丹波国 亀山藩京屋敷跡
中野之町 亀山稲荷神社
江戸前期に当地は、間口11間、奥行30間の芸州広島藩42万石、浅野氏松平安芸守の京屋敷で、
その後1730年頃、丹波篠山藩5万石、形原松平紀伊守信岑(みね)の京屋敷となる。
信岑は寛延元年(1748)丹波亀山藩5万石に転封になる。
以降歴代亀山藩主は幕府の要職に就き、
京都火消役にもなり譜代大名として京都監視の重責を果たした。
新政府となった慶応3年には京都市中取締役を務め、
明治2年版籍奉還の時に藩名を亀岡と改称した。
明治3年2月当京屋敷は民有地となる。
明治7年にはこの京屋敷3棟は、稲荷焼で類焼した修徳小学校の仮校舎にも使用された。
明治25年京都市第2高等小学校校舎の建設時まで存続した。
亀山藩京都松原邸の鎮守の神として祀られていたのが亀山稲荷で、
祭神は白瀧大明神と花月大明神である。
昔は両祠があり、江戸期より衆人に尊崇され亀山講も存した。
明治以降は中野之町が奉祀する。
大正5年の旧亀岡藩士族有志の碑も存する。
往時より正月祭、初午祭、火焚祭を執行する。
その霊験は諸厄除災、商売繁昌、家庭円満に灼(あらた)かと伝える。
中野之町
石鳥居は大正11年2月の建立
石標は大正5年3月の建立 亀山藩士族の建立
手水舎
祠の土台に謎の穴
こちらにも 祠の土台に謎の穴
町内の祠です
こういった 祠の日常の水や花を世話をしているのは 女性です
いまだに男性がしているところを見たことがありません
水道の蛇口も準備されています
2階の窓が 特徴的です
新町通松原下ル
入り口の戸が 引き戸です
2階の造りが特徴的
このあたりの地図
仁和寺街道上ル 西富仲町 一條下ル 伊勢構町
10月2日 10月26日
出水下ル 西神明町 下椹木町下ル 中務町
10月26日 下立売下ル 田中町
10月30日 下長者町 瓣天町
関連記事 ➡ 仁丹 町名ホーロー看板