アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

大光明寺陵  JR桃山駅の南

2015年10月25日 19時24分22秒 | 陵墓

 

 

北朝の光明・崇光両天皇の御陵。東西に並んで北面する円墳。

光明天皇は後伏見天皇の皇子、

延元元年(1336)足利尊氏によって擁立された北朝2代目の天皇である。

 

崇高天皇は光厳天皇の皇子、光明天皇についで北朝3代目の天皇となられる。

両帝ともはげしい南北朝の動乱下にあって、幽閉などのことがあったが、

 

光明天皇は退位後、近畿一円の寺院を巡拝され、

康暦2年(1380)6月24日、大和国長谷寺の草庵で崩御された。60歳

 

崇光天皇は応永5年(1398)1月13日、伏見殿にて崩御された。65歳。

なお、域内には崇光天皇皇子治仁親王の墓がある。

 

 


桓武天皇 柏原陵  散歩に訪れる人も多い

2015年10月25日 10時40分48秒 | 陵墓

伏見区桃山町永井久太郎にある。陵参道の250メートルの松並木が素晴らしい。

桓武天皇は大同元年(806)3月17日、70歳で亡くなっている。

陵地は元禄以来、種々調査検討が行われ、明治13年(1880)柏原陵が決定された。

陵は円墳で南面している。

 

町名の永井久太郎とは、秀吉配下の堀久太郎、永井右京両者の屋敷跡を合わせて町名としたもの。

 

 

明治天皇陵 徒歩15分 とあります   このあたりの山全体が陵になっているようです

 

突き当りの左側が御陵になります

 

 

 

 

 

帰り道 参道を見る  画像ではわかりにくいのですが 下り坂になります

 


伊達街道  伏見城と京を結ぶ重要な道だった

2015年10月25日 10時15分02秒 | まち歩き

 

伏見城中枢部と京を結ぶ、最も重要な街道だった。街道の名の由来は、

伊達政宗がこの街道の傍らに屋敷を構えていたからと伝えられている。

伊達家ゆかりの「海宝寺」には政宗公お手植えの「マッコク」が伝承している。

この街道沿いには豊臣秀吉の配下であった

毛利輝元、徳川家康、福島正則、島津義弘等が屋敷を構えていたとされる。

 

この街道沿いを数次にわたり発掘調査が実施されて、伏見城研究にも大きな成果を上げている。

この街道を境として東側では、三河、島津、正宗、丹下、永井久太郎、

大蔵、因幡、美濃、根来、本多上野、松平武蔵、板倉周防など人名を冠した地名が残されている。

 

 


清涼院  徳川家康の子はここで生まれ少年期を過ごした

2015年10月25日 08時08分23秒 | 寺院

 

 

寺伝によると、当院は徳川家康の愛妾お亀の方が住まいしていた。

お亀の子の五郎丸太は尾張藩主となった。徳川義直である。

明治初年に知恩院の末寺となった。

 

 

庫裡

 

本堂