小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

卵というメタファー、剥き出されない自己

2009年03月01日 | 芸術(映画・写真等含)

 エルサレム賞受賞の村上春樹のスピーチについて考えた。「風の歌を聴け」でデビューしたときから村上の熱心な読者になった。年齢も近く、大学も一緒だ。ジャズ好きらしかったが、同時代の私たちとは全く違う嗜好で、コルトレーンやアイラーは論外という感じ。玄人好みの渋いオールドジャズが好きらしかった。いわゆる団塊世代とは隔絶した志向性をもつ作家という印象があった。凝った文章でもなく、緻密なストーリー展開でもなく、奇妙なシチュエーションと会話が妙に浸透してくる感じ。それまでにない作家の資質と力量を感じたし、ある種の孤高な生き方というかスタイルを表現していると私なりに評価した。でも、「ノルウェイの森」を読んでから、私は彼の小説は読めなくなった。村上の方法論というか、書くことのモチベーションが了解できたからだ。
 登場人物がみんな独自の「殻」をもっている。個性とかスタイルではなく、現実と自然にたいして、あるいは社会とか歴史的なものとは意思的に関わらないという強固なスタンスを持っている。そういう意味の「殻」である。個性とか人格ではない、物質的にリアルな「殻」をもつことの大切さ。「殻」がどのように形成されたかではなく、その差異を感じとること。そのコミュニケーション・プロセスが物語の主要となっている。「殻」は外界との壁ではないのだ。遮断しないフィルターかもしれない。茂木流でいえば個性のクオリアか。登場人物たちはそれを自覚している。自覚していない人は出てこないし、出てきてもさりげなく排除される。自己を剥きだしにするものは、村上の美意識に反するのか、単に作品の出来を混乱させるだけかもしれない。その意味では、漱石(つまり日本近代文学の伝統)とは対極でもある。
 そんな風に自分なりに村上春樹の小説を読解すると、曖昧だった登場人物の風貌が「卵」にみえた。ほんとうに卵だった。むかしイギリスのテレビドラマに「プリズナー47?」の主人公が危機に直面すると白いゴム風船で自らを覆って逃れる。それが白いブルブルした大きな卵に見えるのだ。こんな面白いテレビを見た人は数少ないだろう。これをイメージしたら村上小説の登場人物がみんな卵に見えるようになってしまった。私は文芸評論家ではないからなんとも表現できない。
 自分なりに書いてみるとこうなる。
 卵と卵が向かい合っている。微妙に色合いが違う殻の表面がブルブルと震えている。それはぎこちなく見えるけど、しっかりとした対話だ。過不足がない正確な言葉の選択をしている。お互いの殻の出来具合やどうしてそんな色具合になったのか、一つひとつ確かめあっている。殻をつくることは全くのオリジナルで、その卵だけの感性に拠っている。その差異は微分的であり、その確認も困難だ。でもそれは大切なことだし、その確認作業そのものが好きなことだ。こんな殻をもっている卵に出会うことは奇跡に近いかもしれない、と思って近づいたけれど分かれることのほうが多かった。お互いに遠慮しながら、そうして何かが作用して共感が生まれ、卵と卵はセックスする。殻を一時的に破って・・。
 そう一つの卵は男でもう一方は女だったのだ。村上の小説に出てくる男女のセックスは以上のように著わすことも可能だ。でもこのパターンは、普遍的ではないにしても蓋然性はあるだろう。だからエルサレム賞受賞のスピーチを読んだとき、わが意を得たりと思ってしまった。
 個人は卵。国家とか組織はシステムであり「壁」だ。村上はこう言っている「私たちのひとりひとりは脆い殻に包まれた、ひとつひとつがユニークで、代替不能の命です」。かれはデビュー以来、このことを表現し続けている(と、思う)。その代わり、システムとか組織とか、そこから生まれる思想やイデオロギーに対して恐ろしく警戒する。
 でも分からないところもある。「日出るところの工場」?とか、カーヴァーの何かの翻訳の解説で書いた「ニューコンサーバティブ=新保守主義」?などの、社会認識とか世界認識は拙いのだが、変に自信があるように読者に訴えている。これも村上自身の殻なのかもしれない。今回のスピーチで初めて、自身の父親像の具体的な輪郭を村上は語った。これも彼流の「殻」の表出か? 
 西欧で生まれた個人主義、世俗的なミーイズミは、村上の「卵」で包摂できるとしたら世界的な作家になるだろう。(まだまだ言い足らないけど、いい加減にしよう)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。