アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

匠の技・京の伝統工芸   京の名工展 文化博物館 

2015年10月28日 21時01分35秒 | 掲示ポスター

匠の技・京の伝統工芸

西陣織

京友禅

京焼・清水焼

京仏壇・京仏具

京うちわ・御所うちわ

京鹿子絞(きょうかのこしぼり)

京黒紋付染(きょうくろもんつきそめ)

京小紋(こもん)

京漆器(しっき)

京くみひも

京指物(さしもの)

京繍(ぬい)

京扇子(せんす)

京人形

京石工芸品(いしこうげい)

京表具(ひょうく゜)

京房ひも・撚ひも(ふさ・より)

京陶人形

金属工芸・七宝

京象嵌(ぞうがん)

京刃物・利器工具

神祇装束調度品(じんぎしょうぞく)

京銘竹(めいちく)

京の色紙短冊和本帖(しきしたんざくわほんちょう)

北山丸太

京版画

京袋物

京すだれ

京印章(印刻)

工芸菓子

竹工芸

造園

伏見の清酒(日本酒)

薫香(くんこう)

伝統建築

額看板

菓子木型

かつら

金網細工

唐紙

かるた

きせる

京瓦

京真田紐(さなだひも)

京足袋

京つげぐし

京葛篭(つづら)

京釣竿

京丸うちわ

京弓

京和傘

截金(きりがね)

嵯峨面

尺八

三味線

調べ緒

茶筒(ちゃづつ)

提灯(ちょうちん)

念珠玉

能面

花かんざし

帆布製カバン(はんぷせい)

伏見人形(ふしみ)

邦楽器絃(ほうがっきいと)

結納飾・水引工芸

和ろうそく

珠数(じゅず)

京こま

京菓子

京漬物

京料理

 


六条河原  昔は処刑場だった

2015年10月28日 17時39分40秒 | まち歩き

ここは五条大橋と正面橋の間、 北方向 の橋は 五条大橋

 

 南方向の橋は正面橋

 処刑の場は まさに 手前の岸・西岸 足元です

 

 

保元の乱(1156年)における源為義・平忠正、

 忠正は甥の平清盛の手で首をはねられた。

忠正の長男新院蔵人の長盛、

2男皇后宮侍長の忠綱

3男左大臣勾当の正綱、

4男平九郎道正ら4人も父と運命を共にした。

 

平治の乱(1159年)における源義平・

 藤原信頼、平重盛は信頼の助命を清盛ら再三申し入れたが聞き入れられなかった。処刑日になって信頼は「重盛殿は慈悲者と聞いていたが、なぜ助け給わぬか」とのたうちまわったという

 

 

これ以降は 「しばりくび」「逆張り付け」「くしさし」「のこひき」「ウシさし」「車さし」「火あぶり」「にこみ」など想像するするだけでも恐ろしい処刑があったと伝えられている。

治承・寿永の乱(源平合戦)(1180~1185年)では平能宗・藤原忠清、

荒木村重の一族(1579年)

本能寺の変における斎藤利三

 

大泥棒の石川五右衛門(三条河原という説もある)もここで処刑された。油を煮立てたカマの中に投げ込まれた。

関ヶ原の戦いにおける石田三成小西行長安国寺恵瓊、慶長5年(1600)10月1日

石田光成は僧から授けられた浄土宗の十念を差し出されて「手前は法華宗でござれば念佛はいり申さぬ」といったという。 行長も「身供は切支丹で」と銅で造った十字架のイエスを胸にかけて十念をはねのけたという。

後、長束正家の首とともに、三条大橋に晒された。

 

大坂の役における長宗我部盛親・豊臣国松らをはじめとする豊臣方の残党など、

豊臣秀頼の子の豊臣国松はわずか8歳だった。 墓所はこちら ⇒ 太閤坦(たいこうたいら) 

 

著名な武将や政治家がここで最期を迎えている。

処刑後、彼らの首級は全て三条大橋のたもとに晒されている。

 

なお、平宗盛・平清宗親子は近江国で処刑された後、六条河原にて首を晒されている。

なお、六条河原の刑場にて祀られていたと伝えられる「駒止地蔵(首斬地蔵)」が、

現在、当地の付近にある蓮光寺で祀られている。

この寺の墓地には、六条河原で処刑された長宗我部盛親の墓がある。

 

