東京有楽町の朝日ホールに、飛鳥学講演会を聴きに行ってきました。
本日のラインナップは
木簡に書かれたヤマトウタ 上野誠先生
持統天皇の吉野宮行幸 和田萃先生
聖徳太子の考古学 猪熊兼勝先生
の三本です~(サザエさんかっ)
まずはつかみはOKの上野センセから。
登壇前に「上野先生は、万葉集の研究の…うんたらかんたら、
最近では、オペラ…なんちゃらかんちゃら…で、多方面でご活躍です」
と紹介され、すかさずそれを引き取って
「はい、多方面で活躍している上野です」
多方面ではないと思うんだがなあ…まあ、いっか。
とりあえず前半の90分間は、三人のセンセのリレー講演。
上野センセは最近相次いで出土した難波津歌の木簡を、
"歌会に出ることになった人が、本番で慌てないように、
一行に、キレイに、字を入れて、書き上げられるように、
練習をしたもんじゃないか"って説をうちたてました。→詳細はこちらを参照
一方、これらの木簡については「典礼唱和説」というものもあり、
この説は栄原永遠男先生が唱えているものですから、
上野センセは”学問上でケンカを売った”ことになります。
ま、学問上のことですので、いいのではないかと…。
(ちなみにこの『ケンカ』は、今年の卒業式の翌日に行われた模様。
だから今年は卒業式の写真が無かったのかなあ(笑)>翌日のことが気になって。
いつもはカメラ片手姿をどこかではお見かけするのに、と思っていたんだわさ)
難波津歌木簡は藤原京のみならず、石神遺跡からも、
観音寺遺跡からも、紫香楽宮跡からも出ていて、
中でも紫香楽宮跡の木簡は、裏面に安積山歌が書かれてた。
この「難波津歌」と「安積山歌」は歌を習う人がまず最初に習うもので、
基本中の基本らしい。日本人ならひらがな、ピアノならバイエルってとこか?
大鏡の中で、『難波津に咲くや木の花…の次はしっとるけ?』と
聞かれて「知らん」って答えた藤原行成の話があって。
そんな初歩的なことも知らないと返答した彼に、
周囲の人は興醒めして、嘲笑を浴びせたらしい。
(でも、藤原行成って三蹟と呼ばれた書の達人なんでしょ?
字が上手いのと、歌の知識とはシンクロしなくてもいいの?いやダメだろ)
難波津木簡のほかの利用方法としては、
みめうるわしい文字づかいを用いて歌を書き付けるってのもあるようで、
その当時の日本人の漢字の使い方でその当時の人の美意識も知ることができます。
(などなどの話があったらしい、別の講演会の内容はここで読めます。)
そんな話が手短に語られて、次なる和田先生にバトンタッチ。
持統天皇の吉野行きは度を超えていて、物見遊山じゃなしに、
真冬の厳格なときにも行ってる。はて、それは何でなのか?
まだ若かりし頃、自分と夫で逃避行(っていうか)をした
思い出の地だから?いやそんなロマンチックなことではなく、
大和には落ち水の信仰というものがあって、それを飲むと若返る(永遠のテーマ)。
吉野の水は清らかな水であり、持統天皇がそれを求めたんではないか…
って話もあったかと(うろ覚え)。
大和には海がないので、水垢りは普通海水でするものだが普段は海水で
水垢りは出来ないが、ある時になると海水が湧くとかそういう伝承もあるとか。
そこらへんの話は、後半へとつながっていきます。
そして最後は猪熊先生の聖徳太子の生涯。
まあ端的にいえば、聖徳太子はいたのかいなかったのか(笑)
この時のお話は生涯をざっと振り返るというものでしたが、
後半部の中では、実在VS非実在って話につながっていきました。
この論争の結論からいえば「厩戸皇子」は実在の人物だが、
「聖徳太子」という人物像はのちの人々の
太子信仰から生まれた想像像(理想像)ってことで。
いたことはいたけど、あんなんじゃなかったよって感じ。
お札になった聖徳太子像の服装は100年後の官服の姿だし、
二歳の時「な~む~」といったという姿は、平安時代の装束。
それらを見て「当時のこと」を真面目に議論しても無駄ってものでしょう。
まさに、百人一首の絵札の持統天皇は十二単を着ている(!)しな~。
そういうことか!!
しかし笑ったのが、天寿国繍帳の当時の人の装束で、
上着を着て、ズボンをはいて、さらにスカートを着ている人がいる!
