今日で、2001年9月11日の同時多発テロから9年。
以前も少し触れていますが、僕はその時にニューヨークのラ・ガーディア空港に旧大佐町訪問団の一員としていました。
今回は、かなり長文となりますが(携帯で見てくれている人、ごめんなさい)、その当時のことを新生言語文化研究会の学術雑誌『ふぉーちゅん』第13号に投稿した文章を一部変更し転載させていただきます。
ニューヨーク同時多発テロ遭遇記
山内 圭
2001年9月11日朝、私たちはニューヨークのラ・ガーディア空港で午前9時12分発のデトロイト経由関西空港行きのノースウェスト航空069便で帰国の途に着こうとしていた。
私の勤務校、新見公立短期大学は、新見市とその近隣4町が設立母体であるが、そのうちの一つでもある大佐町は1998年にアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューパルツビレッジと姉妹都市縁組を行った。姉妹都市締結以降、私もこの両自治体の交流事業には大きく関わり、1999年、大佐町からニューパルツビレッジへの訪問団派遣の際には、通訳兼教育関係代表の一人として派遣された。また、ニューパルツビレッジからの公式訪問団や中学生訪問団、個人的来町者のための通訳も引き受けている。
そして、2001年9月、大佐町からの第3回訪問団の通訳兼団員にも選ばれ、ニューパルツビレッジでの交流行事を済ませ、9月11日の午前4時半、ニューパルツビレッジのビレッジホール前を出発し、2台のバンに分乗し、ラ・ガーディア空港に送ってもらった。空港に着いたのは午前6時半頃だった。送ってもらった友人たちとお別れを済ませ、飛行機の搭乗手続きや手荷物検査も済ませた。団員の何人かは、空港の公衆電話から日本に電話をかけようとしたが、あまりうまくつながらなかったようだ。やがて搭乗の案内があり、搭乗口に行ったが、何かの手違いがあったような様子で、搭乗券を機械に通してもうまくいかないようだった。したがって係員が手作業で確認し、搭乗させていった。この時点で1機目の飛行機はビルに衝突していたと思うのだが、係員もまだその事態は知らなかった様子であった。
団員10人のうち2人が搭乗を済ませ飛行機に乗っていた段階で、私は自分を含めた他8人の再手続きをしてもらうのを手伝っていた。そうしたらもう機内に入っていた乗客が急に出てきた。パイロットもかばんを抱え急いで出てきた。ある人が「大きな衝突事故があった」と言っていた。私は何の音も聞こえていなかったので、経由地のデトロイトで事故があったのかと思った。だから、その段階では、デトロイト経由で帰るのは難しいので、他のルートのチケットを取らなくてはならないと考えた。
当日券を10人分確保するのは難しいかもしれないと思ったので、その日はニューヨーク市中心部にホテルをとって滞在することにして、明日以降の日本行きのチケットを取ろうと思っていた。皆もその考えに賛成してくれた。特に女性団員は、もう一日マンハッタンで買い物が出来るということで喜んでいた。この時点で既に2機目も衝突していたと思われるが、空港では衝突音や揺れなどは感じなかった。現場から空港までの直線距離は大体7、8キロだと思う。
ところがそうこうしているうちに空港内に「荷物をもって、すぐに空港の建物部分から避難してください」というアナウンスがあった。その時は、デトロイトで事故があったのになぜ、この空港から避難しなければならないのだろうか、と思った。
でも、とにかく放送にしたがって荷物を持って建物部分から出た。外は同じようにわけがわからず屋外に出された人達でごった返していた。さらにパトカーやら救急車やらがどんどん空港に押し寄せてきた。銃を持った警官も集まってきた。同じニューヨーク郊外のニューアーク空港から出た飛行機もハイジャックされていたので、ラ・ガーディア空港にもテロリストがいるかもしれないということで、警察が駆け付けたのだろう。
このくらいの時点で、ある人から世界貿易センターに飛行機が突っ込んだと聞いた。まさかと思ったが、もしそれが本当であるならば、市中心部に行くことはとても危険なことなので、他に行かなくてはならないと思った。この辺りから緊急事態であることがわかってきた。とにかく空港から逃げ出さなければならないと考えた。でも人があふれかえり、車の流れも遮断されているような状況で、どのようにして脱出しようか途方にくれた。
近くのホテルのバスが来たのだが、尋ねるともう「売り切れだ」(We are sold out.)という返事だった。この時点で私たち訪問団10人の他に7人の日本人観光客もそばに集まっていた。
そのようなところに、あるバス会社が「ライ地区に行く人いませんか」と言って声を掛けて回っていた。私はそのライという地名はよく知らなかったし、その会社はお隣コネティカット州の会社(コネティカット・リムジン)だったので、一瞬迷ったが、でもとにかく空港から脱出するのが先決と思い、17人を載せてもらえるように交渉した。交渉は成立し、バスは17人を載せて出発した。
空港内から出るのもかなり時間がかかったが、空港から出てしばらくすると、車の流れがぴたりと止まってしまった。ニューヨーク市はいくつかの島から成り立っていて、その島々をいくつかの橋が結んでいる。その橋が閉鎖されてしまったのだ。
バスの窓からマンハッタンを見ると煙がもくもくと上がっていた。運転手のジェームス・ホームズさんがつけたカーラジオからは世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込んだこと、ワシントンやピッツバーグにも飛行機が墜落したこと、それらのいずれもテロリストの仕業であると考えられること、世界貿易センタービルがもう完全に崩壊してしまったこと、これは第2のカミカゼ攻撃である、ただし旅客機を使ったという点では全く違うということ、これはアメリカに対する宣戦布告かもしれないということ、死傷者が何千人というレベルで出るだろうということ、オサマ・ビンラディンの仕業かもしれないということ、など信じられない事実が次々に明らかになっていった。
