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寺院伏0306  海宝寺  黄檗宗 伊藤若冲・伊達政宗・大丸百貨店のゆかりの寺

2015年10月25日 07時59分58秒 | 寺院

 京都市伏見区桃山町正宗20

 

福聚山と号する黄檗宗の寺で、享保年間(1716~36)黄檗12世杲堂が開創し、

同13世竺庵によって万福寺の隠居所となった。

境内中央に建つ仏殿には本尊聖観音像を安置し、

方丈には伊藤若冲の筆になる襖絵「群鶏図」がある。

この画は若冲が、かつて竺庵禅師に画を描きたいと申し出て断られ、

次代の僧を待って描いたといわれる若冲晩年の作品である。

またそれより後は画を描かなかったというので、この部屋を「若冲筆投げの間」ともよばれる。

また方丈の軒先にある手洗鉢は、もと伏見城の白書院にあった秀吉遺愛のものと伝え、

仏殿傍らの木斛は伊達政宗の手植えという。

政宗はこの地に屋敷を構え、伏見城濠の樋門の守備役をつとめた関係上、

寺の背後には今なお樋の址というのが残っている。またその傍には開山杲堂と竺庵禅師の石塔がある。

因みに大丸百貨店の始祖下村彦右衛門は、はじめ大文字屋福助と号し、

竺庵の援助によって商売を行い、今日の大丸の基礎を築いたといわれ、

今なお当寺と深い親縁関係にある。

近年は普茶料理をはじめている。

黄檗宗 福聚山海宝寺は、黄檗宗萬福寺開祖・隠元隆琦禅師が中国から伝えた精進料理「普茶料理」で知られ、普茶開祖道場と呼ばれる。享保年間(1716~1736)、萬福寺12代・杲堂元昶禅師によって創建され、萬福寺13代・竺庵浄印禅師が隠居先とした。京都伏見の呉服商・大文字屋(現・百貨店大丸の前身)の創始者・下村彦右衛門正啓は竺庵禅師に帰依し、自ら浄財を投じて伽藍を築いた。庫裏は下村家の屋敷を移築したもので、江戸時代中期京都で活躍した奇想の絵師・伊藤若冲(1716~1800)によって寛政2年(1790)に「群鶏図」が描かれた。この絵は約10mにもおよぶ水墨の連続画面となる障壁画で、若冲はこの絵を描いた後、筆を執らなかったことから、障壁画の部屋は「若冲筆投げの間」と呼ばれる。境内は、仙台藩の藩祖伊達政宗の居館跡といわれ、伊達政宗手植の木斛や豊臣秀吉遺愛の手水鉢などが伝わる。京都市

 

 

 

 

 

伊達政宗の伏見屋敷

この海寶寺境内を含む「桃山町正宗」は、独眼竜の異名をとった仙台藩の藩祖・伊達政宗の伏見上屋敷があったところである。政宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ、多くの重臣やその妻子などを住まわせた。その数は常時千人以上にも及び、屋敷一帯は「伊達町」とも称されたという。政宗自身は慶長4年(1599)ころまでここに住みも慶長6年に上洛した際にも約1年間を過ごしている。

政宗の伏見屋敷は、この地のほか、上屋敷の南西にほど近い場所と深草の地に下屋敷があり、計三か所であったとされる。深草の下屋敷付近には現在も「深草東伊達町」「深草西伊達町」の地名があり、その名残を留めている。仙台市

 桃山時代の名木

天下無二の木斛

 

 

 

 

 伊藤若冲 関連記事 ➡  宝蔵寺  浄土宗西山深草派  伊藤若冲の菩提寺

                   信行寺  浄土宗  伊藤若冲の天井画     

                       錦市場 西の入口 画家・伊藤若冲の生家

 寺院 前回の記事  ➡  寺院伏0305  本正寺  真宗興正派

川柳

鏡見て案外若く元気出る /田村

ことわざ

秋の鹿は笛に寄る(あきのしかはふえによる)

秋になると、発情した牡鹿が牝鹿の鳴き声に似せた鹿笛に引き寄せられ人に捕えられる。転じて、恋に身を滅ぼすこと。また、自分から危難に陥ることのたとえ。

類・妻恋う鹿は笛に寄る

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寺院伏0324  栄春寺  曹洞宗  総門は伏見城の遺構  長沼宗敬澹斎の墓所 

2015年10月25日 07時57分30秒 | 寺院

これより画像5枚追加(平成29年1月20日)

 

 

