係、もしくは庶務部長の役職名だったそうです。
ということは、役人の息子であったものが、お寺に預けられたと。
しかし、珠光は二十五歳頃一旦還俗して(坊さんをやめ)、京都へ。
そこで茶の湯を学んだんだとか。
その後、大徳寺に入り(え?また僧侶に復帰?)、
一休宗純(とんちで有名な一休さん)に禅を学び、
一休さんから円悟克勤(えんごこくごん・中国宋の臨済宗の僧)の
墨蹟(掛け物)を授けられたといいます。
そして珠光は喫茶に礼式を興し、「茶の湯」「茶道」というものを完成させる。
足利八代将軍義政(銀閣寺を建てた人として有名)も珠光に茶道を学び、
茶と珠光にはまったらしい。
その証拠に義政は、六条堀川に珠光のための庵を贈り、それを「珠光庵」とした。
珠光は文亀2年(1502)5月15日に還化して大徳寺に葬られるとともに、
奈良・称名寺にも分葬されたとのこと。
…ということで、5月15日が珠光忌と呼ばれ、
この日に称名寺で法要が行われるというわけです。
珠光が何故「侘び茶の祖」と呼ばれるのは、
茶道は質実にして敬と礼を重んずべきことを説き、
侘び茶の基礎を確立したことによる、んだとか。
珠光が立てた礼式作法は、武野紹鴎から千利休を経て、今日に伝わってます。
現在まで続いている茶の湯の各流派はすべて村田珠光を祖としているので、
茶の湯の祖と呼ばれることに。
以上はにわかなお勉強によります(汗)
※間違っていればご指摘下さい。
★
さて、称名寺へ到着。
門構えの前までは来たことがあるけれど、
普段は非公開なので中までは入ったことはなし。
でも今日は年に一度の公開日なので、
遠目で見ていたら、ちらほら入っていく方が見えます。

