前回のブログ記事では、メロンぱんち氏の「暴力について」の記事をうけて、自分なりの暴力論を展開した。
大きく言えば、個人の暴力と国家がもつ暴力は、まったく異質なものだとする考え方である。それを具体的に書く用意はあったのだが、さらに整理する必要性を感じていたのでいったん終了した。
その不完全な状態で、メロンぱんち氏とブログ読者のスナフキン氏(※別記)に拙記事についての感想を求めてしまった。意見を求めるなら、最後まで徹底した論旨を述べ、自説を展開すべきであったと、今は反省している。お二人にもご迷惑をおかけした。この場をかりて深謝いたします。
さて、スナフキン氏から提示された内容については、前回のコメント欄を読んでいただくことでご確認いただきたい。今回の記事は、そのコメントをきちんと受け止め、そのレスポンスとして自分なりの「暴力論」を、国家あるいは戦争という概念を通してアプローチしてみたい(大仰な書きようではあるが)。
スナフキン氏はまず「個人のケンカ(最大でもバンドの抗争)と、国家間戦争との暴力を分けて考えるという発想に反対なのです」という、明確なお考えを提示された。そして、さらに「私としては、国家と個人(およびバンド)の中間があると思うです。一つは中世の権門体制…宗教勢力です」という、歴史的な具体例も指示されている。
まず、この辺りから考えてみたい。プラトンが遺した著作に『国家』がある。
かなり前に読んだ本で、全編を通じて熟読したとはいえず恥ずかしいのだが、「国家の形成と、戦争の発生は不可分であり、同じように生まれた」、そのように論じられたことは、地頭が弱いのであるが、明確に記憶している。そして、ご承知のとおりプラトンは、師匠ソクラテスと論者が対話するカタチで話を構成し、次のような対話になっていた、と思う。
「国みたいなものは、それぞれの分野の専門家がいて、それぞれが機能して立派な仕事をしている。それにより、みんなが仲良く幸せに暮らしていければ、それでいいのだ」みたいなことを言った。すると対話相手の?(名前失念)が、「そんなの国ではない、みんながそれで充足できるわけがない」と突っ込みを入れた。
ソクラテスは、意外にもそれを認め「人間の欲望は限りないからな、ごもっともじゃ」、「必要とするものが満たされたぐらいで、人間はそこに留まらないからな、どん欲だからな」といった。
そして、「人間は、奢侈や享楽をもとめて、他の国と交流し、物を交換するようになる」と。やがて、「小さな国の間でもそうしたやりとりから不信や猜疑、軋轢がうまれ、国家をつくり、遂には国同士の戦争に至る」と・・。
ここにおいて、前述した「国家の形成と、戦争の発生は不可分であり、同じように生まる」という、ソクラテス=プラトンはシビアな認識がなされたわけだ。
戦争における暴力の定義なり、その戦われ方の本質はここでは述べない、テーマが拡がりすぎるから。
さて、スナフキン氏は中世の宗教組織と国家の対立をあげ、戦国大名と同等の機能をもち、権勢をもつ宗教団体が「民間」だと認じている。
しかし信長は、次のような経緯で「一向一揆」を完膚なきまでにせん滅しようと決意した。
①一向宗門が民間の宗教組織とはいえ、国家と同様のキャパシティを持つ組織に成長した。
②さらに当時の概念上の日本「王」である「天皇」と結びつき、陰謀を企んだ。
③単に反乱する仏教集団ではなく、信長に敵対する戦国大名以上の「権威をもつ」集団としてみなし、そこで徹底的な壊滅をはかった。
以上のプロセスで、信長は、宗教を逸脱した暴力には、非情さをもって対峙した。どうして、信長がこういう発想をもてたのか、自分でもまだ腑に落ちないところがある。日本歴史はそれほど詳しくないのだが、ただ、信長はキリスト教にはたいへん好意的に処遇したことが知られている。それはたぶん、華麗で物珍しく、欲望をそそるもの(武器も含む)その他の西洋の最新技術をもたらす相手であったからであろう。つまり、信用できる宣教師から、「宗教組織の怖さ・手強さ」を吹き込まれていたのでは、という皮肉な見方もある。
以上のことで、推察できることは、宗教とは限りなく個人に結びついているものの、その形成と発展は、国家がもつ権力形態に近いものがあると言わざるをえない。特に、一神教の場合は、仏教に較べて危険な要素を多くもつ。
