アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

若宮八幡宮  陶器神社

2015年10月10日 21時57分49秒 | 神社

社号標  大正3年9月建立  

石鳥居  大正3年8月建立

 

また、昭和60年(1985)には若宮八幡宮前に、五条坂の先人及び陶器祭運営功労者への感謝の意を込めて

「清水焼発祥之地 五條坂」の記念碑が建立された。

 

応神天皇(八幡神の主神)とその父母・仲哀天皇及び神功皇后を主祭神とし、

左の相殿に仲恭天皇を祀っている。

また、昭和24年(1949)に右の相殿に陶祖神の椎根津彦命が合祀されたことから

「陶器神社」としても知られている。

義経・弁慶・源平物語 

平安時代の天喜元年(1053)に、後冷泉天皇の勅願により源頼義

六条醒ヶ井(現在の西本願寺の北東あたり)に創建したのが当社の始まりと伝えられ、

当初は六条八幡、左女牛八幡とも呼ばれた。

以前の若宮八幡宮

源氏一族や武士からの信仰が厚く、文治元年(1185)に平家が滅ぶと

源頼朝はさらに壮麗な社殿を造営しました。その社殿は応仁の乱の兵火で焼けましたが、

足利歴代将軍の保護と織田信長の庇護によって次第に復興し隆盛を極めた。

しかしその後豊臣秀吉によって東山七条の近くに移され、

社地を転々として慶長10年(1605)に照高院の道澄によって

五条坂のほぼ中央に当たる当地に移された。以来、徳川氏の尊崇を受けました。

現在の社殿は承応3年(1654)に再建されたものである。

毎年8月7日から10日までの4日間、若宮祭とともに陶器祭が行われ、

五条坂一帯で盛大に開催される陶器市は多くのひとでにぎわう。

 

 このお宮独自の有卦迎えの宝船(陶器)を受けにくる人が多い。

これは、7つの「ふ」がついていて福助・福寿草・富士山・分銅・袋・文箱・筆と

縁起のいいものが宝船に乗っています。

 

 

 

末社

 

 

 

 

天満宮

 

 

 

鍾馗神社

 

 

 

本殿

 

 

蓬莱石

 

 

鏡です

 

孝明天皇 御胞衣埋納所

 

 

 

 

 

手水舎

八角形です

本殿玉垣内にある八角形の石造水船(南北朝)は、足利義満の寄進と伝え、

側面に至徳3年(1386)の銘がある。

 関連記事  ➡  義経・弁慶・源平物語


太閤坦(たいこうたいら)  更新

2015年10月10日 19時09分35秒 | 史跡・旧跡

もと社殿のあった平坦地をいう。今は、拝殿と社務所・御供所等があるに過ぎない。

その北側には秀頼の子 国松丸墓、秀吉の側室京極竜子(松丸殿)の墓がある。

 

正面の観光バスの左の階段を上がったところが 太閤坦

 

奉納  戦捷紀念樹

 

明治38年

京都郵便局長・・・

 

石碑

 

碑文

明治31年4月

 

 明治31(1898)年,豊太閤三百年祭(没後三百年祭)が開催されたのに際し,

豊臣秀吉の「偉勲」をたたえるために建立された。

慶長4(1599)年に,秀吉に豊国大明神の神号が与えられ時の宣命から

「兵威を異域の水に振い恩沢を率土の間に施す(外国に武力を振るい恩恵を天下に施す)」の

十六字を刻している。


 建碑者久米民之助(1861~1931)は群馬県出身の土木建築家,実業家。

明治31年から同37年まで衆議院議員をつとめた。実業家五島慶太の義父。

 

石碑の裏

 

 

墓の横に建つ石碑

漏世公子及壽芳夫人遷墓記・・・・

明治44年10月

 

 漏世公子は豊臣秀頼の子国松(1608?~1615)のことで,法名の漏世院殿雲山智西大童子からとった称。

寿芳夫人は豊臣秀吉の側室松の丸殿(?~1634)のことで,法名の寿芳院殿月晃盛久からとった称。


 国松は元和元(1615)年5月8日の大坂落城のあと,家臣田中六郎左衛門と乳母の手によって逃れ,

伏見に潜居したが発見され,京都六条河原で処刑された。

祖母淀君のいとこでもある松の丸殿が哀れみ,国松を京都寺町の誓願寺中に葬った。

松の丸殿は誓願寺再興時の施主であり,

晩年は寺内に住んだことから自分の墓も国松の墓と並んで建てさせた。


 明治に至り新京極の開設など近辺の環境悪化を理由に,

明治44年秀吉ゆかりの現在地に改葬した。この改葬の経緯を記したのがこの碑である。

 

 


豊国廟  豊臣秀吉の墓所

2015年10月10日 16時57分30秒 | 史跡・旧跡

拝殿から廟まで63段の石段をのぼる。

この数字意味がありそうです。

5 63

中間の門までの石段の数は 63段ずつ  つ あります。

63は 秀吉の寿命の63の数と一致しています

 

 

63段ずつ 区切られています。 63段で少し平らな所が設けてある。

 

下を見たところ  拝殿の柱が見える

石段上り口で100円を入れる

 