普段非公開です

現在の本堂

こちらから若草山も見えます(昔はもっとよく見えたでしょう)
千円払って珠光忌のチケットを頂きました。
これで本堂とお茶室を拝見できて、お茶もいただけるらしい。
本堂へ入るとそこそこ混んでおりましたが、
末席に加えていただけることに成功。
(足の悪い人用に椅子もありましたが、少なし。
わたしは畳に直座りです)
本当のことをいうと、もっと混雑しているのかと思っていました。
だって、茶の湯の祖ってことなので、お茶やっている人にとっては
大おっしょさんなわけだからして。
各流派あげて人がわんさか押し寄せるのか?入場制限ありなのか?!
とかとか思いましたが、そんなこともなく。
とりあえず、座る場所も、足の踏み場も確保。
13時から法要ということで、縁もゆかりもないのですが、参加させていただきます。
これも「縁」のうちですから。
まずは心地よい読経を聞きながら、
途中では般若心経を一緒にあげ、
「宗派の違いもあるでしょうが、もしよろしければご焼香を」と勧めて頂きましたので、
前の人にならって焼香をさせていただきました。
その後、ご住職さまよりお話。
「諸般の事情から普段は閉めさせていただいておりますが。
従業員二名で細々とやっております」
というのもご住職さまと奥様で二名という企業なんですが(^^)
その奥様が体調を崩されたとのことで、
今年の法要も危ぶまれたけれども、
何とかあげさせてただけましたとのこと。
また来年もこういう機会がありますように。
ここのご本尊さんは阿弥陀如来さん。
この像にはモデルがおり、そのモデルとは真如法親王だそうです。
真如といえば、高岳親王(たかおかしんのう)の出家後の名前。
高岳親王の父は「あの」平城天皇。
奈良が恋しくてたまらなかった平城天皇@桓武天皇のムスコ。
父・平城天皇が病で譲位して、嵯峨天皇が即位すると、
高岳親王(真如)は皇太子に立てられる。
しかし翌年起こった薬子の変に伴い、皇太子を廃された。
薬子は平城天皇お気に入りの女性で、
この人が実兄とともにまつりごとを引っかき回し、
ビョウキが治った平城上皇が天皇の復帰を目指して
「都を平城京に戻す!」宣言。
これに対して現天皇の嵯峨天皇は、その動きを封じるために対処し、
そのすったもんだが、薬子の変。
結果、藤原兄は処刑され、薬子は自害。
平城上皇は仏門に入りましたとさ。ちゃんちゃん。
そして嵯峨天皇の皇太子だった高岳親王は、父(平城上皇)に連座して
廃太子となり、これまた仏門へ。
しかし、出家した方がこのひと(高岳親王)にはよかったのかも(?)
出家後は弘法大師の弟子として修行して高僧となられたようなので。
空海は薬子の変の際に、変の終息を祈って祈祷を依頼された人です。
その人の弟子となったってのは、どのような経緯があったのか。
だって、空海は嵯峨天皇のお気に入りでしょ?
(空海に東寺をプレゼントしたのも嵯峨天皇だし)
まあ、寄らば大樹の陰ってか、当時一番力のある僧侶に弟子入りするってのは、
彼が生き残るためには必要だったのかもしれないけど。
しかし、そんなあれやこれやのしがらみはおいといて。
真如は熱心に修行し、やがて空海の十大弟子の一人に名を連ねることに。
空海が入定の際には、高弟のひとりとして遺骸の埋葬に立ち会っているそうです。
そして貞観4年には唐にわたり、その後天竺を目ざす途中、客死したらしい。
(なんでも虎に食べられて死んでしまったとかいう説があるようですが…)
>>>なんてハナシは、なかったのですが(ここらへんは常識?)
>>私は常識が不足しているので、後付けで勉強してみた結果が以上のあらすじ。
ま。
『悲劇のヒロインはええオトコてことですな』
(そこはヒーローではないかと…?とちょっとツッコミ)
珠光さんは『闘茶』『聴茶』が大好きで、
ここ(称名寺)からおん出されたとかも聞いたような…。
自分から出て行ったのではなく、おん出されたのか。
『闘茶』『聞茶』は中世に流行した、茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び。
どうも修行よりも、お茶が好きだったようですね。
となれば、ここを出て、京都でお茶三昧していた(?)ってのも無理からぬことなのかも。
で、お話は茶室のことへ。
お茶室は十八畳→十二畳→六畳→四畳半とドンドン小さくなってきたけど、
四畳半ってのは正方形のお部屋。
これは、お寺(方丈)が正方形だってことによるんだとか。
へーなるほど。
「一年に一度のご縁です。茶のもてなしもありますので、
どうぞごゆっくりしていってください」
ということで、あちこち見学させていただいたり、お茶を頂いたりしました。
まずは本堂向かって左の渡り廊下を進むと、現代に建てられた客殿。
そこでお茶を一服いただきました。
畳のお部屋ですが、椅子席になっており、正座は不用。
お茶を立てる方も椅子席ってことで、これは立礼(りゅうれい)ってことでいいのかな?
(立礼は裏千家発祥だそうだけど)

お茶室で一服いただきます

庭から建物を望むとこんな感じ
こういう席は慣れてないもんで、本当にこころもとない。
茶のいただき方くらい心得ておいた方が恥かかないと思うんだが、
いつも思うだけで終わってます。(ダメじゃん)
お隣の方を真似て、いただきますして…とかやっていると
お茶の味もわからないほど緊張しちゃうしなあ。
それでも、今回は銘々にお渡しいただけるお茶碗だし(1月にお茶飲んだ時は大茶碗だった)
お菓子も懐紙不用の、お皿にのった餅飯殿の萬々堂さんの「もっとの」だったし。
大変おいしゅうございました。
このお皿、このお茶席様に焼かれたもので『称名寺』って入ってます。
おおう、と思っていると「ご住職のご好意により、
お皿はみなさまお持ち帰りいただけます」って益々おおぅ。
しっかり紙に包んで持ち帰らせていただきました♪
一服の後は室内をあちこち拝見。
お茶のお道具もいろいろあったのですが、
床の間方面をあれこれ見ている間に片付けられてしまい、
ちらっとしか見ておりません(汗)

