奈良検定お勉強関係を立ち上げるので、アタフタしていましたが。
そんな中、こっそり行ってきました
>奈良歴史地理の会in埼玉。
7月4日(土)の回は、和田萃センセのお話の会。
春からの、白石センセ、水野センセに続いての、堂々の三部作完成の巻です。
今回のテーマは『文献史料からみた3世紀の倭国』
司会役の野崎清孝@奈良大学名誉教授から開会の冒頭
「水野先生の講演会以降、二ヶ月間が空きましたが…」
とありましたが、和田センセのお顔を配するのは実に一週間ぶり
(実質六日ぶり)だったりします。めちゃ、近々(笑)
その前の週は、
飛鳥学講座を聴きに行っていたからね。
話の中心は、文献史料と倭国なのですが、
冒頭はこの前の5月の末に新聞紙上をにぎわせた
「箸墓古墳は卑弥呼の墓?!…(か?)」←東スポかっ。
朝日新聞が報じた内容では、
『
箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致』とあったので、
すわこれで邪馬台国論争に決着か?ってもんですが。
あくまでも、古墳の築造年が240~60年と出たのはともかく、
それがすぐ卑弥呼の墓と結びつくというのは早計である、って見方も多いと。
で。
一番問題(?)なのは、31日から始まる学界で発表される内容が、
ちろっとフライングで新聞発表されてしまったことで(そっちかい)
他紙もそれに追随したらしいのだな。
しかし、毎日新聞だけは、かなり後になってからちろっとそれを
伝えたんだそうで、さすがは毎日新聞(笑)
まあ、そのお話がかなり長く続いたのですが。
奈良大学でも特別講座として「
卑弥呼と箸墓古墳」ってのがあって、
聴きにいきたかったな~と思っていたので、それ関係のお話もうれしかったです。
まあ、放射性炭素による年代測定法なんちゅう
科学の分野からのアプローチの古代学はよーわからん(笑)
和田センセは文献史学の立場からそれらを読み直してみましょうということで。
(本来は、ここから話が始まるんだったろうに。
あの新聞発表があったために、導入部が長くなっちゃいましたよ)
日本書紀の神功皇后の条で、三十九・四十・四十三年に
魏志に曰くという、引用をしている部分がある。
これは書記の編者が魏志に出てくる卑弥呼を神功皇后として見ている。
1260年ごとに革命が起こるという辛酉革命の年は、
推古九年(601)に当たるとされ、それを逆算をして、
その1260年前に神武天皇が即位したってふうに、
その当時の知識を総動員して日本書紀は「作られた」と。
実在性が問われている古代の天皇だけど、
確実に存在したとされているのが、崇神天皇。
ミマキイリヒコって名前とともに、ハツクニシラススメラミコト
って名前もある。だけど、初代神武天皇もこの名だよね?
たぶん、神武天皇が「作られた」時に、
初代だからってんで、神武もこの名になったんじゃないかと。
邪馬「臺」国は、山「壱」国ではないのか?→NO:邪馬「臺」国でいいんだ。
臺与(とよ)は壱与(いよ)ではないのか?→NO:トヨでOK。
大物主とヤマトトトヒモモソヒメの話で、
神様は夜やってきて、朝には帰ってしまうので、姿を見せて欲しいと懇願される。
神様は夕方に現われて、朝には消える。
なので、お祭りは本来、神様を迎えて夜から始まるのが普通で、
今のように昼間やるというものではなかったと。
だから、宵宮ってもんがあるんだとか。
なるほど!そうだったのか>前夜祭だと思っていたさ、宵宮を(笑)
昔から箸墓は女性の墓とされてきたらしい。
和田センセは箸墓をトヨの墓と見ているとのことでした。
なんか、聴いてすぐにまとめなかったら、
話が歯抜けになっているのはご容赦を。
こんな感じのお話がされました。
同じタイトルで、奈良歴史地理の会の奈良会場での講演会が
23日にもあるので、興味のある方はどうぞ、そちらで堪能してください。
これでしばらく秋まで講演会はないけど。
あちこち、自主スクに励むことにしましょう♪