私たちは高速道路上のバスで数時間足止めされた。その間に何度か携帯電話から大佐町やニューパルツビレッジに連絡を試みたが、なかなか通じなかった。何度か試みているうちに、ようやく大佐町に電話がつながったので、私たちとその他7人の日本人観光客が無事であることを伝えた。その後しばらくして、ようやくニューパルツビレッジとも連絡が取れ、私たちが拠点を決めて、そこに迎えに来てもらうということにした。バスの運転手に私たちはニューパルツビレッジという町と姉妹都市で、そこに行けば温かく迎えてもらえると思うので、そこまで連れていって欲しいと交渉してみたが、そうしてあげたいが、それはできないということだった。運転手のジェームスさんの話を聞いてみると、彼の恋人は婦人警官で、その日は世界貿易センターのほうに行っているかもしれないとのことだった。そのような状況のなかで職務に専念しているこのジェームスさんという運転手は、すごいと思ったし、このような状況の中でも営業を続け、できるだけ多くの人を空港から脱出させようとしているこの会社に、素晴らしいプロ意識を感じた。そのうち運転手の恋人の同僚に連絡が取れ、彼女の無事が確認され、私たちも喜んだ。
バス会社の無線により、別の橋の通行止めが解除されたという報告を受け、しばらく待ったら私たちが渡ろうとしている橋の閉鎖も解除された。ようやく車が動きだしたが、ライ地区のホテルは満員であった。仕方なく、コネティカット州まで入ったが、やっぱりホテルは満員であった。市内のホテルはどこも満員だということなので、そのホテルでバスを降り、既に夕方になっていたので、そこを拠点にして、ニューパルツビレッジの人に連絡をした。彼らに迎えに来てもらえることになった。
ホテルを回り、拠点を探している最中、あるホテルの売店で世界貿易センターの絵葉書を見つけた。売店の女性店員に聞くと、その日はその絵葉書がやはり売れていると言う。私も記念に1枚買い求め、今後の身の安全のお守りにしようと思った。その後ニューパルツビレッジの友人たちにサインをしてもらい、その絵葉書は私が9月11日にニューヨークにいた記念となった。
バスを降りたホテルで、交代で食事をとりニューパルツビレッジからの迎えを待ち、9時過ぎ頃、ナイクイスト市長をはじめ4人の方々が4台の車で迎えに来てくれた。本当にありがたかった。地獄に仏とはこのことだと思った。夜中の12時近くにニューパルツビレッジに着いた。その日は同じビレッジホールを午前4時半に出発し、真夜中にまたもやビレッジホールに着き、とても長い一日だったが、その日のうちにニューパルツビレッジに帰ることができて本当によかった。空港からうまく脱出できなければ、野宿で夜を明かさなくてはならなかったかもしれないことも考えられたので、うまくバス会社と交渉ができて本当によかった。また同行した7人の日本人のうち、3人は彼らの旅行代理店がホテルまで迎えに来たが、あと4人は一緒にニューパルツビレッジに連れてくることになった。彼らについてもニューパルツビレッジ側では温かく迎えてくれた。
ニューパルツビレッジに無事帰り、私のホームステイ先であるナイクイスト市長宅に戻っても、疲れきってはいたものの、一種の興奮状態でなかなか寝付けないという状態であったのだが、TV局の岡山放送(OHK)から電話が掛かってきた。私はニュース番組のレポーターより、当時のラ・ガーディア空港の様子や私たちがどのように避難したかについてなど、インタビューされた。私のその電話インタビューは、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、人々が逃げ惑うシーンとともに、岡山県・香川県などの中四国地方で放映された。帰国後、何人かの同僚・知人・学生より、そのTVニュースを見ました、と言われたが、その映像のため私もその事件現場にいたような印象をもたれたようである。
私は、事件現場にいたわけではないが、人々には事件現場の様子をよく聞かれるし、この拙文を読んでくださっている読者も、それを期待してくださっているのかもしれない。そこで、ここで私は、やや長くなるが、ナイクイスト市長夫妻宛に事件の翌日送られてきた、彼らの友人でニューヨーク在住の芸術家ポール・ジョンソンさんのEメールの一部を引用させていただく。
I was not in my studio whe[sic] the plane hit. I was leaving my apartment and they were doing some construction on the williamsburg bridge, so I thought the “boom” might’ve been the bridge collapsing. So, I ran down to the bridge to see if anyone need help, but everything seemed ok. So I started walking to east broadway and I walked past a fire station where everyone was going crazy. Then I turned the corner and saw the world trade center at the end of east broadway with an enormous hole in it. I couldn’t believe my eyes.