ユダヤ、キリスト教は当初から、国家=権力者(機構)と親和するキャパシティをもっていたが、イスラム教自体は政教分離を認めず、ほぼ国家機能をもった宗教組織として出発した。それゆえに、現在にいたっても、宗派の違い(スンニ派とシーア派)だけで国家間の戦争を繰りかえす。
さらに、或る国家の領土内においては、イスラム組織が国家方針に従わない、或はテロ暴力を含む反乱を実行すると、国家権力は徹底的に潰しにかける(例:中国内のウィグル、チベットは仏教だけど)。
イスラム教は長い歴史の知恵から世俗的になって、国家権力と親和的に振る舞ってきた。しかし、その本来のイスラムの教義に忠誠を誓い、本来のマホメットの教えを実現しようという強い指導者が現れる時がある。故ホメイニ師がまさにそれで、親アメリカの国家体制を転覆して、イスラム原理主義の国家を誕生させた。
現代になってから、このイスラム教信者の動きは、その個人が内包すべき「暴力」を国家のそれとして使うようになった。領土を奪われたパレスチナの彼らはもっと深刻な状況に追い込まれているし、幻想としての国家のなかで、なかば虐げられる「異民」として扱われている。パレスチナの人々の最終目標は、やはりイスラム教に基づく新しい国家の創造しか考えられないのではないか・・。
スナフキン氏からはもう一つ、別の命題をあたえられた。ここはそのまま彼のコメント引用する。
もう一つ考えるのが893つまりヤクザ・マフィア黒社会です。これも「民間」暴力です。しかし国家と非常に似ています。シマ(領土)を有し、領土内でのルール(法または掟)を有し、外部に対しての武力を持っています。まったく「国家と変わらない」と思います。
国家との違いは①通貨発行権の有無。 ②歴史的、文化的な認知度の2点に過ぎないと思います。
①については持てば、より巨大な国家に潰されるから出さないだけです。実際、メキシコの麻薬カルテルにはファーベラ(スラム)で自前の「地域通貨」を発行していたものがあり、それが出来たのは国家警察軍の武力と拮抗する兵器、兵員数(鉄砲玉)、情報収集力(賄賂による)、住民の協力などがあったからです。
逆に言えば、こういう地縁だけの宗教のような思想基盤すら持たない「バンド」でも「国家と拮抗し得る」という事です。
スナフキン氏の分析は精緻であるし、提示された事例も的確である。大いに参考にしたい。国家と遜色のない形態と機能をもつ。「準国家」といっておかしくないが、それでもヤクザ・マフィアという組織が、現代の国家観からすると「バンド」の発展形としてか認められないのである、小生の見方からすればだが。
まず、彼らに「主権」はあっても「領土」はもたない、「シマ」は彼らの仮想であり、実質的な「領土」を持てないというべきか(「領土」という概念は、法治国家のみに適用する概念であり、権利を発生させる「場」である)。
つまり、ヤクザ・マフィア組織は、Aという国家の裏面の「B国家」を自称しようとしているに過ぎない。所詮、表国家Aのすき間、権力装置の及ばない一部の裏社会で「みかじめ料」をとってのさばる、これは過去のことか? 実際には、表社会(法治国家)の下で法人登記し、やばい会社に見られないように非合法な利益をあげているんでしょうが・・。
彼らが流通させる地域通貨が「エンデの遺言」通りだったとしても、それは現行の国際金融との交換を狙ったものとしてしか評価されない。だから、限定的であり普遍性はなく、現在の暗号通貨ほどの価値があるかどうか。(むしろ仮想通貨よりも、ブロックチェーンを使ったシステム開発を企図したら、国家は戦慄するだろう)
もし、ヤクザ・マフィア組織が本格的に表社会で、法外の「B国家」をぶち上げ、一般市民にたいして何ごとかを指示、命令、徴税なぞし出したらとしたら、A国家は彼ら’(ヤクザ・マフィア組織=B国家)を徹底的につぶすはずだ。その時は、軍隊出動も躊躇しないはずだ。
(いや、実際には、「きゃつら」は絶対的にそこまでは「矜持」も「意志」をもたない。また、一方で警察組織は、どこかで「きゃつら」アウトローたちと共存し、彼らの暴力やノウハウを利用するに決まっている。別の民間団体をつくり、警察OBの天下り先にもなるから・・)。
スナフキン氏はさらに分析し、こうも言っている。
国家の起源はヤクザだと思っているのです私は。彼らが賭博に関わるのはダテではなく、そもそも数理的な知性は、暦や天文、冶金、農業に生産量の記録……と、国家または大きな集団を統括するのに不可欠です。そして賭博は胴元からすれば統計を利用するものです。