 


上京区 下長者町通  仁丹  10月28日 追加

2015年10月28日 13時54分55秒 | 仁丹看板通り別

 9月28日   千本西入下ル  六番町

10月26日  土屋町西入  二本松町 

 

10月28日  日暮西入  西辰巳町

 

 

関連記事 ➡ 仁丹 町名ホーロー看板


ポンプ中05  残された 手押しポンプ

2015年10月28日 13時24分24秒 | まち歩き

 

 

撤去するのには 困難はなさそうに思えるるのですが  残されています

 

関連記事  ➡  各所の 手押し井戸ポンプ

前回のポンプ 記事 ➡  ポンプ下04  井戸手押しポンプ  修徳公園内にあります 

 

  


琳派400年  仁清・乾山の遺物・遺跡の展示

2015年10月28日 13時12分18秒 | 遺跡・遺物

ここは考古資料館

 

「琳派」と仁清・乾山

今年は、本阿弥光悦が元和元年(1615)に鷹峯の「光悦村」を拓いたことを記念して「琳派400年記念祭」の様々な催しが行われています。「琳派」とは、桃山文化の中から本阿弥光悦や俵屋宗達らが先駆けとなり、尾形光琳らにより発展した芸術上の流派とされています。俵屋宗達の「風神雷神図」や尾形光琳の「紅白梅図」などの絵画が代表例として知られていますが、工芸品にも大きな展開が見られました。

色絵陶器を完成させた野々村仁清や、兄の尾形光琳と合作して自由闊達な作品を残した尾形乾山が江戸時代前期の代表的な陶工として知られています。まさしく尾形乾山は「琳派」の陶工といって良いでしょう。これまで仁清・乾山については、文献史料や伝世された「美術品」を中心に研究が進められてきましたが、彼らに関わる遺跡や遺物の発見例が増加したことから新たな知見がえられるようになってきました。

野々村仁清の遺跡と遺物

野々村仁清はロクロや絵付けの技術に優れた陶工で、正保年間(1644~1648)に仁和寺の門前に御室窯を開きました。「仁清」の名は仁和寺の「仁」と本名の清右衛門の「清」を合わせたものです。仁清は自らの作品に「仁清」銘の刻印を付けていますが、陶磁器に制作者の名前を明示することはここに始まりました。

仁清の作品は、仁和寺境内や京都御苑内にあった公家町遺跡などから出土しています。器形には鉢・茶碗・合子・香合などがあります。灰釉などの釉薬をかけていますが、連続する三角文などが見られるものの、色彩豊かな絵付けを施したものは認めていません。

尾形乾山の遺跡と遺物

尾形乾山は仁清に陶芸を学びました。元禄12年(1699)に二条家から譲り受けた鳴滝の山屋敷に窯を開きました。「乾山」の名は京都の北西(=乾)の山の名に因んだものです。鳴滝の発掘調査では窯の本体は見つかりませんでしたが、窯壁片や窯道具とともに多彩な器形・意匠の陶片が出土したことから窯の存在が証明されました。

乾山の作品には、京都御苑内にあった公家家遺跡や洛中の武家屋敷跡などから出土しています。器形には鉢・角皿などがあります。中でも公家家遺跡から出土した角皿は、全体に白化粧を施して、内面には流麗に松を描き、裏面には大きく「乾山」銘を記した典型的な作品です。

遺跡

1      御室窯 仁清が窯を開いた地  仁清窯址

2      妙光寺 仁清の墓所 宗達の「風神雷神図屏風」があった寺

3      尾形家 光琳・乾山の生誕地、呉服商「雁金屋」があった所

4      鳴滝窯 乾山が初めて窯を開いた地(現 法蔵禅寺)

5      二条丁子屋町 乾山が50歳~69歳頃まで焼物商売を行ったところ

6      聖護院窯  乾山の養子猪八の窯があった所

7      妙顕寺泉妙寺 尾形家の菩提寺

8      仁和寺

9      広隆寺

10    公家町遺跡

11    小倉小笠原藩邸跡

12    烏丸高辻

13    松山松平藩邸跡

14    四条烏丸

15    烏丸五条

16    吉田泉殿町遺跡

 

 

4      鳴滝窯 乾山が初めて窯を開いた地(現 法蔵禅寺)