とりあえず”お品書き”の写真だけは撮ってきた
その後は、本堂へ戻ってきて内をぐるっと回らせていただきます。
ここのご本尊は前出のとおり、厨子に入った阿弥陀如来。
光烟光佛と称する秘佛で、真如法親王化身の霊像と伝わるもの。
これに左に弥陀如来・右には釈迦如来を配してお祀りしています。
弥陀如来は定朝様の美しさで、お口は小さく感じよし。
釈迦如来は胸板が厚く、口は真一文字でデカい。
光烟光佛はかなりの秘仏だそうで、
「次の公開はいつですか?」とうっかり聞いてしまったら、
「あ~、お寺さんの代替わりの時に公開されるってことで、
あんまりお寺さんにゆうたらあかんねん」とは檀家さんの弁(ありゃ★)
現在の本堂自体は享和2年(1802)に再建されたもの。
それでもそこそこ古い(奈良の尺度でいえば、200年前なんて…って感覚だけど)
外陣の四隅には、現代に奉納されたカラフルな四天王がいたりとか、
天井付近から吊るされた籠とか、あちこちに面白いものも点在。
堂内は普通撮影禁止なので、写真撮るのは遠慮していたのですが、
撮っても良かったのかな?
とりあえず、当日の様子は→こちらのブログで写真がみられますよ。
本堂をおいとまして、外へ出て、次はお茶室へ。
あの有名な「どくろあん」の方へ。

独蘆庵の入り口
耳で聞くとドクロドクロしい(?)のですが、
漢字で見ると違います。
獨盧庵(どくろあん)
自分をかえりみるという意味で、獨盧庵なのだそうです。
(あまりにも音(おん)がドクドクシイので、どうしてもあちらが浮かぶけど)
このお茶室も文化年間(1800年頃)の再建のもの。
なにやら話し声が聞こえてきたと思ったら、
ご住職さまが説明をしておられました。

内部

にじり口
ここ、実はカラクリがあって、三畳のお茶室としても用いられるように作られているとのこと。
この茶席は四畳半だけど、移動式の敷居と壁と障子を用いて、
三畳と一畳半に仕切れるように工夫した特殊な構造となっています。
なんでこんな仕掛けがあるかというと。
”エライさん”が来た時は、お付の人(現代風にいえばSP)もついてこねばならなかった。
そのSPまでも茶室に入れたんでは、雰囲気が悪くなる(ははは)
(ムクツケキ屈強な男がいかめしい顔して睨んでいる光景を想像していただければお判りいただけるかと)
そこで、一畳半分のスペースを区切って作った、小さい部屋にちんまりとSPは控えており、
エライさんは床の間があるほうの茶室スペースで茶を頂くと。
「どうやって区切っていたのですか?」
「ほれここ、このとおりです」
一畳半の畳と三畳の畳をわけるかのように敷居があって、
そこに天井から飛び出ている棒。
普段はここを開放しているけど、イザというときには、
この棒に別の棒を継ぎ足して、柱とし、壁をはめ込んで、
即席の壁を作るんだそうです。

横に一畳半の畳の部分。ご住職の顔の前の棒に、つっかえ棒(?)を足して仕切りにします
今であれば、パーティーションとかでパタパタ区切れるようになっている部屋はありますが、
この当時にこのような設備があったとは。
「こういう部屋に仕立てることはよくあるのですか?」
「うーん、今までに私も三度くらいしかないですな。こうやって組み立てるの面倒やから」
あー、確かにそうかも。
できるとはいっても、なかなか面倒そうだし。
お付きの人も、一畳半の部屋で息を殺して正座していたら、
イザというときに立ち上がれないかも…(笑)

茶室の外側(石臼?)

珠光の碑

お庭のトウロウとつくばい

つくばいの右手のこれが珠光採泉の井戸かな?
こじんまりとして、本当に質素なよいお茶室でした。
茶室は山門入って左手にあるのだけど、生垣などで囲われていて、
その存在がおおっぴらじゃないとこもまた良し。

お手植え(?)の竹の石碑…だけどこの竹は近年植えられたもの。
※ご住職さまに聞いたところでは。
元々生えていた場所から諸般の事情により、現在の場所に移植したそうです。
茶室をおいとまして、本堂まえに戻ってきて。
本堂向かって右側奥には、たくさんの石仏。
千体仏といえば、御所の九品寺が有名ですが、ここも負けず劣らず凄い数。
(なぜかわたし写真を撮ってないんだ…)
それでも一枚はこんな感じ