国家がそもそも「大きくなったヤクザ」だから数学を尊び、ヤクザは確率論と統計の産物てある賭博を主催するのでしょう。つまり大きめのバンドと国家の間には境界線は存在しません。
とすれば、もともと一定数つまり、狩猟採集を社会の主な生計手段とするのは不可能な人数までバンドが膨れた段階で、暴力的な決着(着地点)は不可欠であり、従って暴力装置は必要悪、暴力を用いた解決も必要悪となるのだと思います。
しかし人が狩猟採集て生きてゆくには、一人あたり1平方キロメートルの狩場が必要であり、1平方キロメートルに一人とは「フロンティア」であります。
そんな土地は地球上には数える程しか残っておらず、故に今も人は(最終的には)暴力による解決に頼らざる得ないというのか私の言い分であります。
スナフキン氏が指摘していることには間違いはない。ヤクザはしかし、いつも国家の後塵を拝し、そのシステムの真似事をして満足している(国家転覆=革命という知の体系をもたない)。それから、ヤクザと古代の狩猟民とは決定的に違う要素が多々ある。
ホモサピエンスは、その狩猟生活においてどんな生活をしていたか。定住はせず、移動生活をしてきたことは間違いない。その頃には、バンドという集団生活を形成していたが、テリトリー(領分)はそんなに意識しなかったのではないか。ましてや、自国権力が及ぶ境界線を法的に設定した「領土」という概念もない。
牧畜をするバンドは、移動と定住を半々にし、さらに植物の生態をみて進化したバンドは、穀物をつくり定住して農業するようになる。定住したならば、国家的なるものが想定され、自分たちの「安心・安全」を保障する、その領土を確実に対外的に宣言するようになった。バンドとしての内集団は互いに、外集団として存在する「自己」を客観的に認識をするようになったともいえる。
その国家としての成立ちが、ヤクザのように粗暴で、暴力的であったとしても、領土という概念をもって権力支配を目論んだ時点で、それは国家としての形成を果たしたとみるべきだろう。
文化人類学では、レヴィ・ストロースやピエール・クラストルらは、南北米の先住民を文化人類学の対象にして、彼らの生活に寄りそって調査・分析した。アマゾン奥地に棲む先住民らは。まさに古代さながらの狩猟生活をしていて、P.クラストルの初期の論考『国家に抗する社会』で分析されているように、彼ら部族はまさに領土という概念をもたなかった。むしろ、そういう国家的な共同体をあえてつくらない、彼らなりの「独自の意志」のようなものさえあると分析したのだ。
テリトリーというものは流石にある。獲物や食料の獲れ方によって地勢の有利、不利はあるし、彼らの集団そのものは人口は生活の厳しさから大きくはならない。で、テリトリー争いとしての闘争、戦争は、実は手打ちのための儀式、いちおう敵同士としての殺し合いの戦いでも、それは平和をつくるための「供犠」ともなり、戦士の犠牲を手厚く弔った。だいたいそこで平和をとりもどす。メロンぱんち氏もこの儀式(戦争経緯)を了解してくれるものと思う。
『国家に抗する社会』の第2章は「交換と権力/インディアン首長制の哲学」とあって、ここではほとんどの部族の首長が、いかに平和に丸く収めるための知恵、哲学をもっていたことが解説されている。但し、部族間の抗争が激しくなり、首長の手に負えない状態になると、他の権力を介入させるとか、全員が首長に押しかけて、依存し尽して遂には首長を飢餓に至らしめるなど、人間としてはたいへん手の込んだ技法(?)を使う。しかし、おしなべて首長は「平和」に向けて何かをやる人なのだ。なにも軋轢がなくなると、首長をやめてしまう。首長のいない部族もあるという。
近年、クローズアップされたヤノマミ族だけでなく南米には幾千もの部族があり、その多くは滅び、部族間同士で混交して変質している。ピエール・クラストルの著書は抽象度が高く、部族=バンドの人類学的分析は必要最小限で、また具体的には詳述されていない。
しかし、その想像力を喚起する言表は素晴らしく、ストロースとは違った魅力がある。ほぼ夭折という感じで亡くなったが、ストロースが国家・政治・戦争についてそれほど考察しなかったので、クラストルの成熟した人類学がどんなものなったのか。ま、小生の勉強不足で、欧米には新進気鋭の文化人類学者がけっこういるかもしれず、日本ではまだ紹介されないていないだけなのか・・。
