宇多天皇の第1皇子として仁和元年(885)に降臨された。
母は藤原胤子。菅原道真・藤原時平を重用し、
後に「延喜の治」と称される政治を行った。
「三代実録」「古今和歌集」を選集された。
醍醐寺・勧修寺・大宅寺等、多くの仏寺の造営をおこなった。
在位33年、延長8年(930)9月29日 亡くなる。46歳。
田中神社 または 石田神社ともいう。
明治10年(1877)式内社と認められ、今の名に改めた。境内には本殿と末社があるだけです。
石田の杜とは当社境内の森をいい、古来、歌枕の一として有名であった。
今も、参道入り口に万葉の歌人 藤原宇合の歌碑がある。左の歌碑です
石鳥居 老朽化しているようです
手水舎
拝殿
拝殿の額
本殿
狛犬
末社 八幡社
天満宮
篭守社
大黒大明神
苗塚
一夜にして高さ数メートルの苗がつみ上げられ、その上に白羽の矢が立ち、
老翁が忽然と現れ「天照大神と大山咋神を祀れば永く帝都南方の守護とならん」と告げて去ったという。
ここは、その苗を積んだところといわれる。
紀元2600年記念 とある
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京都市伏見区醍醐中山町3
浄土宗
雷除 清瀧大権現 とある
昭和10年 大谷町
浄土宗知恩院の末寺。無量寿山西方寺といい、承安年間(1171~1174)に一海阿闍梨の創建になる古刹である。また、醍醐寺の隠居所であったとも言われている。本尊は阿弥陀如来で、共にある11面観世音は専心僧都の作。堂内にあるお地蔵さまは弘法大師の作と伝えられており、当時は極彩色らしく、現在のところところどころに色彩が残っている。また、当地にあった極楽寺は廃寺になったが、その仏像は今も安置されている。境内に庭には、織田有楽斎が愛した「佗助遊楽」と言われる樹齢400年の椿があり、春には美しい花を咲かせている。境内にある清滝大権現は、慶長4年(1599)に上醍醐の清滝宮から御分身として勧請したもので、当時は寺の門前30mの所に祀られていた。寛政年間(1789~1800)ゆの西方寺中興の祖、安祥大僧正が、倒壊した筑前藤原国兼建立の大谷塔(多宝塔)の跡地と思われる現在地に移設した。これは、寺の前が西国から江戸への道路であったことから近くの牛馬休み所の不浄を避けるため、清滝大権現を山中の清浄な地にお移したのである。古よりこの辺りの守護神として、また雷除けとして人々の信仰を集め、毎年成人の日に旧大谷町二十軒を講中として、古式に則ってお膳をしつらえ、お供えされる行事がある。 出典・ふしみ昔紀行
この文 平成29年1月21日 追加
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六地蔵の地
昭和6年(1931)京都市に編入された。
古来 京都から宇治を経て大和に至る街道の要所として早くから開発された。
東門
南門
法雲山浄妙院と号する浄土宗の寺院で、「六地蔵」の名で知られている。
奈良時代以前の慶雲2年(705)に藤原鎌足の子、定慧によって創建されたと伝えられている。
地蔵堂(六角堂)に安置する地蔵菩薩立像(重要文化財)は、
平安時代の初め、小野篁が、一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、
一木から刻んだ六体の地蔵尊が祀られていたため「六地蔵」の名が付いた。
その後、保元年間(1156~1159)に平清盛が西行法師に命じ、
都に通じる主要街道の入口に、残り五体を分置したことから、
これらの地蔵を巡拝する六地蔵巡りの風習が生まれた。
地蔵が安置されている各寺で、毎年8月22日・23日に授与される
六種類の御札を玄関に吊るすと、疫病退散・福徳招来にご利益があるといわれている。
境内には、徳川2代将軍秀忠の娘・東福門院が安産祈願成就の礼として寄進した鐘楼がある。
京都市
本堂
左から 鐘楼・地蔵堂・観音堂・本堂
手水舎
扁額
観音堂
地蔵堂・六角堂
六地蔵
地蔵堂と観音堂の間にある 石仏像
鐘楼 天井画が描かれています
徳川2代将軍秀忠の娘・東福門院が安産祈願成就の礼として寄進した鐘楼
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