Everyone had stopped their cars and had turned the radios up so people on the street could hear what was happening. So, I heard what was unfolding as I walked closer down to my studio. I couldn’t believe the buildings were still standing. The guards wouldn’t let me into my building so I started heading uptown… and that was when the first building collapsed. I wasn’t sure what was happening because all of lower manhattan was covered in smoke. I thought maybe a third building was hit. Also, a reporter accidently[sic] refered[sic] to the world trade building as the empire state building so I thought the empire state building had been struck too. So I thought I was pinned down between the two sites… and I wasn’t sure if there was going to be another attack, so I headed west to the meat packing area where my gallery is. It is low density area without any remarkable landmarks, so I thought the area would be safe.
彼の文面をそのまま、引用させてもらっているが、固有名詞を大文字で始めず、小文字にしているのは、最近、芸術関係者やティーンエイジャーなどに流行している書き方である。これは、事件当時の様子がとても生々しく書かれている貴重な文章であると思う。スペリングミスがいくつか見られるのも、もしかしたら、事件の影響でややあわてているからかもしれない。この貴重な証言ともなりうる文章の転載を許可してくださったことについて、お礼を申し上げたい。
次の日からもニューパルツビレッジの人達は私たちにとても親切に接してくれた。私たちの滞在は結局6日間延長したわけであるが、その間、私たちは「テロ事件の被害者」ということで、町中で親切にしてもらった。アメリカ人の慈善の心に触れたような気がする。パーティーがキャンセルされたといって、そのパーティーのために準備した食事を回していただいたり、ある日は昼食をファーストフード店のバーガーキングで取ったら、商工会議所の計らいで代金を半額にしてもらったり、ビレッジホールの一画を我々のために貸してくださったり、各種のレクリエーションを計画してくれたりした。帰りの飛行機便の予約を9月17日に取ると、無事に予定通り飛行機が飛ぶことを祈りつつ、私たちはとても快適に過ごすことができた。この間、このテロ事件で命を落とした人のための追悼式に出たり、またまたお世話になったニューパルツビレッジの方々のために日本食で感謝の夕食会を開いたり、ますます友情を深め合った。
私たちは地元の新聞ニューパルツタイムズの取材も受けた。この新聞は週刊であるが、前の週の号では、姉妹都市から訪問した私たちの交流行事についての記事が載ったが、この週は”Return to Sender”と題して、一旦ニューヨークに送ってもらいながら、テロ事件の影響で再び送り主に戻されることとなった私たちのことが紹介された。
テロ事件後のアメリカの、しかもニューヨークの空気を体験できたということも英語教員として、いや、そうでなくても一人の人間として、とても貴重なことであった。当時の状況は、なかなか言葉では表現し切れないのであるが、なにか人々の心の中で愛国心と宗教心とが交じり合ったような、さらに、平和を愛する気持ちと、テロリストに対する憎しみもが同居している気持ちとでも言えるであろうか。事件の3日後の9月14日にはニューパルツビレッジのリフォームド・チャーチにてテロ事件の犠牲者を悼むお祈りのセレモニーが開かれ、私たちも参列した。牧師の説教のあと、友人・知人を亡くした人たちが故人の想い出を語ったり、救援活動に出かけた消防隊員が体験談を披露した。我々一行がテロ事件当時空港におり、そのために帰国が延期になっていることも紹介され、参列者の同情を買った。そして、犠牲者を悼み、参列者全員で「アメージング・グレイス」などの賛美歌を歌った。会が終わり帰る段になり、誰彼となく、抱擁し合い、中には涙を流す中年女性もいた。また9月15日にはビレッジホール近くの公園でキャンドル集会が開かれた。参加者全員が手にろうそくを持ち、犠牲者のために歌を歌った。この時は「星条旗よ永遠に」「ゴッド・ブレス・アメリカ」などを歌った。
街中には国旗があふれていた。公共施設や住宅などあらゆるところに国旗が掲げられ、公共施設では半旗になっているものもあった。星条旗をあしらったTシャツやスカーフやバッジを身に着けたり、国旗をはためかせた車に乗っている人もいた。日本でこれをしたら何かの団体に間違えられそうな感じである。ニューヨークタイムズには新聞紙の一面をいっぱいに使い星条旗を載せた大手スーパーのチェーン店Kマートの広告が掲載された(9月16日号第24面など)。その広告には使用説明(Instruction for use)として”Remove from newspaper. Place in window. Embrace freedom.”と書かれていた。実際、そのような新聞紙面を店頭に貼っている店もあった。帰国のため再びニューヨークに行く途中に渡った橋には大きな国旗が掲げられていた。人々はそれぞれの方法で愛国心を表現していた。
ニューヨークの事件現場で殉職した消防士・救急隊員・警察官などがヒーローとして英雄的な扱いを受けていた。9月17日付けのニューヨークポスト紙では”Heroes The 403 names of missing and killed members of New York City’s uniformed services”という見出しのもと、殉死した方々の名前が掲載されていた。そこには次の文章も書かれていた。
This list gives the names of the brave members of the New York City Fire Department, the New York City Police Department and the Port Authority Police who are missing or dead after the devastating terrorist attack on the World Trade Center. The Post will update the list as new information becomes available.