以上、スナフキン氏のコメントを拠りどころとして、個人の集団として組織における「暴力」の発現は、いかに国家がもつそれ「暴力」のポテンシャルとは違う。雲泥の差とはいえないが、本質的に異なることをいささか粗雑であるが縷々書いてみた。
スナフキン氏の反論もうかがいたいが、小生の期すべき「個人」の暴力論の1ミリも触れていない。個人の暴力とは、近年、躾け、いじめ、ハラスメント、尊属殺人など身の回りにおけるネガティブな要素ばかりが目立つ。でも、その方向のみに収斂できないのではないか、というのが自説なのだが・・。
前回の記事でレヴィナスの「私とあなた」との親密性が傷つけられる。傷つけられる、傷を負わすことは、ひとつの暴力である。という言葉があるように、暴力を完全否定している。ここは小生とは言わずに私というが、私は個人の「暴力性」を完全否定できない考えを持っている。いわば個人が生きていく、生き抜いていくための「暴力論」なのである。そしてそれは、集団となってまとまる潜在力を持つが、国家のそれとは決定的に違うのだということ。そんなことをつらつらと考え、グダグダと書いてきた。だから、今回もいったんここで筆をおき、次回にその宿題を果たしたいと思う。
(※別記)最近、小生とスナフキン氏とは、メロンぱんち氏のブログ・コメント欄上において若干の意見交換をした。好意的な評価もいただいた。しかし、スナフキン氏がどういう方か、ブログを書いているかなど全く存じえない。ただ、彼のコメントは、メロンぱんち氏と同じく偏向がなく、広汎な知見に基づいている。また、文章からにじみ出る人柄も好ましい。
おまけ:前回のブログにのせた梅の実。四六時中、甘酸っぱい匂いをむんむんと放出してくれている。で、こんなに熟した色になり、さらに濃厚な匂いで部屋を充たしてくれる。その芳香は、錆びついた小生の脳髄をほぐし、甘ーく癒してくれるのだ。
さらに懲りずに、もう少し拾ってこようと例の場所に出張ったところ、前回よりもさらに地面に転がっているではないか。出来るかどうか分からないが、梅干しを作ろうとおもう。単に塩漬けしたシンプルな梅干しだ。平和のなかの暇な老人がやることだ、嘲笑に値するんであろう。
追記:この記事は予告なく、記事の訂正(部分削除、加筆など)をします。その場合、その痕跡、プロセスを正確に表記します。
それで、反論とまでゆきませんが、まあ感想としてお聞き下さい。
そうですね……自身の見聞の中で、阿片に浸した布を通貨として用いていた金三角(ゴールデントライアングル)の軍閥や、国道の外は部族法が国法より優先するパキスタンの北部辺境自治区(トライバルエリア)などか類例にあるのですが、そのような些末な件を問題となさっているようには思えません。そこでいくつか。
先ずは国家の概念として、「国家」とは、ネイション・ステイツまたは、それに準じる組織として仰っていると私は推察します。
つまり、領土と国家主権を持ち、言語、宗教などが同一である集団。
また文明(生産様式)が同じである事。このように定義します。
すると封建領主が国家(そもそもは朝廷や王朝を表す漢語)元首に契約による主従と引き換えに、領土の安泰を保証されるシステム。これがネイション・ステイツの原型と思うのですね。
すると「国民」という意識が産まれたのはいつか?
それはヨーロッパにおいては英仏の百年戦争だと思います。
この戦争は、英国王家(ギョームの子孫)が英国王であると共に、仏国王の臣下のノルマンディー公であった事が原因で、仏王の臣である英国王が、仏領内の領地を主張したのが発端だったと思います。
実際、この14世紀には、国王よりも領土の大きく豊かな領主は数いた訳であります。彼らは国王の命で、自分の領地から郎党や兵を連れて戦場に赴いていました。
つまり、兵士や領民にとって、「オラが殿様の戦」であり、英国人とか仏国人とかいう意識もなく戦闘してました。国家も国民も存在しなかった。
それが1世紀に渡る戦争で様相が一変します。
フランス人である事に目覚めたジャンヌ・ダルクや、
英国であれは黒太子。彼が平民のウェールズ長弓兵を重用し、貴族の騎士よりも大活躍する事で、互いにフランス人、英国人という意識が高まります。民族意識が産まれ、ここに同一言語の民族、民族国家の概念が産まれたと思うのです。
それまでは領主による個人の領地に民も縛られて、王朝としての国家は存在したものの、国民国家的な発想は無かった!
