アートプラス京めぐり

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香雪院  東山聖天尊   天台宗 

2015年10月09日 23時28分00秒 | 寺院

 

商売繁盛 香雪院にお参りする人は3代、4代目と続けてる方が多い。

商売繁盛や心願成就をお願いしているようです。寺伝によると

香雪院は江戸中期、妙法院第37世門主の尭恭法親王(霊元天王の皇子)

が妙法院の塔頭の1つとして建てられました。

親王は持念仏の聖天さんを深く信仰し国の平和と繁栄を祈られたそうです。

江戸時代の妙法院門跡は代々、親王がつとめられ、次いで天台座主となっていますが、

尭恭法親王も享保12年(1727)に妙法院門跡、元文元年(1736)に天台座主になり、

明和元年(1764)48歳で世を去っています。

香雪院は明治以降荒廃した時期もありましたが近年は天台宗の尼寺として再興されています。

 

 太平洋戦争の昭和20年1月16日、ここ馬町一帯は米軍機によって

焼夷爆弾が落され多くの民家を焼失しました。

ちょうどその直前に地震があり民家がびっくりして電灯をつけたとたんの空襲でした。

しかし、不思議なことに香雪院の本堂は燃えませんでした。

 

本堂には11面観音、境内には弁天さんやお稲荷さん、

天神さんが祀られており、商売繁盛、心願成就の祈願者が多いです。

 

 

中興碑      紀元2600年

 

手水舎

 

 

 

 

 

 

鐘楼

 

ユニークな型の燈籠

 

弁天堂

 

 

聖天尊

 

 

 

 

関連記事 ➡ 馬町空襲

関連記事 ➡ 紀元2600年


宝生院  天台宗

2015年10月09日 22時31分06秒 | 寺院

天台宗

 当寺は蓮華王院(三十三間堂)の守護毘沙門天の別当地として、もとは方広寺内にあったが、

明治2年(1869)恭明宮の造営に当って現在の地に移ったと伝わる。

本尊は後白河上皇念持仏と伝わるにふさわしい像である。

 

 


神社東0138  三島神社  平家ゆかりの地 安産祈願  義経伝説

2015年10月09日 16時20分53秒 | 神社

すごく 狭い所にありました  隣は 民家です

 

社務所

 

昔の地図

 

平家ゆかりの神社で、本殿には大山祇命ほか2神を祀る旧郷社である。

社伝によれば、後白河天皇中宮建春門院(平滋子)は皇子のいないのを憂え、

摂津国の三島神社に祈って高倉天皇を出産されたが、その報恩のため、

平重盛に勅してこの地に社殿を造営し、三島神社を勧請されたのが起こりとつたえる。

治承2年(1178)高倉天皇中宮建礼門院(平徳子)もまた安徳天皇の降誕に当たって当社に安産祈願をされた。

平家一族の没落後も安産祈願の神として信仰され、

祈願をするものは、「うなぎ」を禁食し、御礼に「うなぎ」の小絵馬を奉納するならわしになっている。

毎月5月・10月の各26日には「うなぎ祭」がおこなわれる。

 

影向石

高さ2メートル、赤みをおびた岩石で、木花咲耶姫が影向した石とつたえ、

古くは安産石とも誕生石ともよばれ、安産を祈る信仰があった。

また、社伝によれば、牛若丸は当社に参籠し、平家追討を祈願中、夢中に老翁が現れ、

すぐに奥州へ行くようにとの宣託を受け、この石の前から奥州へ旅立ったと伝える。

これに因んでこの石を遥向石とも称する。

 

ウナギの 絵馬

 

 

 

影向石

高さ2メートル、赤みをおびた岩石で、木花咲耶姫が影向した石とつたえ、

古くは安産石とも誕生石ともよばれ、安産を祈る信仰があった。

また、社伝によれば、牛若丸は当社に参籠し、平家追討を祈願中、夢中に老翁が現れ、

すぐに奥州へ行くようにとの宣託を受け、この石の前から奥州へ旅立ったと伝える。

これに因んでこの石を遥向石とも称する。

 

 

 

 

 

関連記事 ➡  経・牛若丸

神社前回の記事 ➡ 神社北0137  大田神社

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法華寺  日蓮宗

2015年10月09日 08時57分00秒 | 寺院

 

 

 

 

日蓮宗

文和3年(1354)日静上人(本圀寺第4世住持 足利尊氏の叔父)が

創建した日蓮宗本圀寺の掛所で、もと常唱庵または題目庵と称した。

本堂には法華題目牌と釈迦多宝仏を安置する。

東の墓地には日静上人の墓を中心に本圀寺歴代の住職の墓がある。

江戸時代の儒者 良野華陰の墓がある。

関連記事 ➡ 昔の本圀寺の場所