ニューパルツビレッジのビレッジホールのすぐそばにも消防署があるのだが、同署には殉死したニューヨークの消防士たちへの”We Support Our Fallen FDNY Brothers & Sisters”の献辞と大きな喪章が9月14日には既に掲げられていた。
帰国の前日は、空港近くのホテルに宿泊した。ホテルには救助活動に駆けつけた消防隊員も宿泊していて、そのような人たちには食事は無料にすると言うことが書かれていた。また、先に書いたように、9月11日、避難する時に世界貿易センターの絵葉書を買い求めたのであるが、9月16日の時点では、私たちが宿泊したホテルの売店には世界貿易センタービルの絵葉書は売られていなかったが、これはきっと人々の心情に配慮してのことであろうと思った。
そして9月17日、帰国のため、空港に行ったのだが、いつも満車のラ・ガーディア空港の駐車場がかなり空きが目立つ状態であった。人々は飛行機による移動を出来るだけ避け、私たちのようにどうしても飛行機に乗らざるをえない人だけが、飛行機を利用するというようであった。したがって国内線扱いになる経由地のデトロイトまでは、機内にかなりの空席が目立つ状態であった。もっともデトロイトから関西空港に向けては、足止めを食らっていた人たちで満席であった。
それまでは、鼻歌交じりでやっていたような手荷物チェックも、この時は、さすがにかなり厳しくなっていた。団員の中には爪切りや化粧用のピンセットを没収されていた人もいた。また、ハイジャック防止のため、国際便では機内食用のナイフ・フォーク・スプーンがプラスチック製になっていた。また、離陸直後「当機には2組の機長・副機長が乗務しております。運行中に、操縦担当ではないパイロットが客席にお邪魔することがあると思いますが、別のパイロットが操縦をしておりますので、ご安心ください」という旨の機内放送があった。これは、乗客を安心させるとともに、もしハイジャックをしようとする人がいても、もう一対のパイロットがいるのなら難しいと思わせるための対策であったのであろう。今回の往復ではノースウエスト機を利用したのであるが、行きよりも帰りのほうが客室乗務員のサービスがよかったと思ったのは、けして気のせいだけではないであろう。このように空の旅に対する不安が強まっている時期に勤務する客室乗務員の職業意識やサービス精神が高まっていたに違いないと思われる。
飛行機は思っていたほどの遅れもなく、無事関西国際空港に到着した。職業柄今後も何度となく海外に出かけていくであろう私の人生の中で、おそらくもっとも印象的となりそうなこの海外旅行は、このようにして終わった。身の危険はさほど感じなかったものの、当分帰国できなくなるのではないかと思ったこともあったので、日本に帰ってくることが出来、安堵の気持ちであった。
ニューパルツビレッジと大佐町の人々の間の心のつながりは、元々強いものであったが、この事件を経てますます強いものになった。大佐町からニューヨーク復興のため多額の義援金が送られたばかりでなく、ニューパルツビレッジの高校教師スー・シャーバーンさんが呼びかけた、クリスマスに手作りの天使の人形をニューヨークに贈ろうというプロジェクトにも多くの手作りの天使が寄せられた。私は2002年3月、新見公立短期大学の第1回アメリカ研修旅行で学生・同僚を引率してニューパルツビレッジを訪問する予定である。ニューパルツビレッジの人々との再会が楽しみである。
以上です。ここまでおつき合いくださった方、どうもありがとうございました。
以前も少し触れていますが、僕はその時にニューヨークのラ・ガーディア空港に旧大佐町訪問団の一員としていました。
今回は、かなり長文となりますが(携帯で見てくれている人、ごめんなさい)、その当時のことを新生言語文化研究会の学術雑誌『ふぉーちゅん』第13号に投稿した文章を一部変更し転載させていただきます。
ニューヨーク同時多発テロ遭遇記
山内 圭
2001年9月11日朝、私たちはニューヨークのラ・ガーディア空港で午前9時12分発のデトロイト経由関西空港行きのノースウェスト航空069便で帰国の途に着こうとしていた。
私の勤務校、新見公立短期大学は、新見市とその近隣4町が設立母体であるが、そのうちの一つでもある大佐町は1998年にアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューパルツビレッジと姉妹都市縁組を行った。姉妹都市締結以降、私もこの両自治体の交流事業には大きく関わり、1999年、大佐町からニューパルツビレッジへの訪問団派遣の際には、通訳兼教育関係代表の一人として派遣された。また、ニューパルツビレッジからの公式訪問団や中学生訪問団、個人的来町者のための通訳も引き受けている。