「歯痛地蔵」と「腰痛地蔵」
屋根付なのは特別待遇?
何故ここに大量に石仏があるかといえば、ほらあれです。
大和の仏教界に多大なる被害を与えた暴れん坊・松永久秀が多聞城築城の際に
「石持ってこーい!なんでもいいから、石持ってこーい!!」という号令で、
大和のあちこちから石集めが行われた時のこと。
文字通り、石なら何でも式に持ち寄られて、
あちこちの石仏までもが城普請の石として持ち去られて集められたと。
しかし、そうまでして集められたものの、松永爆死の後、城はほったらかし。
城壁に使われた多数の石仏が散乱するさまに「あわれ」を感じた
称名寺第十九代観阿上人がこの地に集めて祀ったんだそうです。
その数、実に1900体。
千体地蔵と称されて信仰されてきたんだとか。
何故か写真を撮ってこなかった私はアホアホや…。
雰囲気はヨソさまのお写真で感じてください(汗)
石仏いっぱいの写真が拝めます
こちらの写真も大きくてキレイです。
なんか、称名寺は見るべき所が盛りだくさん過ぎて、
イッパイイッパイになってしまったようでした。
写真撮りそこねている所もたくさんあって…今思うと真っ青。
こうなったら、また行かなくっちゃだわ!(宣言)
(つづく)
西へ向かって一路称名寺(しょうみょうじ)へと。
ここは年に一度、5月15日にしか公開してないということで、
いまだ中へ入ったことはなく、今日を逃すとまた来年なので、行きますっ!
称名寺は菖蒲池町にある西山浄土宗のお寺。
お寺のはじまりは、興福寺の学僧であった専英・琳英兄弟が、
常行念仏の道場として、文久2年(1265)に創建したことによる。
当初は興福寺の北に位置し、興福寺の別院ということで、
興北寺(こうほくじ)と称し、室町時代に現在の地に移転。
四宗(浄土宗、法相宗、天台宗、律宗)兼学の寺としてきたけど、
明治の廃宗の令により、興福寺から離れて現在は浄土宗のお寺。
このお寺を有名にしたエピソードは、茶の湯の祖として有名な
村田珠光がこの寺で出家したとされること。
村田珠光は、室町時代中期の茶人。
侘び茶の祖といわれているけど、
この方、僧侶でもあったんですね。
村田珠光は現在の奈良市中御門町で生を受け、
十一歳で称名寺へ預けられる。
父は検校の村田杢市。
検校とは、中世・近世では盲官(盲人の役職)の最高位の名称。
でも村田珠光の時代には、庶務係、もしくは庶務部長の役職名だったそうです。
ということは、役人の息子であったものが、お寺に預けられたと。
しかし、珠光は二十五歳頃一旦還俗して(坊さんをやめ)、京都へ。
そこで茶の湯を学んだんだとか。
その後、大徳寺に入り(え?また僧侶に復帰?)、
一休宗純(とんちで有名な一休さん)に禅を学び、
一休さんから円悟克勤(えんごこくごん・中国宋の臨済宗の僧)の
墨蹟(掛け物)を授けられたといいます。
そして珠光は喫茶に礼式を興し、「茶の湯」「茶道」というものを完成させる。
足利八代将軍義政(銀閣寺を建てた人として有名)も珠光に茶道を学び、
茶と珠光にはまったらしい。
その証拠に義政は、六条堀川に珠光のための庵を贈り、それを「珠光庵」とした。
珠光は文亀2年(1502)5月15日に還化して大徳寺に葬られるとともに、
奈良・称名寺にも分葬されたとのこと。
…ということで、5月15日が珠光忌と呼ばれ、
この日に称名寺で法要が行われるというわけです。
珠光が何故「侘び茶の祖」と呼ばれるのは、
茶道は質実にして敬と礼を重んずべきことを説き、
侘び茶の基礎を確立したことによる、んだとか。
珠光が立てた礼式作法は、武野紹鴎から千利休を経て、今日に伝わってます。
現在まで続いている茶の湯の各流派はすべて村田珠光を祖としているので、
茶の湯の祖と呼ばれることに。
以上はにわかなお勉強によります(汗)
※間違っていればご指摘下さい。
★
さて、称名寺へ到着。
門構えの前までは来たことがあるけれど、
普段は非公開なので中までは入ったことはなし。
でも今日は年に一度の公開日なので、
遠目で見ていたら、ちらほら入っていく方が見えます。