つまり領主は軍閥や豪族のようなもので、乱暴に言えば領地を実効支配するヤクザの親分と変わらなかった!
では、日本に於いてはどうなのか??
①日本の武士政権は公ではあるが正規の軍人や国家ではない。
これは800年の武士政権が続いた為に勘違いされてますが。
武士は軍人ではありません! 国家の軍事力ではない!
王都の北面の武士の時からそうでした。
武士の起源については割愛しますが、武士とは家督による世襲制の
民間軍事企業(今で言うPMC)です。平安時代に異民族の征服に一段落つけた朝廷が、軍事部門を廃して、治安に責任を取らなくなった為に、
民間にそれを丸投げした。受けたのが自衛の為に武装していた武士団
と農兵です。つまりは武装農民の集団で、それらが求めに応じて朝廷の軍事を代行していた訳ですね。
そこには荘園の登場により、律令制(公地公有制度)が崩壊し、そこを自主防衛や自主管理していた武装農民集団が武士団で、これは軍閥つまりヤクザの親分と変わらないと思うのです。
つまり信長を国家元首(政府)として扱い、一揆勢を武装集団として、信長らと分ける事には無理があると思います。
武士の幕府の起源である鎌倉幕府は、そのような親分衆の揉め事を調停する司法組織であって、ようはヤクザ的な軍閥集団です。頼朝は成功して、将門は失敗しただけでしょう。
そして、王権の所有者により、領地支配を任された、文化的に均一な集団の長が治めるというのは、日本と西欧の中世に共通する概念で、
これが日本が明治維新以後に、急速に西欧化に成功した遠因(契約の概念)だと思います。
どちらも領土の問題が起源ですしね。ローマ教皇と天皇というように、
権力を担保する権威が存在し、権力と権威が分離したのも同じ。
西欧と日本がどちらも「政府のヤクザ起源説」という自説の根拠です。
②さらに、そこから逸脱する国家・文明が存在する。しかし、それもヤクザまたいなものと思う話。
平たく言うと遊牧騎馬民族国家です。 これは扱いに困る。
そして「昔の話」ではなく、チベットやモンゴルや新疆ウイグル自治区の問題の底流にあり、現在の世界に影響している!
先ずは「そもそも文明として違う」という事ですね。
領地と戸籍を管理して、暦を整え、生産管理を行うのが農耕文明です。
だから文字も、数字も、天文も発達した。
ようは穀物を育てて、それを収穫する文明ですね。
対して遊牧文明というのは、草を家畜という肉製造機で資源化する文明(生産様式)でして、「領土」の概念がない!!
機動力があるので軍事力があるし、貿易の仲介や、交易路の管理には向いている。
彼らは野蛮とされますが、もともと騎射による巻狩で蛋白源を取り(家畜は乳を取るとも、財産だから日常的に屠殺はできず、狩りが主な蛋白源になる)ますから、「そこいらに勝手に生きてる物は食料源」なわけでして、だから奪ったり、襲撃したりに倫理的なハードルが低い。
襲撃される農耕民としてはたまらんのですが、それが彼らの生産様式から産まれる文化であって、その違いはいかんともし難いです。
すると、どうしても「力が全て」「実力勝負」になる訳で、英雄がいる時は強大になるのですが、跡目相続で必ずモメるので、その王朝は長続きしませんと。(因みに日本のヤクザは基本的に血統主義での襲名はしません。意外ですが)
つまり、かれらの国を国家として観ると、ヤクザそのまんまなのです。
領土で囲まれ、文化的同一性による「国家像」を軸にすると、そこは人類史からはみ出してしまうのですよ。
しかし、中国の、唐朝も、宋朝も、そもそもは漢化した遊牧民の軍閥の王朝ですし、元や清は「まんま遊牧民王朝」ですし。フィンランドはフン族の地の意味で、ハンガリーもフンガリー(正確にはマジャール人)です。
ロシアは船の民もであるバイキングが建てた国ですし。
どうしても彼ら「ノマド」の存在は無視できず、そしてノマドの国は実力主義のヤクザ社会なのです。
彼らノマドが世界史的に軽く見られるのは理由があって、それは2次国家である事ですね。これは別に彼らが中世以後に交易(商業)で発展したから言うのではありません。
もともと家畜というのは、人が畑作している時に、獣も穀物や野菜は美味しいから、畑に集まります。それを囲い込んだのが牧畜の起源で。
しかし、農地が拡がり、農地の占有権が複雑になるにつれて、肥沃な農耕地帯から追われる人たちが出てくる。この人たちが耕作に適さない