そして、2001年9月、大佐町からの第3回訪問団の通訳兼団員にも選ばれ、ニューパルツビレッジでの交流行事を済ませ、9月11日の午前4時半、ニューパルツビレッジのビレッジホール前を出発し、2台のバンに分乗し、ラ・ガーディア空港に送ってもらった。空港に着いたのは午前6時半頃だった。送ってもらった友人たちとお別れを済ませ、飛行機の搭乗手続きや手荷物検査も済ませた。団員の何人かは、空港の公衆電話から日本に電話をかけようとしたが、あまりうまくつながらなかったようだ。やがて搭乗の案内があり、搭乗口に行ったが、何かの手違いがあったような様子で、搭乗券を機械に通してもうまくいかないようだった。したがって係員が手作業で確認し、搭乗させていった。この時点で1機目の飛行機はビルに衝突していたと思うのだが、係員もまだその事態は知らなかった様子であった。
団員10人のうち2人が搭乗を済ませ飛行機に乗っていた段階で、私は自分を含めた他8人の再手続きをしてもらうのを手伝っていた。そうしたらもう機内に入っていた乗客が急に出てきた。パイロットもかばんを抱え急いで出てきた。ある人が「大きな衝突事故があった」と言っていた。私は何の音も聞こえていなかったので、経由地のデトロイトで事故があったのかと思った。だから、その段階では、デトロイト経由で帰るのは難しいので、他のルートのチケットを取らなくてはならないと考えた。
当日券を10人分確保するのは難しいかもしれないと思ったので、その日はニューヨーク市中心部にホテルをとって滞在することにして、明日以降の日本行きのチケットを取ろうと思っていた。皆もその考えに賛成してくれた。特に女性団員は、もう一日マンハッタンで買い物が出来るということで喜んでいた。この時点で既に2機目も衝突していたと思われるが、空港では衝突音や揺れなどは感じなかった。現場から空港までの直線距離は大体7、8キロだと思う。
ところがそうこうしているうちに空港内に「荷物をもって、すぐに空港の建物部分から避難してください」というアナウンスがあった。その時は、デトロイトで事故があったのになぜ、この空港から避難しなければならないのだろうか、と思った。
でも、とにかく放送にしたがって荷物を持って建物部分から出た。外は同じようにわけがわからず屋外に出された人達でごった返していた。さらにパトカーやら救急車やらがどんどん空港に押し寄せてきた。銃を持った警官も集まってきた。同じニューヨーク郊外のニューアーク空港から出た飛行機もハイジャックされていたので、ラ・ガーディア空港にもテロリストがいるかもしれないということで、警察が駆け付けたのだろう。
このくらいの時点で、ある人から世界貿易センターに飛行機が突っ込んだと聞いた。まさかと思ったが、もしそれが本当であるならば、市中心部に行くことはとても危険なことなので、他に行かなくてはならないと思った。この辺りから緊急事態であることがわかってきた。とにかく空港から逃げ出さなければならないと考えた。でも人があふれかえり、車の流れも遮断されているような状況で、どのようにして脱出しようか途方にくれた。
近くのホテルのバスが来たのだが、尋ねるともう「売り切れだ」(We are sold out.)という返事だった。この時点で私たち訪問団10人の他に7人の日本人観光客もそばに集まっていた。
そのようなところに、あるバス会社が「ライ地区に行く人いませんか」と言って声を掛けて回っていた。私はそのライという地名はよく知らなかったし、その会社はお隣コネティカット州の会社(コネティカット・リムジン)だったので、一瞬迷ったが、でもとにかく空港から脱出するのが先決と思い、17人を載せてもらえるように交渉した。交渉は成立し、バスは17人を載せて出発した。
空港内から出るのもかなり時間がかかったが、空港から出てしばらくすると、車の流れがぴたりと止まってしまった。ニューヨーク市はいくつかの島から成り立っていて、その島々をいくつかの橋が結んでいる。その橋が閉鎖されてしまったのだ。
バスの窓からマンハッタンを見ると煙がもくもくと上がっていた。運転手のジェームス・ホームズさんがつけたカーラジオからは世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込んだこと、ワシントンやピッツバーグにも飛行機が墜落したこと、それらのいずれもテロリストの仕業であると考えられること、世界貿易センタービルがもう完全に崩壊してしまったこと、これは第2のカミカゼ攻撃である、ただし旅客機を使ったという点では全く違うということ、これはアメリカに対する宣戦布告かもしれないということ、死傷者が何千人というレベルで出るだろうということ、オサマ・ビンラディンの仕業かもしれないということ、など信じられない事実が次々に明らかになっていった。