普段非公開です

現在の本堂

こちらから若草山も見えます(昔はもっとよく見えたでしょう)
千円払って珠光忌のチケットを頂きました。
これで本堂とお茶室を拝見できて、お茶もいただけるらしい。
本堂へ入るとそこそこ混んでおりましたが、
末席に加えていただけることに成功。
(足の悪い人用に椅子もありましたが、少なし。
わたしは畳に直座りです)
本当のことをいうと、もっと混雑しているのかと思っていました。
だって、茶の湯の祖ってことなので、お茶やっている人にとっては
大おっしょさんなわけだからして。
各流派あげて人がわんさか押し寄せるのか?入場制限ありなのか?!
とかとか思いましたが、そんなこともなく。
とりあえず、座る場所も、足の踏み場も確保。
13時から法要ということで、縁もゆかりもないのですが、参加させていただきます。
これも「縁」のうちですから。
まずは心地よい読経を聞きながら、
途中では般若心経を一緒にあげ、
「宗派の違いもあるでしょうが、もしよろしければご焼香を」と勧めて頂きましたので、
前の人にならって焼香をさせていただきました。
その後、ご住職さまよりお話。
「諸般の事情から普段は閉めさせていただいておりますが。
従業員二名で細々とやっております」
というのもご住職さまと奥様で二名という企業なんですが(^^)
その奥様が体調を崩されたとのことで、
今年の法要も危ぶまれたけれども、
何とかあげさせてただけましたとのこと。
また来年もこういう機会がありますように。
ここのご本尊さんは阿弥陀如来さん。
この像にはモデルがおり、そのモデルとは真如法親王だそうです。
真如といえば、高岳親王(たかおかしんのう)の出家後の名前。
高岳親王の父は「あの」平城天皇。
奈良が恋しくてたまらなかった平城天皇@桓武天皇のムスコ。
父・平城天皇が病で譲位して、嵯峨天皇が即位すると、
高岳親王(真如)は皇太子に立てられる。
しかし翌年起こった薬子の変に伴い、皇太子を廃された。
薬子は平城天皇お気に入りの女性で、
この人が実兄とともにまつりごとを引っかき回し、
ビョウキが治った平城上皇が天皇の復帰を目指して
「都を平城京に戻す!」宣言。
これに対して現天皇の嵯峨天皇は、その動きを封じるために対処し、
そのすったもんだが、薬子の変。
結果、藤原兄は処刑され、薬子は自害。
平城上皇は仏門に入りましたとさ。ちゃんちゃん。
そして嵯峨天皇の皇太子だった高岳親王は、父(平城上皇)に連座して
廃太子となり、これまた仏門へ。
しかし、出家した方がこのひと(高岳親王)にはよかったのかも(?)
出家後は弘法大師の弟子として修行して高僧となられたようなので。
空海は薬子の変の際に、変の終息を祈って祈祷を依頼された人です。
その人の弟子となったってのは、どのような経緯があったのか。
だって、空海は嵯峨天皇のお気に入りでしょ?
(空海に東寺をプレゼントしたのも嵯峨天皇だし)
まあ、寄らば大樹の陰ってか、当時一番力のある僧侶に弟子入りするってのは、
彼が生き残るためには必要だったのかもしれないけど。
しかし、そんなあれやこれやのしがらみはおいといて。
真如は熱心に修行し、やがて空海の十大弟子の一人に名を連ねることに。
空海が入定の際には、高弟のひとりとして遺骸の埋葬に立ち会っているそうです。
そして貞観4年には唐にわたり、その後天竺を目ざす途中、客死したらしい。
(なんでも虎に食べられて死んでしまったとかいう説があるようですが…)
>>>なんてハナシは、なかったのですが(ここらへんは常識?)
>>私は常識が不足しているので、後付けで勉強してみた結果が以上のあらすじ。
ま。
『悲劇のヒロインはええオトコてことですな』
(そこはヒーローではないかと…?とちょっとツッコミ)
珠光さんは『闘茶』『聴茶』が大好きで、
ここ(称名寺)からおん出されたとかも聞いたような…。
自分から出て行ったのではなく、おん出されたのか。
『闘茶』『聞茶』は中世に流行した、茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び。
どうも修行よりも、お茶が好きだったようですね。
となれば、ここを出て、京都でお茶三昧していた(?)ってのも無理からぬことなのかも。
で、お話は茶室のことへ。
お茶室は十八畳→十二畳→六畳→四畳半とドンドン小さくなってきたけど、
四畳半ってのは正方形のお部屋。
これは、お寺(方丈)が正方形だってことによるんだとか。
へーなるほど。
「一年に一度のご縁です。茶のもてなしもありますので、
どうぞごゆっくりしていってください」
ということで、あちこち見学させていただいたり、お茶を頂いたりしました。
まずは本堂向かって左の渡り廊下を進むと、現代に建てられた客殿。
そこでお茶を一服いただきました。
畳のお部屋ですが、椅子席になっており、正座は不用。
お茶を立てる方も椅子席ってことで、これは立礼(りゅうれい)ってことでいいのかな?
(立礼は裏千家発祥だそうだけど)