(→右上すみの、仏さんとおぼしき姿の右隣りの姿参照)
と「先生が」驚嘆していたこと。
「こりゃ、今の女の人のカッコと変わりませんなあ~。
ズボンはいてるのに、スカートまで履いてるカッコして町歩いてる。
でもまあ千四百年前にはこういうカッコしてはる人もいたんで、
まあ、千四百年後にも流行ってるわ~って感じですわ」とな。
今日の自分の格好がまさにそんな格好でしたので苦笑。わはははは。
それでリレー講演会は終了。
休憩を挟んで、何故か「先生方の色紙プレゼント抽選会」へ。
どうせ当たりっこないよと思っていたけど、
上野センセの引いた番号は、ワタシの受付番号63番と
ニアミスの「65番」とか、逆の「36番」とかで、ちょっと残念組でした。
上野センセの色紙の文言は「良き人のよしとよくみて…」だったらしいので、
それならば卒論集にサインでもらったからいいや~★←すっぱい葡萄(笑)
そして三名で鼎談。司会はモチロン(?)上野センセ。
吉野は奈良の中でも、遠いところにあるところ。
奈良に住む人は「くんなかのひと」と云われるけど、
奈良盆地はくんなかとしても、山深いところは「サンチュウノヒト」らしい。
その中でも、ジモピーにいわせると、狭義のくんなか(笑)というのは、
二上山の雄岳と雌岳の間に日が沈むのを見ることが出来る人が
まっことの「くんなかのひと」らしい。
奈良盆地でも、比較的南方の方です。(ゆえに奈良大学は「くんなか」ではありません)
で、興味深いことを聞いた。
天川と十津川の人は、方言(奈良弁?関西弁?)がきつくなく、
標準語に近い話し言葉を話すんだそうな。
天誅組があったりして、他地域の人とも交流があったため?
それと、奈良県の中心部(地理的にではなく、繁栄している都市部)
からは遠いため、県内の人でも、若いうちから下宿をしたり、
県外に出たりして、遠くに出ることを厭わないらしい。
だから、水害に見舞われた時、新天地を求めて北海道へも行っちゃったワケ?
(エライ思い切りがいいな~と思ったけど)
新潟県内でも、新潟本土側は新潟弁だけど、
佐渡に行くと関西弁と関西イントネーションだもんな(遠投地のせい?)
あと、推古朝ってのはどんな意味の時代なのかとか、
藤原宮からは吉野の山並みが良く見えるけど飛鳥からは見えんとか、
吉野に6月30日に熊野灘の海水が湧いてくるとか、
聖徳太子が飛鳥←→斑鳩を通勤したのは無理!とかとか。
そんな話もありました(をい)
話は盛り上がって大成功のうちに終了です(簡潔なまとめ)。
本日も楽しかった。
あ~里心がついたなあ(笑)
今度はいつ帰ろう。
本日のラインナップは
木簡に書かれたヤマトウタ 上野誠先生
持統天皇の吉野宮行幸 和田萃先生
聖徳太子の考古学 猪熊兼勝先生
の三本です~(サザエさんかっ)
まずはつかみはOKの上野センセから。
登壇前に「上野先生は、万葉集の研究の…うんたらかんたら、
最近では、オペラ…なんちゃらかんちゃら…で、多方面でご活躍です」
と紹介され、すかさずそれを引き取って
「はい、多方面で活躍している上野です」
多方面ではないと思うんだがなあ…まあ、いっか。
とりあえず前半の90分間は、三人のセンセのリレー講演。
上野センセは最近相次いで出土した難波津歌の木簡を、
"歌会に出ることになった人が、本番で慌てないように、
一行に、キレイに、字を入れて、書き上げられるように、
練習をしたもんじゃないか"って説をうちたてました。→詳細はこちらを参照
一方、これらの木簡については「典礼唱和説」というものもあり、
この説は栄原永遠男先生が唱えているものですから、
上野センセは”学問上でケンカを売った”ことになります。
ま、学問上のことですので、いいのではないかと…。
(ちなみにこの『ケンカ』は、今年の卒業式の翌日に行われた模様。
だから今年は卒業式の写真が無かったのかなあ(笑)>翌日のことが気になって。
いつもはカメラ片手姿をどこかではお見かけするのに、と思っていたんだわさ)
難波津歌木簡は藤原京のみならず、石神遺跡からも、
観音寺遺跡からも、紫香楽宮跡からも出ていて、
中でも紫香楽宮跡の木簡は、裏面に安積山歌が書かれてた。
この「難波津歌」と「安積山歌」は歌を習う人がまず最初に習うもので、
基本中の基本らしい。日本人ならひらがな、ピアノならバイエルってとこか?
大鏡の中で、『難波津に咲くや木の花…の次はしっとるけ?』と
聞かれて「知らん」って答えた藤原行成の話があって。
そんな初歩的なことも知らないと返答した彼に、
周囲の人は興醒めして、嘲笑を浴びせたらしい。
(でも、藤原行成って三蹟と呼ばれた書の達人なんでしょ?