私たちは高速道路上のバスで数時間足止めされた。その間に何度か携帯電話から大佐町やニューパルツビレッジに連絡を試みたが、なかなか通じなかった。何度か試みているうちに、ようやく大佐町に電話がつながったので、私たちとその他7人の日本人観光客が無事であることを伝えた。その後しばらくして、ようやくニューパルツビレッジとも連絡が取れ、私たちが拠点を決めて、そこに迎えに来てもらうということにした。バスの運転手に私たちはニューパルツビレッジという町と姉妹都市で、そこに行けば温かく迎えてもらえると思うので、そこまで連れていって欲しいと交渉してみたが、そうしてあげたいが、それはできないということだった。運転手のジェームスさんの話を聞いてみると、彼の恋人は婦人警官で、その日は世界貿易センターのほうに行っているかもしれないとのことだった。そのような状況のなかで職務に専念しているこのジェームスさんという運転手は、すごいと思ったし、このような状況の中でも営業を続け、できるだけ多くの人を空港から脱出させようとしているこの会社に、素晴らしいプロ意識を感じた。そのうち運転手の恋人の同僚に連絡が取れ、彼女の無事が確認され、私たちも喜んだ。
バス会社の無線により、別の橋の通行止めが解除されたという報告を受け、しばらく待ったら私たちが渡ろうとしている橋の閉鎖も解除された。ようやく車が動きだしたが、ライ地区のホテルは満員であった。仕方なく、コネティカット州まで入ったが、やっぱりホテルは満員であった。市内のホテルはどこも満員だということなので、そのホテルでバスを降り、既に夕方になっていたので、そこを拠点にして、ニューパルツビレッジの人に連絡をした。彼らに迎えに来てもらえることになった。
ホテルを回り、拠点を探している最中、あるホテルの売店で世界貿易センターの絵葉書を見つけた。売店の女性店員に聞くと、その日はその絵葉書がやはり売れていると言う。私も記念に1枚買い求め、今後の身の安全のお守りにしようと思った。その後ニューパルツビレッジの友人たちにサインをしてもらい、その絵葉書は私が9月11日にニューヨークにいた記念となった。
バスを降りたホテルで、交代で食事をとりニューパルツビレッジからの迎えを待ち、9時過ぎ頃、ナイクイスト市長をはじめ4人の方々が4台の車で迎えに来てくれた。本当にありがたかった。地獄に仏とはこのことだと思った。夜中の12時近くにニューパルツビレッジに着いた。その日は同じビレッジホールを午前4時半に出発し、真夜中にまたもやビレッジホールに着き、とても長い一日だったが、その日のうちにニューパルツビレッジに帰ることができて本当によかった。空港からうまく脱出できなければ、野宿で夜を明かさなくてはならなかったかもしれないことも考えられたので、うまくバス会社と交渉ができて本当によかった。また同行した7人の日本人のうち、3人は彼らの旅行代理店がホテルまで迎えに来たが、あと4人は一緒にニューパルツビレッジに連れてくることになった。彼らについてもニューパルツビレッジ側では温かく迎えてくれた。
ニューパルツビレッジに無事帰り、私のホームステイ先であるナイクイスト市長宅に戻っても、疲れきってはいたものの、一種の興奮状態でなかなか寝付けないという状態であったのだが、TV局の岡山放送(OHK)から電話が掛かってきた。私はニュース番組のレポーターより、当時のラ・ガーディア空港の様子や私たちがどのように避難したかについてなど、インタビューされた。私のその電話インタビューは、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、人々が逃げ惑うシーンとともに、岡山県・香川県などの中四国地方で放映された。帰国後、何人かの同僚・知人・学生より、そのTVニュースを見ました、と言われたが、その映像のため私もその事件現場にいたような印象をもたれたようである。
私は、事件現場にいたわけではないが、人々には事件現場の様子をよく聞かれるし、この拙文を読んでくださっている読者も、それを期待してくださっているのかもしれない。そこで、ここで私は、やや長くなるが、ナイクイスト市長夫妻宛に事件の翌日送られてきた、彼らの友人でニューヨーク在住の芸術家ポール・ジョンソンさんのEメールの一部を引用させていただく。
I was not in my studio whe[sic] the plane hit. I was leaving my apartment and they were doing some construction on the williamsburg bridge, so I thought the “boom” might’ve been the bridge collapsing. So, I ran down to the bridge to see if anyone need help, but everything seemed ok. So I started walking to east broadway and I walked past a fire station where everyone was going crazy. Then I turned the corner and saw the world trade center at the end of east broadway with an enormous hole in it. I couldn’t believe my eyes.