草地に出ていったのが、遊牧民の始原ですね。
だから、どうしても複雑な社会機構を持って、それらを文字記録する農耕民には、野蛮人と思えてしまう。なので農耕文明を起源とする文明社会には無視されてしまう。
でも、彼らの世界史的な影響は小さくなく、離合集散するヤクザ的な国家群があった事は、国家というものを人類史で考える時に無視は出来ないと思うのです。
最後にチベットやモンゴルと、北京政府が対立する理由について書いて終わります。
これ文明の対立なんですよ。
チベットもモンゴルもラマ教じゃないですか。ラマ教は遊牧民の宗教(もともと仏教はソクド人や、北方民族のノマドが北魏に持ち込み、それが朝鮮半島経由で日本へ来たのですが)です。
で、ラマ教では草原に鋤や鍬を入れて耕作する事を禁忌としてます。
これはチベットであれ、モンゴルであれ、中央アジアであれ、乾燥したステップ気候では、草原を掘り返すと、地下の湿った土が急速に乾燥してしまい、表土流出するんですね。そして砂漠化する。
内モンゴル自治区に強行に耕地化したお陰で、すでに北京の北100kmまで砂漠化してますね。漢民族には、このラマ教の教えから来る禁忌が理解できないので、どんどん砂漠化させて、環境破壊と禁忌を犯すという意味で、遊牧民の子孫の逆鱗に触れてるのが解らない。
これがチベットとモンゴルの問題の原点だと思います。
ただ、私は日本人は「口出しすべきでない」と思います。コレを言うと人権問題で怒る人がいるのですが。
日本には歴史上、遊牧民がいた事がありません!
故に根本的に農耕vs遊牧の文明対立は理解できないと思うんです。
理解できない事を、理解したつもりになって、不用意に口出しすると、
日中戦争や日米戦争のような不始末になると思うのですね。
理解できない事には口を出さない!!
どうしても口を出したいならば、ヤクザ的な王権できたノマドの歴史をきちんと研究して、それからにすべきと思うのです。
いささか脱線しましたが、私の言い分はここまでです。
長名がとお付き合いを強いてすみません。では。
いやあ驚きました。コメント欄にかくも多くの文字数が書かれているのは、初めて見ますし、それが自分のブログというのも何か光栄の至りであります。
ほんとにありがとうございます。
拝読いたしましたが、何かの講義のよう感服いたしました。
こちらとしましては、スナフキン様がご指摘のとおりネイションステイトとしての国家は、形態はどんなものであれ、首長が部下の精鋭と共に政治をし、国民の安全と財産を守る。時に富も分配する。そういうゆるい言い方ですが、そう定義できます。
古い時代でいえば、ローマ帝国であり、始皇帝が君臨した秦国です。どちらの国も領土という概念を明確に他国に知らしめるために領壁をつくりました。いわゆる万里の長城が有名ですが、ローマのそれも、スコットランド等にはその痕跡があります。
日本は島国ですから自ずからネイションの範囲は明確ですね。ただし、北海道を含めるのは明治以降ですね。ともかく江戸時代には、狭い国土を200ぐらいの範に分けて統治した江戸幕府は凄く賢明といえます。
ご指摘のように武士は、軍人ではありません。しかし、刃を持つことは許された、鉄砲を所有することは国家の首長としての家康は禁じた。
それがいま考えている「個人」の暴力と国家のそれを峻別するカギとなります。
私はヤクザまがいの国家もあると思います。しかし、国家とヤクザ・マフィアは峻別しなくてはいけない。国家がもつ暴力のポテンシャルは途轍もなく膨大で、その威力はヤクザ・マフィアの比ではないと考えています。
ご承知のとおり、核が存在する現代は、所有するだけで「戦争を抑止」することもできるとした。
まあ、それを見せびらかして、国家間のパワーバランスを変えようとするヤクザまがいの国家もありますけどね。
ということで、スナフキンさまの熱量にまったく応えきれない、ちゃちなレスポンスですが、これにて回答とさせてください。
どうかこれからも、長いおつきあいをよろしくお願いいたします。
勧進帳で書いていたので、推敲を伴わないから暴走してしまうのですね。いや駄文に付き合って頂いて、こちらこそ恐縮です。
