風格があるなぁ 入口が 中央と 左と 右と 三か所もある
3つ必要なんだろう 右の看板 本家 三友でなく 二友になっている
地図で見ると あと 2軒 お茶屋と 出ています
風格があるなぁ 入口が 中央と 左と 右と 三か所もある
3つ必要なんだろう 右の看板 本家 三友でなく 二友になっている
地図で見ると あと 2軒 お茶屋と 出ています
本覚寺
佛性山と号する浄土宗の寺で、團譽上人(玉翁和尚)を開祖とする。
寺伝によれば、源実朝の後室・坊門信子が貞応元年(1222)に、西八条の遍照心院(大通院)内に創建し、
自らの法名「本覚」から本覚寺と名付けたのが起こりという。
その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱による荒廃の後、
細川政元により高辻烏丸に再建され、末寺14を有する本山となった。
その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正19年(1591)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(光源氏のモデル)の河原院塩竃の第のあった所で、
融は鴨川の水を引き入れて池を造り、塩竃の浦(宮城県)の景観を移し、
毎月難波の海(大阪湾)から海水を運ばせては塩焼きをさせて、
その風情を楽しんだといわれている。
当地の住所、本塩竃町にその名残が見られる。
墓地には、江戸中期に八文字屋本と呼ばれるベストセラーを相次ぎ刊行した
出版社の全盛期を築いた八文字屋自笑の墓がある。
瓦は本の文字が元にしてあるのか
関連記事 ➡ 八文字屋自笑の邸宅址
浄土宗 世継地蔵 上徳寺 今は、女性だけでなく 男性も共有するときですね
この日も 男性・女性の二人連れで訪れているのを見ました。
上徳院殿、雲光院殿 阿茶の局墓所
冠翁 堀内雲皷 墓所
子授け・安産の寺 安産腹帯授与
塩竃山(えんそうざん)と号し、浄土宗に属する。寺伝によれば、慶長8年(1603)に、
徳川家康によって、上徳院殿(阿茶の局)が開基となり、
伝誉蘇生上人を開山に招じて建立した寺といわれる。
寺内に泰栄院の法筺印塔がある。
以後、度重なる災火により、堂宇、塔頭は焼失し、
現在の諸堂は明治時代に再建されたものである。
本堂は、宝暦3年(1753)建立の永観堂の祖師堂を移築したものである。
堂内には、江州矢橋(やばせ)・滋賀県の鞭崎八幡宮から移したといわれる
阿弥陀如来像を安置している。
境内の地蔵堂は、明治4年(1871)に再建され、高さ2メートル余の石地蔵を安置している。
この地蔵は「世継地蔵(よつぎ)」と呼ばれ、
往古から、良い世継ぎが授かるご利益があるとして遠近の人々の信仰を集めている。
また、境内には、江戸時代の冠句の唱導者・堀内雲鼓(1728年没)の句碑及び墓がある。 京都市
明治18年
大正7年12月
昭和11年5月
平成17年2月
明治36年5月
右 慶応元年5月
右 明治29年8月
右 明治11年11月
左 明治33年5月
右 明治29年3月
明治34年2月
まだまだ 話題がありそうです ・・・・・・
関連記事 ⇒ 京の通称寺 39ヶ寺
もう1枚を見たら次の推測にいきつきました
ベルから伸びいてるケーブルが入口のガラス戸の上に四角の●ボタンと結びついているようだ
たぶん
お寺が依頼して設置された火災報知器じゃないかと思います
単立
白毫寺(びゃくごうじ)
聖徳太子像を安置する 真言律宗系の単立寺院で、速成就院とも号する。
開基は奈良西大寺の忍性上人と伝わる、
もと東山知恩院の境内地にあったが
慶長8年(1603)知恩院の拡張にあたって現在の地に移った。
六条河原院の旧跡に因んで、塩竃太子堂と称する