「そこに山があるから登るのだ」とある有名な登山家が言ったそうです。
この訳が誤訳であるという議論もありますが、今回は、それには触れません。
私たち、仕事人間も、そこに仕事の山があるから登るのだ、という状態ですが、最近の僕は、この仕事の山が多すぎて、どの山に登ったらいいか分からない、あの山に少し登っては、別の山にも登らなければいけなかったと引き返す、そして結局、どの山への登山も中途半端で、どの山も登頂していないといった状態です。
こんな、僕の名前が山の内(山内=やまうち)なのも宿命なのでしょうか?
種田山頭火と若山牧水の詩を勝手に合作して、「分け入っても分け入っても、幾山河」といった感じ。
まあ、山々に囲まれたこの新見という地に住んでいるので、仕方がないかもしれません。
山を歩くからには、そこにどんな木があるか、どんな動物や昆虫がいるか、その山にはどんな歴史があるかなどを調べながら、またきれいな花が咲いていればそれを愛でながら歩きたいものですが、そんな余裕もなく、時には早歩きや小走りや全力疾走または猛ダッシュも含めて、ただひたすら歩き続けるという状態です。
そんなに仕事があるのなら、こんなブログなど書かずに、その時間も仕事に充てるべきなのですが、現在、このブログを書くことは、僕の中で、忙しい毎日を振り返り、自分の心の中を落ち着けるそんなひと時になっています。
山歩きに例えると、道端の自然を立ち止まってゆっくり鑑賞する時間はないのでとりあえず写真だけ撮っておいて、その写真を途中休憩の山小屋で眺めているといった感じです。
登山中の滑落や迷い道等に気をつけて、今後も山歩きを続けたいと思います。
この訳が誤訳であるという議論もありますが、今回は、それには触れません。
私たち、仕事人間も、そこに仕事の山があるから登るのだ、という状態ですが、最近の僕は、この仕事の山が多すぎて、どの山に登ったらいいか分からない、あの山に少し登っては、別の山にも登らなければいけなかったと引き返す、そして結局、どの山への登山も中途半端で、どの山も登頂していないといった状態です。
こんな、僕の名前が山の内(山内=やまうち)なのも宿命なのでしょうか?
種田山頭火と若山牧水の詩を勝手に合作して、「分け入っても分け入っても、幾山河」といった感じ。
まあ、山々に囲まれたこの新見という地に住んでいるので、仕方がないかもしれません。
山を歩くからには、そこにどんな木があるか、どんな動物や昆虫がいるか、その山にはどんな歴史があるかなどを調べながら、またきれいな花が咲いていればそれを愛でながら歩きたいものですが、そんな余裕もなく、時には早歩きや小走りや全力疾走または猛ダッシュも含めて、ただひたすら歩き続けるという状態です。
そんなに仕事があるのなら、こんなブログなど書かずに、その時間も仕事に充てるべきなのですが、現在、このブログを書くことは、僕の中で、忙しい毎日を振り返り、自分の心の中を落ち着けるそんなひと時になっています。
山歩きに例えると、道端の自然を立ち止まってゆっくり鑑賞する時間はないのでとりあえず写真だけ撮っておいて、その写真を途中休憩の山小屋で眺めているといった感じです。
登山中の滑落や迷い道等に気をつけて、今後も山歩きを続けたいと思います。