榮春寺のある地は、木幡山(現在の桃山)に西北麓にあたり、木幡山の東南麓は、曹洞宗道元禅師が生まれた山荘が存在したとされます。榮春寺は伏見に初めて建てられた曹洞宗の寺院であり、開祖には傳養和尚が迎えられました。また、亡き妻の菩提を弔うため、お堂造営に尽力したといわれる酒井作右衛門重勝は、徳川家康の家臣であり、伏見城代を務めました。榮春寺の総門と、本堂西隣に位置する観音堂は、伏見城の遺構と伝えられとおり、中でも、観音堂の格天井は、「伏見城の血天井」のひとつであるといわれています。榮春寺の後丘には、和洋漢の長所を探り、鉄砲や海防についても論じた江戸時代の兵法学者長沼宗敬憺齋の墓があり、墓の横には、彼の兵法を採用したとされる会津藩主が建てたと言われている顕彰碑があります。 出典・ふしみ昔紀行

石碑は     長沼宗敬澹斎先生墓 

          嘉永3年(1850)2月建立

 

泰澄山と号し、永禄11年(1568)、道元禅師が越前に移住後、京・伏見で最初の曹洞宗寺院として、

勅特賜昼普光錦禅師考蒲伝養和尚により開創された。

現本堂は、天保10年(1839)の改築、本尊は伝泰澄大師作の釈迦如来坐像であり、

徳川家康の家臣であった酒井重勝が寄進したものである。

観音堂は文化11年(1814)の建立で、西国三十三所観音と聖観音を祀る。

総門は伏見城の遺構である。

後丘の墓地は、豊臣秀吉の伏見城 城下町の総構えの土塁の遺跡で、

中央に江戸時代の代表的兵学者、長沼宗敬澹斎の墓と、

文化三年(1806)会津藩主建立の巨石の詩碑があり、

撰文は大学頭林述斎によるものである。会津藩と寺は、幕末まで交渉があった。

寺内には、福山藩主寄進の澹斎画像と澹斎の主著「兵要録」全五篇をはじめ関係資料を蔵している。

 京都市

 

総門

 

 

 

伏見城の遺構 主な建物(京都市周辺)

伏見城に関係する建物は、廃城後にさまざまなところへ移築され、リサイクルされました。★のついているものは豊臣時代の伏見城を移築したものですが、それ以外は徳川時代の伏見城を移築したものです。

 

★  源光庵(北・鷹峯) 本堂・血天井

★ 正伝寺(北・西賀茂) 方丈・血天井(元金地院←伏見城←聚楽第)

  観音寺(上・三番町)  三門 

  ➡寺院上0114  観音寺 浄土宗 百叩きの門 よなき地蔵 千人堂 

 

★勝林院宝泉院(左・大原) 廊下・血天井

 大雲寺(左・岩倉) 本堂(寛永年間)

 南禅寺(左・南禅寺) 小方丈

 南禅寺・金地院(左・南禅寺) 方丈

 長楽寺(東・円山町) 本堂(元正伝寺の法堂←金地院か?)

★高台寺(東・下河原町) 表門・傘亭・時雨亭・観月台

★養源院(東・三十三間堂廻り) 客殿;血天井

  ➡  養源院  宗達寺といわれたり、血天井のお寺とも

 

  豊国神社(東・茶屋町) 唐門(元金地院にあり、聚楽第ともいう) 

  ➡  豊国神社

 

  西本願寺(下・門前町) 浪ノ間・虎ノ間・玄関

  ➡  西本願寺の総門 西本願寺  本願寺 太鼓楼  

 

  正行院(下・東塩小路町) 本堂 

  ➡  猿寺と呼ばれています。悪事災難が去る(猿) 正行寺

 

★ 妙心寺天球院(右・花園) 血天井

  二尊院(右・嵯峨二尊院門前) 総門

★ 常寂光時(右・嵯峨小倉山) 本堂

  御香宮神社(伏・御香宮門前町) 表門 

★栄春寺(伏・桃山町丹下) 観音堂・血天井

  東本願寺伏見別院(伏・大阪町) 元徳川向島屋敷か

  醍醐寺三宝院(伏・醍醐)  唐門

  平等院(宇治市) 南門・北門

★平等院浄土院(宇治市) 客殿養林書院

★興聖寺(宇治市)  本堂

★神応寺(八幡市)  書院

 

寺院 前回の記事  ➡  寺院伏0323  龍雲寺  天台宗

関連記事 ⇒ まとめ017 道元禅師