 

 

63段ごとに すこし ひろい 処をもうけてあります

 

平成8年   NHK 大河ドラマ  「秀吉」 のオープニングの場面に使われています

 

昼間の門があるところまで 来ました

 

門から 下を見たところ

 

門の扉に彫られている 家紋

 

門から 上を見たところ  ここからは 石段の区切りがありません 

 

途中で 下を見たところ                      途中で  上を見たところ

 

頂上に着きました  秀吉の墓所です

とても大きな五輪石塔です

豊臣秀吉の廟所(墓所)である。天下統一を果たした秀吉は、慶長3年(1598)8月18日、

伏見城で63歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、ここ阿弥陀ケ峰に葬られた。

翌年4月18日、秀吉は後陽成天皇より、正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、

山腹には境内域30万坪、秀頼は社領1万石を寄進した。壮大壮麗な豊国社が創建された。

以後、毎年4月と8月の18日には勅使や北政所、豊臣秀頼の名代を迎え、

盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われたが、

特に慶長7年(1604)8月、秀吉の7回忌臨時祭には

京都の民衆は挙げて「豊国踊り」をおこないも風流歌舞をなして廟前に群集したという。

慶長20年(1615)豊臣家が滅びると、幕府は豊国社の廃祀を命じ、

その参道中央に新日吉神宮を移して墓参の通行を妨げた。

以後は墓参する人もなくなった。

現在の廟は明治31年(1898)、豊太閤300年祭に際し、黒田・蜂須賀等の旧配下の人々と,

豊国会により全国からの募金で整備されたもので、

そのとき墳上に高さ約10メートルの巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)が建てられた。

なお、豊国神社は明治13年(1880)、方広寺大仏殿の地に豊国神社として再興されている。 

戦前は秀吉も大いに礼賛されたが、今は訪れる人は少ない。

 

 

樹木の間から 街が見えます  ちょうど京都御苑 方面を見ています

関連記事  ➡ 有名人ゆかりの地

 


新日吉神宮  

2015年10月10日 07時46分11秒 | 神社

智積院と妙法院の間の道を東に上っていきます

 

狛犬

延暦元年(1160)、後白河法皇が、その御所法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王七社(日吉大社)

を勧請したのが当社の始まりである。

祭神として、後白河法皇のほか、皇居守護神山王七柱を祀り、

酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集めている。

当初は智積院南側に創建されたが、

元和元年(1615)、豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、

更に明治30年(1897)にこの地に移った。

社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、

現在の本殿は、天保6年(1835)の改造で、大きな流造である。

 

古くから朝廷の崇敬が厚く、上皇の御幸は108度に及んだといわれ、

数多くの天皇の遺物、真筆を蔵している。

また、寛政10年(1798)に妙法院から境内に樹下社に寄進された、

長谷川等伯筆と伝わる豊臣秀吉の肖像が保存されている。

なお、江戸後期の小沢蘆安をはじめ、多くの文学者の稿本など近世文学の資料を

蘆安文庫の名で宮司家(藤島家)が保存していることは有名である。  京都市

 

 文中3年(1374)の小五月会に観阿弥がはじめて「翁」を演能したとき、

将軍足利義満は殊のほか賞賛したが、

これは日吉式神能の初演といわれ、わが国演能史の第1頁を飾るものとされる。

末社には洛陽25社の飛梅天満宮や豊国廟を破毀後、木下姓の秀吉をひそかに奉祀した樹下社がある

 

 

手水舎

 

これは、大砲の台座

 

このように大砲が据え付けてあった

 

 

 

狛犬

 

 

 

新日吉神宮の祭神

社号標  明治28年11月建立

 

 

御幣を持つ猿

 

鈴を持つ猿

 

 

左   下京菊濱学区 昭和10年5月

右    大正4年11月   (大正御大典と同じ年月)

 

鈴を持つ猿の石台座  大正4年11月 (大正の御大典と同じ年月)

 

本殿

 

 

 

平成の御大典奉祝記念  平成2年11月

 

ご神猿

御神猿の霊験

太古に京都、滋賀地方を開発された日吉大神は、千年の皇都の鬼門を御守護になった霊神で、

昔から朝野の信仰は真に顕著でありました。

当神宮本殿の前に安置する御猿は大神の御使者で、信者の災禍を去るという不思議な働きをされます。

常に御幣を捧げて悪気を祓い、凡ての災厄を退けて、幸福を授けられます。  社務所

 

                                  ⇓

 

愛宕神社 ・秋葉神社

 

豊国神社

樹下社(このもとのやしろ) 豊国神社

阿弥陀ケ峯なる豊国社は、元和以降頽廃したが其の後間もなくその前方に

新日吉社を移転造営せられて以来、

豊国廟の管理は妙法院及び新日吉社で行って来たのである。

爾来豊公の神霊は、内々当社の神供所で祀られていたが、

天明5年に至り、更に境内に社殿を造営してその御神霊を奉遷し、

樹下社と称せられたのがこの社殿である。

 

スジダイ

 

飛梅  天満宮

 

記念樹

紀元2600年

 

拝殿

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