暴力については、なんであれ暴力を用いる行為については社会や国際社会の目線が非常にキツくなってきており、それ自体は良い事と私は思っております。それでも個人から国レベルまで暴力の種は尽きる事がないのが現状。
米国の小学校銃撃事件のニュースを観ていて、2億6000万人の人口に、4億丁の火器があるアメリカ。毎年に内戦の国と変わらない人数が銃犯罪で亡くなる。そういうの観ると暴力に組織的も個人的もあるのだろうか? という想いがよぎるのです。それでは失礼いたしました。
米国の銃乱射事件はこのところ頻繁におき、目に余る悲惨を伝えてきます。こうした銃の事件はトランプ政権以降、急激に増加し、バイデン政権下でも、その勢いが止まらない。米国では4人以上の死亡の場合、無差別殺人として特定され司法の裁きも異なるようです。
犯人の動機の属性としては、人種・宗教の差別が特定されています。とりわけ白人至上主義者の偏見は底知れなく深く、その根っ子にはユダヤ人差別があり、さらに同じセム人種としての黒人にも向かっているという複雑さがある。
また、一方で動物のように黒人を奴隷として扱った白人のなかには、いま「グレイト・リプレイスメント」という心理的な抑圧に縛られ、心を病んだ人が銃乱射事件をおこす。
ここまで個人の暴力が、野放図に過激になってしまった。この異常さを止揚するのは、何なのか。米国の場合、まず銃を棄てる社会がいちばんの解決法ですが、それからが問題です。
暴力とは、組織も個人も関係ないだろう。確かにその側面の方がおおきい。いま少し、時間をください。
最初は科学ライターの竹内久美子氏の書籍で触れて、「そうかもね」ぐらいの認識だったのですが、よくよく進めていっても差異が見い出せそうもないという感慨に到りました。つい先日、目を通していたキューバ・マフィアを描いた『ザ・コーポレーション』を著したイングリッシュなる人物も冒頭で「マフィアとは国家である」という主旨の文章を使用していたのを始め、【国家】とは政府の意であるならば暴力装置を持った統治機構である・支配体制であるといった言説は実際に多い気がするんですよね。⇐ノーム・チョムスキーもこれでした。
また、イスラエルとパレスチナ勢力との問題は、実際に国連から承認されたイスラエルは国家として認められたのに対してパレスチナの方は認められなかったという問題で検証が可能な気もするんですよねぇ。なので、国家とマフィア帝国との差異は、国家を国家連合が承認しているか否かの差異しかないのではないか…という意見も有力視しています。
5月31日の新聞にもコロンビア大統領選挙はゲリラ左派のペトロ候補が首位となり、企業家の候補との決戦投票に進んだようなのですが、おそらく反米のゲリラ左派が勝ちそうな見込みだと報じられていました。ゲリラとマフィアとでは異なるのですが、ミャンマーの軍事クーデターの件などと併せても、もしかしたら国際連合(別の国家)が承認しているかどうかが国家と認められるか否かの差異に実際になってきてしまっている気もするんですよねぇ。
マフィアにしても、その組合が加入を承認すれば、その加入を希望してる愚連隊も正式にマフィア一家に迎えられるようなので諸々の仕組みは確かに酷似しているんですよね。
国家とマフィアとの差異は、「支配と被支配」の関係性をめぐっての正統性の問題でしかないのではないか――と。
現象的には、国家の成立ちを調べれば、マフィアまがいの組織からはじまった例はあると思います。
でも、私としては国家は正統性というか、国民の支持をうけた法的権限をもち、その上での統治するというようなガイドラインを設定したいという思いがあります。
ただ、暴力装置・威力をひけらかし政権を掌握したところで、国際社会の信任は得られない。ポッと出の「オラオラ国家」はすぐには問屋が卸さないです。
もちろん、法律や政治の知識を持つマフィアがあっても、それが居丈高な恐怖政治をおこなえば、人民は離反するし、難民として国外へ逃亡するでしょう。
話はとびますが、南米では反米政権がけっこう生まれていますが、なんか後ろ盾に中国の影があると噂されています。
かつて米国のCIAが反政府ゲリラを育て、国家転覆を後ろから操ったようなノウハウをそのまま踏襲しているらしいです。一帯一路をこんど南洋のソロモン諸島から中南米に東進する政略です。ほんとかどうか、一昨日のBSフジの「プライムニュース」で解説してました。