お茶室で一服いただきます

庭から建物を望むとこんな感じ
こういう席は慣れてないもんで、本当にこころもとない。
茶のいただき方くらい心得ておいた方が恥かかないと思うんだが、
いつも思うだけで終わってます。(ダメじゃん)
お隣の方を真似て、いただきますして…とかやっていると
お茶の味もわからないほど緊張しちゃうしなあ。
それでも、今回は銘々にお渡しいただけるお茶碗だし(1月にお茶飲んだ時は大茶碗だった)
お菓子も懐紙不用の、お皿にのった餅飯殿の萬々堂さんの「もっとの」だったし。
大変おいしゅうございました。
このお皿、このお茶席様に焼かれたもので『称名寺』って入ってます。
おおう、と思っていると「ご住職のご好意により、
お皿はみなさまお持ち帰りいただけます」って益々おおぅ。
しっかり紙に包んで持ち帰らせていただきました♪
一服の後は室内をあちこち拝見。
お茶のお道具もいろいろあったのですが、
床の間方面をあれこれ見ている間に片付けられてしまい、
ちらっとしか見ておりません(汗)

とりあえず”お品書き”の写真だけは撮ってきた
その後は、本堂へ戻ってきて内をぐるっと回らせていただきます。
ここのご本尊は前出のとおり、厨子に入った阿弥陀如来。
光烟光佛と称する秘佛で、真如法親王化身の霊像と伝わるもの。
これに左に弥陀如来・右には釈迦如来を配してお祀りしています。
弥陀如来は定朝様の美しさで、お口は小さく感じよし。
釈迦如来は胸板が厚く、口は真一文字でデカい。
光烟光佛はかなりの秘仏だそうで、
「次の公開はいつですか?」とうっかり聞いてしまったら、
「あ~、お寺さんの代替わりの時に公開されるってことで、
あんまりお寺さんにゆうたらあかんねん」とは檀家さんの弁(ありゃ★)
現在の本堂自体は享和2年(1802)に再建されたもの。
それでもそこそこ古い(奈良の尺度でいえば、200年前なんて…って感覚だけど)
外陣の四隅には、現代に奉納されたカラフルな四天王がいたりとか、
天井付近から吊るされた籠とか、あちこちに面白いものも点在。
堂内は普通撮影禁止なので、写真撮るのは遠慮していたのですが、
撮っても良かったのかな?
とりあえず、当日の様子は→こちらのブログで写真がみられますよ。
本堂をおいとまして、外へ出て、次はお茶室へ。
あの有名な「どくろあん」の方へ。

