左 明治44年5月 再建
昭和4年12月 建立
当寺は山号を獅子吼山とし、知恩院ほ総本山とする浄土宗の寺院である。
寺伝によれば、宝暦8年(1758)に関通上人(1696~1770)が北野下ノ森に創建し、
現在の地には、昭和4年(1929)に移転した。
「関通」とは正式な名ではなく、江戸からの帰り、
箱根の関所で通行手形を見せる旅人を見て、
人間界の苦しい道も「南無阿弥陀仏という手形」があればさおることができると考えたことから、
その名が付けられたといわれている。
関通上人は尾張国(現在の愛知県)の生まれで、江戸の増上寺では佑天上人について修業し、
享保10年(1725)より諸国に浄土宗を広める布教活動を展開した。
十六ケ森(本山級の寺院)を創建し、
得度させた僧尼は1500人、戒を授けた者3000人に達したといわれ、
極めて精力的な活動をした僧である。
本尊は阿弥陀如来坐像。高さ二丈四尺(約7メートル)の巨大な仏像で、
当寺の宗家の折に桜町天皇の追福のために造られたものと伝えられている。
その並外れた大きさから「大仏様」と親しまれている。
また、本堂厨子内に安置する阿弥陀如来立像は、
本尊とは対照的な大きさで2尺5寸(約75センチ)の室町時代の作。
納衣を着ずに裸のままであることから裸形阿弥陀像と呼ばれ珍しい仏像である。京都市
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参道の途中 右に井戸がありました
閼伽井 と書いてあるのでしょうか
水掛不動尊 です
1個の岩石の上に石造不動尊を安置し、その下から清泉が湧出している。
まず、「菅公腰掛石」といわれるのは、菅原道真が太宰府左遷が明らかになったとき、
道真は急ぎ宇多法皇に愁訴すべく、御室を訪ねたところ、
法皇はあいにくながい勤行中であったため、あせる心を抱き、
この岩に腰を掛けて待ってたとつたえる。
のちにこのところより、清水が涌き出し、堀ができたといわれ、今に至るも水の涸れることがない。
また、不動石仏は京都市内で大洪水があったとき、
一条堀川の戻橋の下に流れ着いたが、
「仁和寺へ帰りたい」という夢告により、
戻橋付近の人々がこの岩上に祀ったのだとつたえる。
菅公腰掛石 とあります
不動明王の下にあるのが 菅公腰掛石
御室成就山 八十八ケ所 御山めぐり
西 1丁 1番 巡拝口 入口
北 1丁 八十八番 結願所
仁和寺の裏山に四国八十八ケ所のミニ版がある。文政10年(1827)、
有栖川職仁親王の第11子で仁和寺29代門跡済仁法親王は、特に宗教心の厚かった。
親王は宗教により民衆の心を安らげようと、
仁和寺の寺侍久富遠近守に命じて四国八十八ケ所を巡拝させ
各札所の御堂下の土を一握りずつ持ち帰らせた。
そして、仁和寺裏の成就山に2.7メートル四方、宝形造りのお堂八十八を建て、
それぞれのお堂の下にその土を敷き、
弘法大師と札所の本尊を安置して御室八十八ケ所をつくった。
昭和6年、宇多天皇の1千年遠忌事業として、
同霊場に高さ3.6メートルの外灯100本を設置して不夜城とした。
当時、その灯は京都駅からでも見えたという。
その後は夜間巡拝者も多く増え、
特に毎月二十日の宵弘法の夜は数千人の人出をみたといわれる。
しかし、戦争が長引きし烈になった昭和19年、外灯の鉄柱は撤去されたという。
皇紀 2600年 御室 久富芳治 建立
この方は寺侍の子孫でしょうか
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