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桂川連理樹の史跡
宝暦11年(1761)4月11日 (この場所より50メートルの川岸)の朝、男女の溺死体が浮かんだ
身元をたづねると、京は柳馬場押小路の虎石町、信濃屋の娘と帯屋の主人であった。
ここがその後浄瑠璃や歌舞伎で広く世に喧伝された
桂川連理柵の主人公 お半・長右衛門の悲恋物語の場所である。
露の命の置所 草葉の上と思えども
義理にしがらもこの世がら
刃では死なれぬゆえ
桂川へ身を沈めるがせめてもの言訳と
お半を背に一足毎に水の中へ
現在でもお半長右衛門といえば中年の男と幼い娘との思案の外の恋の代名詞の様に語りつがれている
その後郷土の先人がこの二人の物語りをあまりにも哀れにこの塔塚を建立したのであるが、
合わせて桂川水防の碑として長らく守られて来た。
なお、この塔塚については、子供の病に効能ありとして、広く信仰の対象にもなっていた。
昨今はなはだしく荒廃埋忘していたのをこのたび地元の有志方々の努力によって
ここに新しく移しかえられたものである。 昭和61年11月吉日
お半・長右衛門 法華塔保存会
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すぐ横で咲いていた花
オシロイバナ
イヌタデ
ツユクサ
平成27年9月26日 撮影
社号標は
官幣式社 松尾神社 末社 三ノ宮社 衣手社
昭和5年3月建立です
石鳥居は 同じく昭和5年3月建立です
鳥居の扁額には 三ノ宮 と書かれています
衣手森 と書かれています
鳥居をくぐりすぐに 道標がありました
左 かつらがわ 郡衣手
右 松尾 梅の宮
大正5年7月 京極村郡区 青年会
狛犬
拝殿
手水舎
南参道 石鳥居 大正11年 建立
本殿
末社
衣手神社
ご祭神 玉依姫命 羽山戸神
ご由緒 当社は古来玉依姫命を奉斎し郡に座す「三宮社」と称したが、
明治8年松尾大社の境内に座す衣手社の羽山戸神を合祀してよりは「衣手社」と改称し今日に及んでいる。
ご祭神の玉依姫命は、古くから山城地方開拓の恩神と仰がれ、羽山戸神は農業をはじめ諸産業の守護神として共に人々の尊崇が厚い。
現在のご本殿は、延宝7年(1679)12月に拝殿は嘉永5年(1852)2月にそれぞれ再建されたもので、その後昭和5年の大修理の折、御輿庫、社務所等が改築整備された。
神事
歩射祭 奉射祭・オマトウ(的)とも言われ毎年3月初旬には神前で1年の豊作を祈ったのち、的を設けて矢を射、矢の当り具合によってその年の豊凶を占う特殊神事がある。
神幸祭 4月・5月松尾祭(おいで、おかえり)の御旅所でもある当社では、郡地区、葛野地区、轅下による衣手社神輿お渡りが当日賑々しく行われる。
秋季例祭毎年10月中旬新穀を神前にお供えして豊作御礼の神事を行う
境内社
野宮社 天照大御神
八王子社 素戔鳴尊の御子神
諏訪社 建御名方神
幸神社 道祖神
山王社 日吉神
梅田雲浜(1815~59)は,若狭国小浜藩士で,
上洛し私塾望楠軒講主に迎えられた。
ペリー来航の対外関係緊迫化で政治的発言を始め,
士籍を削られ浪人学者となった。
京都で志士の指導者であったことから,
安政大獄が始まると真っ先に捕えられ,その獄中で病死した
大正5年9月 建立
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此辺画家岸駒居住地
岸駒(がんく,1756~1838)は,金沢出身で京都に出て有栖川宮に仕えた。
独学で沈南蘋をはじめとする中国画や狩野派さらに洋風画も採り入れた作風を確立した。
嫡男岸岱や養子岸良・岸連山ら次世代ではさらに京都画壇の主流の地位を保ち岸派と呼ばれた。
代々虎の絵を得意としている
岸駒は虎の画をかいては、天下一品、その右に出るものなしといわれる程の名手であった。
加賀国(石川県)金沢の生まれで、若い頃は陶器の上絵描きの職人であったが、
浄瑠璃が好きで豊竹駒太夫の弟子になろうとして上洛し、
ことらわられてそのまま京都に住みつき、仏光寺の経師屋の下職となり、
仕入れの仏画などを描いていた。
しかし、天性そなわる画才はいつしかあらわれるもので、
あるとき、有栖川宮家の目にとまり、仏画を命ぜられ、それが大いに御意にかない、
宮家のお内人に引き上げられるように至った。
このときから「岸駒」と名乗った。
寛政の大内裏造営のときには、円山応挙らとともに障壁画の御用を賜り、
その後、朝廷の絵所に奉仕し、天保9年(1838)12月5日、90歳で亡くなった。
岸駒は晩年、洛北岩倉の証光寺を復興して隠栖し、天開翁と称したが、
没後、寺は廃寺となり遺物は同地の実相院に引き継がれた。
今も実相院に岸駒の遺物が残っているのは、このような事情からである。
本善寺の塔頭心城院は岸駒の菩提寺で、その木像を安置した小堂がある。
昭和五年三月 竹間教育会