中でも月おくれの祥月命日(3月2日)にある、行基会大祭に行こうかなとHPを調べてみたら…。
『★四天王像が発見されました★』
なる文言を見つけました。
しかも、そこに続く文字には、我が母校の名が…。
江戸時代まで喜光寺に安置されていた四天王像が奈良大学で発見されました。
明治の廃仏毀釈で、喜光寺から流出したものだそうです。
その四天王像には「行基菩薩御作 菅原寺」と江戸時代の銘文がありました。
行基さんが亡くなられてから1270年の今年に、このような発見があり大変喜ばしく思います。
このニュースは、ネットニュースでも掲載されておりますので、合わせてご覧くださいませ。”
なんですと?!
リンク先の情報としては。
”奈良の四天王像から「行基」銘文 菅原寺に安置か
共同通信 / 2019年1月28日 20時48分
「行基大菩薩御作 菅原寺」と墨で記された銘文(奈良大提供)
奈良市にある奈良大は28日、所蔵する木造四天王像から
「行基大菩薩御作 菅原寺」と墨で記された銘文が見つかったと発表した。
銘文は江戸時代に書かれた可能性があるが、奈良時代の僧行基が創建したとされる
菅原寺(奈良市、喜光寺)で安置されていたという伝承を裏付ける銘文という。
同大学によると、四つの像は寄せ木造りでいずれも高さ約1.6メートル。
平安時代末期から鎌倉時代前期の作とみられる。解体の過程で、広目天像と
多聞天像の計7カ所から江戸時代に記されたとみられる銘文が見つかった。
像自体は行基の作ではないが、長年の信仰から記されたとみられる。”
奈良大、なんちゅうものを入手していたんだ!
確かにすごいもの一杯持っている奈良大だし、
ダーウィンの『種の起源』の初版本やら、世界最初の印刷物である『百万塔陀羅尼経』とか、
すごいものいっぱい所蔵しているけど、菅原寺の仏像までもっていたなんて。
久しぶりに母校に行ってみるか…って公開されているわけじゃないか。
私が在学時に、図書館の入り口に立っていたアレか?と思ったけど、違うみたいだし。
ってことで、もうちょっと調べてみたら。
” 奈良大学(奈良市山陵町)は28日、額安寺(大和郡山市額田部寺町)に伝来した
木造四天王像から、「行基大菩薩御作菅原寺」などと記された墨書銘文が見つかった
と発表した。同像が奈良時代の高僧・行基(668~749年)ゆかりの菅原寺(現・喜光寺、
奈良市菅原町)から額安寺へ移されたとする伝承を裏づける成果。銘文は
江戸時代前期の修理時に記されたとみられ、行基への深い信仰を表す資料という。”
(→https://www.nara-np.co.jp/newhttps://www.nara-np.co.jp/news/20190129092038.htmls/20190129092038.html)
ほほー。
額安寺からのものなのね。
同大は平成17年、額安寺から四天王像を譲り受け、文学部文化財学科の関根俊一教授らが
26年から解体修理と調査を実施。本年度に修理中の多聞天像では、右腰部材の裏側に
「行基大菩薩御作菅原寺」と書かれるなど6カ所で銘文が見つかった。
また既に調査が終わった3体うち広目天像の背面上部材にも「行御作菅原寺
大小廿(二十)八之内」の銘文があった。
四天王像はいずれも像高約160センチで、ヒノキ材などの寄木造り。
材質や技法などから平安時代末から鎌倉時代前期に制作されたとみられる。
戦前に出版された仏教考古学者の石田茂作の著書に、四天王像が菅原寺(喜光寺)から
移されたとされると記述。喜光寺に残る古文書にも江戸時代前期の享保15(1730)年に
四天王像などを修理した記録があり、銘文はそのときに記されたと考えられる。
菅原寺は奈良時代に社会基盤整備や弱者救済に尽くした行基の終焉(しゅうえん)の地。
四天王像は制作年代などから行基が作ったとは考えられないが、ゆかりの深い同寺に
伝わったことで、「行基作」の伝承が生まれたとみられる。明治維新の神仏分離令で
菅原寺が衰退した際、額安寺に移されたと推定される。
関根教授は「四天王像は細部にわたる丁寧な修理を数度にわたって施している。
行基への深い信仰に支えられて大切に残されてきたのだろう」としている。
奈良大は9月に完成予定の「50周年記念館」で四天王像の公開を予定している。
ってことなので、秋に公開される模様。
しかし、いや、しかも「50周年記念館」なるものも出来るってこと?
わたし寄付金納めてないけど、行ってもいいかなあ(ははは)
とりあえず、来月は喜光寺いっとこう。