Everyone had stopped their cars and had turned the radios up so people on the street could hear what was happening. So, I heard what was unfolding as I walked closer down to my studio. I couldn’t believe the buildings were still standing. The guards wouldn’t let me into my building so I started heading uptown… and that was when the first building collapsed. I wasn’t sure what was happening because all of lower manhattan was covered in smoke. I thought maybe a third building was hit. Also, a reporter accidently[sic] refered[sic] to the world trade building as the empire state building so I thought the empire state building had been struck too. So I thought I was pinned down between the two sites… and I wasn’t sure if there was going to be another attack, so I headed west to the meat packing area where my gallery is. It is low density area without any remarkable landmarks, so I thought the area would be safe.
彼の文面をそのまま、引用させてもらっているが、固有名詞を大文字で始めず、小文字にしているのは、最近、芸術関係者やティーンエイジャーなどに流行している書き方である。これは、事件当時の様子がとても生々しく書かれている貴重な文章であると思う。スペリングミスがいくつか見られるのも、もしかしたら、事件の影響でややあわてているからかもしれない。この貴重な証言ともなりうる文章の転載を許可してくださったことについて、お礼を申し上げたい。
次の日からもニューパルツビレッジの人達は私たちにとても親切に接してくれた。私たちの滞在は結局6日間延長したわけであるが、その間、私たちは「テロ事件の被害者」ということで、町中で親切にしてもらった。アメリカ人の慈善の心に触れたような気がする。パーティーがキャンセルされたといって、そのパーティーのために準備した食事を回していただいたり、ある日は昼食をファーストフード店のバーガーキングで取ったら、商工会議所の計らいで代金を半額にしてもらったり、ビレッジホールの一画を我々のために貸してくださったり、各種のレクリエーションを計画してくれたりした。帰りの飛行機便の予約を9月17日に取ると、無事に予定通り飛行機が飛ぶことを祈りつつ、私たちはとても快適に過ごすことができた。この間、このテロ事件で命を落とした人のための追悼式に出たり、またまたお世話になったニューパルツビレッジの方々のために日本食で感謝の夕食会を開いたり、ますます友情を深め合った。
私たちは地元の新聞ニューパルツタイムズの取材も受けた。この新聞は週刊であるが、前の週の号では、姉妹都市から訪問した私たちの交流行事についての記事が載ったが、この週は”Return to Sender”と題して、一旦ニューヨークに送ってもらいながら、テロ事件の影響で再び送り主に戻されることとなった私たちのことが紹介された。
テロ事件後のアメリカの、しかもニューヨークの空気を体験できたということも英語教員として、いや、そうでなくても一人の人間として、とても貴重なことであった。当時の状況は、なかなか言葉では表現し切れないのであるが、なにか人々の心の中で愛国心と宗教心とが交じり合ったような、さらに、平和を愛する気持ちと、テロリストに対する憎しみもが同居している気持ちとでも言えるであろうか。事件の3日後の9月14日にはニューパルツビレッジのリフォームド・チャーチにてテロ事件の犠牲者を悼むお祈りのセレモニーが開かれ、私たちも参列した。牧師の説教のあと、友人・知人を亡くした人たちが故人の想い出を語ったり、救援活動に出かけた消防隊員が体験談を披露した。我々一行がテロ事件当時空港におり、そのために帰国が延期になっていることも紹介され、参列者の同情を買った。そして、犠牲者を悼み、参列者全員で「アメージング・グレイス」などの賛美歌を歌った。会が終わり帰る段になり、誰彼となく、抱擁し合い、中には涙を流す中年女性もいた。また9月15日にはビレッジホール近くの公園でキャンドル集会が開かれた。参加者全員が手にろうそくを持ち、犠牲者のために歌を歌った。この時は「星条旗よ永遠に」「ゴッド・ブレス・アメリカ」などを歌った。
街中には国旗があふれていた。公共施設や住宅などあらゆるところに国旗が掲げられ、公共施設では半旗になっているものもあった。星条旗をあしらったTシャツやスカーフやバッジを身に着けたり、国旗をはためかせた車に乗っている人もいた。日本でこれをしたら何かの団体に間違えられそうな感じである。ニューヨークタイムズには新聞紙の一面をいっぱいに使い星条旗を載せた大手スーパーのチェーン店Kマートの広告が掲載された(9月16日号第24面など)。その広告には使用説明(Instruction for use)として”Remove from newspaper. Place in window. Embrace freedom.”と書かれていた。実際、そのような新聞紙面を店頭に貼っている店もあった。帰国のため再びニューヨークに行く途中に渡った橋には大きな国旗が掲げられていた。人々はそれぞれの方法で愛国心を表現していた。
ニューヨークの事件現場で殉職した消防士・救急隊員・警察官などがヒーローとして英雄的な扱いを受けていた。9月17日付けのニューヨークポスト紙では”Heroes The 403 names of missing and killed members of New York City’s uniformed services”という見出しのもと、殉死した方々の名前が掲載されていた。そこには次の文章も書かれていた。
This list gives the names of the brave members of the New York City Fire Department, the New York City Police Department and the Port Authority Police who are missing or dead after the devastating terrorist attack on the World Trade Center. The Post will update the list as new information becomes available.