独蘆庵の入り口
耳で聞くとドクロドクロしい(?)のですが、
漢字で見ると違います。
獨盧庵(どくろあん)
自分をかえりみるという意味で、獨盧庵なのだそうです。
(あまりにも音(おん)がドクドクシイので、どうしてもあちらが浮かぶけど)
このお茶室も文化年間(1800年頃)の再建のもの。
なにやら話し声が聞こえてきたと思ったら、
ご住職さまが説明をしておられました。

内部

にじり口
ここ、実はカラクリがあって、三畳のお茶室としても用いられるように作られているとのこと。
この茶席は四畳半だけど、移動式の敷居と壁と障子を用いて、
三畳と一畳半に仕切れるように工夫した特殊な構造となっています。
なんでこんな仕掛けがあるかというと。
”エライさん”が来た時は、お付の人(現代風にいえばSP)もついてこねばならなかった。
そのSPまでも茶室に入れたんでは、雰囲気が悪くなる(ははは)
(ムクツケキ屈強な男がいかめしい顔して睨んでいる光景を想像していただければお判りいただけるかと)
そこで、一畳半分のスペースを区切って作った、小さい部屋にちんまりとSPは控えており、
エライさんは床の間があるほうの茶室スペースで茶を頂くと。
「どうやって区切っていたのですか?」
「ほれここ、このとおりです」
一畳半の畳と三畳の畳をわけるかのように敷居があって、
そこに天井から飛び出ている棒。
普段はここを開放しているけど、イザというときには、
この棒に別の棒を継ぎ足して、柱とし、壁をはめ込んで、
即席の壁を作るんだそうです。

横に一畳半の畳の部分。ご住職の顔の前の棒に、つっかえ棒(?)を足して仕切りにします
今であれば、パーティーションとかでパタパタ区切れるようになっている部屋はありますが、
この当時にこのような設備があったとは。
「こういう部屋に仕立てることはよくあるのですか?」
「うーん、今までに私も三度くらいしかないですな。こうやって組み立てるの面倒やから」
あー、確かにそうかも。
できるとはいっても、なかなか面倒そうだし。
お付きの人も、一畳半の部屋で息を殺して正座していたら、
イザというときに立ち上がれないかも…(笑)

茶室の外側(石臼?)

珠光の碑

お庭のトウロウとつくばい

つくばいの右手のこれが珠光採泉の井戸かな?
こじんまりとして、本当に質素なよいお茶室でした。
茶室は山門入って左手にあるのだけど、生垣などで囲われていて、
その存在がおおっぴらじゃないとこもまた良し。

お手植え(?)の竹の石碑…だけどこの竹は近年植えられたもの。
※ご住職さまに聞いたところでは。
元々生えていた場所から諸般の事情により、現在の場所に移植したそうです。
茶室をおいとまして、本堂まえに戻ってきて。
本堂向かって右側奥には、たくさんの石仏。
千体仏といえば、御所の九品寺が有名ですが、ここも負けず劣らず凄い数。
(なぜかわたし写真を撮ってないんだ…)
それでも一枚はこんな感じ

「歯痛地蔵」と「腰痛地蔵」
屋根付なのは特別待遇?
何故ここに大量に石仏があるかといえば、ほらあれです。
大和の仏教界に多大なる被害を与えた暴れん坊・松永久秀が多聞城築城の際に
「石持ってこーい!なんでもいいから、石持ってこーい!!」という号令で、
大和のあちこちから石集めが行われた時のこと。
文字通り、石なら何でも式に持ち寄られて、
あちこちの石仏までもが城普請の石として持ち去られて集められたと。
しかし、そうまでして集められたものの、松永爆死の後、城はほったらかし。
城壁に使われた多数の石仏が散乱するさまに「あわれ」を感じた
称名寺第十九代観阿上人がこの地に集めて祀ったんだそうです。
その数、実に1900体。
千体地蔵と称されて信仰されてきたんだとか。
何故か写真を撮ってこなかった私はアホアホや…。
雰囲気はヨソさまのお写真で感じてください(汗)
石仏いっぱいの写真が拝めます
こちらの写真も大きくてキレイです。
なんか、称名寺は見るべき所が盛りだくさん過ぎて、
イッパイイッパイになってしまったようでした。
写真撮りそこねている所もたくさんあって…今思うと真っ青。
こうなったら、また行かなくっちゃだわ!(宣言)
(つづく)