そうだ、ミャンマーの軍事政権なんて、もろ中国の援助をうけていますよね。
形態、その力の行使はともかく、マフィアをそのまま国家形成モデルにするには、子供たちの教育にはよろしくないと思うわけですよ、私は。
すくなくとも、ローマ帝国、始皇帝の秦や三国志演義などの歴史物語として後世の人間に語り継がれるような、遠大なストーリーがつくれるキャラクター・英雄がほしいな。
あっ、そういえば南国(インドネシア)で活躍した「ハリマオ」を思い出しました。今夜はそれを想いおこしながら、寝床につくことにします。
権力(パワー)と権威。
ローマ法王とフランク帝国のシャルルマーニュ。
本願寺鎮圧泥沼化に際して、天皇に介入してもらった信長。
つまるところ、権力はその正当性を担保してくれる権威が必要で、それがマフィア国家と国連だったりするのかと。国連は(普通のイスラム教諸国もですが)相手にしませんでしたが、イスラム国なんてのも、ならず者国家のさいたるものですが、一時期は領土を持って建国しましたから。
それで問題なのは、そのお墨付きを与える権威(国連など)の保証というか、その「正当性」は何処にあるか?問題ですね。
中露が国連決議案により、北朝鮮制裁への拒否権を用いた事への、国連総会で説明会が行われてます。やっとこさ拒否権にメスが入り始めたか……の想いです。国連を形骸化させてる癌ですし、そして国連が実は
大戦の「連合国」を意味する組織である事を、言葉のすり替えで誤魔化してきた戦後日本。大戦から70年以上、ついに大戦の戦勝国が牛耳る事の「正当性」を問題視する姿勢が見えた。
つまり正当性とは、その時代の都合で書き変わるもので永遠=普遍ではないという事ですね。歴史を長いスパンで観たら、政治や国家の正当性とは、一時の流行みたいなものでないかと思います。
人に普遍的な優しさや正義はあって欲しいと思いますが、それでも正義や正当性は時代や状況によって変わる。
普遍なものでない。そこを間違えると、「抵抗勢力」になってしまうと思うんですよ。
確かに、「正義や正当性は時代や状況によって変わり」ます。それは普遍的なものではないかもしれない。第三者が認定する、価値観、お墨付きなんて、そもそもその第三者ってどこの誰、なんぼのもんなの? てなことで絶対性なぞない、厳密にいえば。
確かに、イスラム国は領土をもったかもしれない。しかし、人民の信任も得られなかったし、今はもうその存在さえ知る人もいないかもしれない。
逆に言えば、国家とは共同幻想であることを証明してしまった。
私のイメージする国家とは、始祖というものがあり、何代も続き、もちろん血縁を抜きに、人々が安心してそこに暮らす。つまり、国家としての歴史を語ることができる。そこにこそ正統なるものがある。もちろん正当なる国家価値やナショナルアイデンティティは付随しています。
というわけで、ひとまず一呼吸おきませんか。
マフィア国家起源説等は体験や経験と知識や好奇心が結びついて、
体感的なところから産まれた自説です。ゆえに余程の説得力を以て説かれぬ限り私は自説を曲げないのです。
また国家とその歴史というものに小寄道様のような理想も観ていない部分があります。リベラリストの貴兄に保守派の私が言うのは失礼と思うのですが、血筋に関係ないとはいえ、ルーツがあり歴史がある国家像というお言葉を聞いたとき、私は百田某なる作家を思い浮かべたのです。すまないのですが。
中国に憧れを抱くから漢文教育をやめろと主張する自称保守。
こいつバカでないか怒ったのですね。
アメリカが、菊と刀の著者に予算を与えて、対日戦争の準備研究している時に、鬼畜米英と言って、英文学やキリスト教研究を禁じたバカ軍人と同じだろうと。
彼を知り己を知れば百戦危うからず、という孫氏を知らぬのか?と。
(まぁ知らないでしょえね。漢文廃止ですから!)
それで、その主張の根源は「ルーツがあり我らはその正統なる後継者なのだ」というファンタジーだと思っているのです。なので小寄道様がそのような事を仰るのはショックではあります。
が、それは体の芯から出るインパルスなのであろうと思うと、否定する気持ちにはならないです。
つまり、この件について私と貴殿は平行線です。互いにムダになるので、
この件は終わりとしましょう。お付きあい頂きありがとうございます。