ニューパルツビレッジのビレッジホールのすぐそばにも消防署があるのだが、同署には殉死したニューヨークの消防士たちへの”We Support Our Fallen FDNY Brothers & Sisters”の献辞と大きな喪章が9月14日には既に掲げられていた。
帰国の前日は、空港近くのホテルに宿泊した。ホテルには救助活動に駆けつけた消防隊員も宿泊していて、そのような人たちには食事は無料にすると言うことが書かれていた。また、先に書いたように、9月11日、避難する時に世界貿易センターの絵葉書を買い求めたのであるが、9月16日の時点では、私たちが宿泊したホテルの売店には世界貿易センタービルの絵葉書は売られていなかったが、これはきっと人々の心情に配慮してのことであろうと思った。
そして9月17日、帰国のため、空港に行ったのだが、いつも満車のラ・ガーディア空港の駐車場がかなり空きが目立つ状態であった。人々は飛行機による移動を出来るだけ避け、私たちのようにどうしても飛行機に乗らざるをえない人だけが、飛行機を利用するというようであった。したがって国内線扱いになる経由地のデトロイトまでは、機内にかなりの空席が目立つ状態であった。もっともデトロイトから関西空港に向けては、足止めを食らっていた人たちで満席であった。
それまでは、鼻歌交じりでやっていたような手荷物チェックも、この時は、さすがにかなり厳しくなっていた。団員の中には爪切りや化粧用のピンセットを没収されていた人もいた。また、ハイジャック防止のため、国際便では機内食用のナイフ・フォーク・スプーンがプラスチック製になっていた。また、離陸直後「当機には2組の機長・副機長が乗務しております。運行中に、操縦担当ではないパイロットが客席にお邪魔することがあると思いますが、別のパイロットが操縦をしておりますので、ご安心ください」という旨の機内放送があった。これは、乗客を安心させるとともに、もしハイジャックをしようとする人がいても、もう一対のパイロットがいるのなら難しいと思わせるための対策であったのであろう。今回の往復ではノースウエスト機を利用したのであるが、行きよりも帰りのほうが客室乗務員のサービスがよかったと思ったのは、けして気のせいだけではないであろう。このように空の旅に対する不安が強まっている時期に勤務する客室乗務員の職業意識やサービス精神が高まっていたに違いないと思われる。
飛行機は思っていたほどの遅れもなく、無事関西国際空港に到着した。職業柄今後も何度となく海外に出かけていくであろう私の人生の中で、おそらくもっとも印象的となりそうなこの海外旅行は、このようにして終わった。身の危険はさほど感じなかったものの、当分帰国できなくなるのではないかと思ったこともあったので、日本に帰ってくることが出来、安堵の気持ちであった。
ニューパルツビレッジと大佐町の人々の間の心のつながりは、元々強いものであったが、この事件を経てますます強いものになった。大佐町からニューヨーク復興のため多額の義援金が送られたばかりでなく、ニューパルツビレッジの高校教師スー・シャーバーンさんが呼びかけた、クリスマスに手作りの天使の人形をニューヨークに贈ろうというプロジェクトにも多くの手作りの天使が寄せられた。私は2002年3月、新見公立短期大学の第1回アメリカ研修旅行で学生・同僚を引率してニューパルツビレッジを訪問する予定である。ニューパルツビレッジの人々との再会が楽しみである。
以上です。ここまでおつき合いくださった方、どうもありがとうございました。