字が上手いのと、歌の知識とはシンクロしなくてもいいの?いやダメだろ)
難波津木簡のほかの利用方法としては、
みめうるわしい文字づかいを用いて歌を書き付けるってのもあるようで、
その当時の日本人の漢字の使い方でその当時の人の美意識も知ることができます。
(などなどの話があったらしい、別の講演会の内容はここで読めます。)
そんな話が手短に語られて、次なる和田先生にバトンタッチ。
持統天皇の吉野行きは度を超えていて、物見遊山じゃなしに、
真冬の厳格なときにも行ってる。はて、それは何でなのか?
まだ若かりし頃、自分と夫で逃避行(っていうか)をした
思い出の地だから?いやそんなロマンチックなことではなく、
大和には落ち水の信仰というものがあって、それを飲むと若返る(永遠のテーマ)。
吉野の水は清らかな水であり、持統天皇がそれを求めたんではないか…
って話もあったかと(うろ覚え)。
大和には海がないので、水垢りは普通海水でするものだが普段は海水で
水垢りは出来ないが、ある時になると海水が湧くとかそういう伝承もあるとか。
そこらへんの話は、後半へとつながっていきます。
そして最後は猪熊先生の聖徳太子の生涯。
まあ端的にいえば、聖徳太子はいたのかいなかったのか(笑)
この時のお話は生涯をざっと振り返るというものでしたが、
後半部の中では、実在VS非実在って話につながっていきました。
この論争の結論からいえば「厩戸皇子」は実在の人物だが、
「聖徳太子」という人物像はのちの人々の
太子信仰から生まれた想像像(理想像)ってことで。
いたことはいたけど、あんなんじゃなかったよって感じ。
お札になった聖徳太子像の服装は100年後の官服の姿だし、
二歳の時「な~む~」といったという姿は、平安時代の装束。
それらを見て「当時のこと」を真面目に議論しても無駄ってものでしょう。
まさに、百人一首の絵札の持統天皇は十二単を着ている(!)しな~。
そういうことか!!
しかし笑ったのが、天寿国繍帳の当時の人の装束で、
上着を着て、ズボンをはいて、さらにスカートを着ている人がいる!
(→右上すみの、仏さんとおぼしき姿の右隣りの姿参照)
と「先生が」驚嘆していたこと。
「こりゃ、今の女の人のカッコと変わりませんなあ~。
ズボンはいてるのに、スカートまで履いてるカッコして町歩いてる。
でもまあ千四百年前にはこういうカッコしてはる人もいたんで、
まあ、千四百年後にも流行ってるわ~って感じですわ」とな。
今日の自分の格好がまさにそんな格好でしたので苦笑。わはははは。
それでリレー講演会は終了。
休憩を挟んで、何故か「先生方の色紙プレゼント抽選会」へ。
どうせ当たりっこないよと思っていたけど、
上野センセの引いた番号は、ワタシの受付番号63番と
ニアミスの「65番」とか、逆の「36番」とかで、ちょっと残念組でした。
上野センセの色紙の文言は「良き人のよしとよくみて…」だったらしいので、
それならば卒論集にサインでもらったからいいや~★←すっぱい葡萄(笑)
そして三名で鼎談。司会はモチロン(?)上野センセ。
吉野は奈良の中でも、遠いところにあるところ。
奈良に住む人は「くんなかのひと」と云われるけど、
奈良盆地はくんなかとしても、山深いところは「サンチュウノヒト」らしい。
その中でも、ジモピーにいわせると、狭義のくんなか(笑)というのは、
二上山の雄岳と雌岳の間に日が沈むのを見ることが出来る人が
まっことの「くんなかのひと」らしい。
奈良盆地でも、比較的南方の方です。(ゆえに奈良大学は「くんなか」ではありません)
で、興味深いことを聞いた。
天川と十津川の人は、方言(奈良弁?関西弁?)がきつくなく、
標準語に近い話し言葉を話すんだそうな。
天誅組があったりして、他地域の人とも交流があったため?
それと、奈良県の中心部(地理的にではなく、繁栄している都市部)
からは遠いため、県内の人でも、若いうちから下宿をしたり、
県外に出たりして、遠くに出ることを厭わないらしい。
だから、水害に見舞われた時、新天地を求めて北海道へも行っちゃったワケ?
(エライ思い切りがいいな~と思ったけど)
新潟県内でも、新潟本土側は新潟弁だけど、
佐渡に行くと関西弁と関西イントネーションだもんな(遠投地のせい?)
あと、推古朝ってのはどんな意味の時代なのかとか、
藤原宮からは吉野の山並みが良く見えるけど飛鳥からは見えんとか、
吉野に6月30日に熊野灘の海水が湧いてくるとか、
聖徳太子が飛鳥←→斑鳩を通勤したのは無理!とかとか。
そんな話もありました(をい)
話は盛り上がって大成功のうちに終了です(簡潔なまとめ)。
本日も楽しかった。
あ~里心がついたなあ(笑)
今度はいつ帰ろう。