アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

源融 河原院跡

2015年10月04日 22時03分50秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

源融 河原院跡

源融とは嵯峨天皇の皇子であり、源氏物語の光源氏のモデルと言われている人で、

宇治の平等院のそばにも別荘(別業)をもっていた。

この左大臣 源融公が、摂政 藤原基経の台頭により隠棲した邸第「河原院」が、

このあたり東西・鴨川の中央あたりから西へ柳馬場通、

南北・五条以南正面通あたりまでの大邸宅であった。

この榎の大樹はこの邸内にあった森の名残といわれる。

 

すくそばには、小さな社と鳥居があり榎大明神がまつられている。

この榎はその神木として崇められ、平成12年には、京都市の「区民の誇りの木」に選ばれた。

また、この河原院の名から河原町という通り名が生まれたといわれている。

平安朝の初期には、この院の庭内の林泉に鴨川の水を引き、

「殿舎・楼閣」をその間に点在させて風流を極めた生活がなされていたとのことで、

源氏物語 第一部 最終章「藤裏葉」では、

冷泉邸・朱雀院がこの河原院を訪問するところが描かれ「六条院行幸」という場面が出てくる。

なお、朱雀院は光源氏の兄弟として描かれている。

また、この邸宅の中にあり、元は歓喜光寺の鎮守社であった天満宮と歓喜光寺とが一旦合併し、

今の錦天満宮に移り、その後、明治の神仏分離で寺は東山五条(現在は山科大宅)に移築されている。

富小路五条下ルにある上徳寺辺りは、

その昔、陸奥塩竃の風景を模して造られた邸内の池が在った所といわれる。

現在の町名、本塩竃町は錦天満宮の末社で源融公を祀るという塩竃社に由来しているといわれる。

 

菊浜高瀬川保勝会

京都市

 

平成22年 鳥居に書かれています

 

 

中を見ました  石鳥居があり  木の上に 御神体らしきものが 鎮座してあります

 

この祠の裏手に回って見ました

 

お地蔵さんの祠もあります

この地の町名は 都市町(といちちょう)といいます

鴨川に面しています

 

サギが魚を狙っているのでしょう

 

向こうの橋は 正面橋

  六条河原 付近を 見る

 


高瀬川 船廻し場  高瀬川を静かに味わうなら このあたりです

2015年10月04日 07時06分07秒 | 史跡・旧跡

 

昭和8年の建立です

 

高瀬川船廻し場跡

豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るものとして「天下泰平」祈願の寺・方広寺(大仏殿)を

建立したとき、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸大名に命じて、

伏見の港から京へ搬入するために、天正14年(1586)、当時の豪商・角倉了以に命じて、

御土居の外に沿って掘らせ、慶長19年(1614)、現・一之舟入(二条)から

伏見まで息子素庵と共に開通させた水路(運河)が高瀬川である。

その後、この高瀬川は、京に米・材木・薪炭・などの他、日常雑貨なども運び込む

大切な通路として、大正9年(1920)まで使われていた。

 

当時使われていた高瀬舟「舟兵」は、水深の浅い川に合わせた船底の浅い平らな舟で

急流を荷を積んで乗り切れるように「高背」即ち舟べりが高くつくられていた。

このような舟で5、6隻一度に14、5人の船頭たちが

両岸に作られた普通の道より一段低くなった綱場を、

ホーイ、ホーイと掛け声をかけながら背に架けた綱でひいて上がってきた。

当時この辺りの川幅は、9メートル余りあり、

岸は砂浜のようになっており船廻し場となっていた。

また、ひと・まち交流館東南角の菊浜区民会館当りに回漕店があり、

ここから上流六条坊門(五条)にかけての舟繋ぎ場には、

いつも何艘かの高瀬舟が繋がれていたと言われる。

 

五条~七条間に架かる橋は、人が橋の下を綱を引いて通れるように

門樋橋(榎木橋)・七条小橋などみな高くしてあり、

六軒橋・上の口橋は階段式(十段ほどの石段)と成っていたため、

人は渡れても車は渡れなかったし、

正面橋は橋までが急な上り坂に成っていたため、

材木などを積んだ車などは、両側から綱をつけてまだ後ろから

人が押してわたっていたとの事である。

 

尚、この川に因んだものとして木屋町通り・(大仏)正面通り・

梅湊町・富浜町・納屋町・材木町などの通り名や町名があり、

当時正面通り木屋町東には米の取引所が有り、その「米浜」と言う名が郵便局名として残されている。

菊浜高瀬川保勝会・京都市

高瀬川を静かに味わうなら このあたりがいいと思います

 

 

平成27年9月15日 撮影