前回の続き
ジェルメーヌ・リシエについてIT検索していたら、興趣をそそられることが多々あった。ちょっと驚いたのは、後期の作品『蟻』(1953)が約3億3千万円で売買されていたこと。所蔵者は東京国立近代美術館、落札者は民間の美術関係会社。超高額だが、世界基準のリシエ評価としては、さもありなんと類推できる。そのほかの美術品の入札についても、想像をめぐらすこと多し。
▲リシエ作『蟻』(1953)
検索では、「柳原義達」という固有名はかなりの頻度で出た。柳原と矢内原伊作が、リシエについての評論を書いている(雑誌『みずゑ』)。リシエに関する単独の著作物は全くでてこない(無いのだろう)。国会図書館には、柳原名義のリシエに関する著書があるらしいが未確認。各大学の紀要いわゆる論文集には、ジェルメーヌ・リシエの名は散見できたが、一般的にはゼロに近い認知度だと感じた。Sekko様に感謝するのみである。
ジェルメーヌ・リシエという天才が、ブールデルあるいはロダン、ジャコメッティのバーターとして紹介されるのはなんとも悲しい。これがこの国の文化的実情なのかもしれない。
前回の記事では、『なんでも鑑定団』に柳原義達の作品が鑑定に出されたことにふれた。番組制作は、地方都市に番組が出張し、地元の人が所蔵する骨董品、美術品を専門家に鑑定してもらう。そのなかで飛び切り面白い鑑定となるものが、東京のスタジオに呼ばれるようだ。柳原義達のそれは、まさにその回の目玉ともいえた。
鑑定を依頼する方々は、所蔵していた本人がもはや故人になられ、処分してもいいものか悩んだあげくのご家族や縁故者がほとんどだといえる。何百万円、何千万もする高価なものだと、生前に故人が吹聴した作品も、プロの眼で鑑定されると偽物だと分かり、二束三文の値しかつかないオチがつくこともある。
その逆に、納戸・蔵の奥に眠っていた所蔵品の数々が、誰それの有名な画家のものだと判別でき、TV鑑定ではすべてが本物、宝の山だったということもある。半信半疑で出品した人の場合でも、正真正銘の逸品で超高額の査定結果となるケースもある。こんなとき、出品者の歓喜の様子や会場の盛り上がりが、これでもかと放映される。
番組の演出は、地元の観客を巻きこんで一喜一憂、落胆あるいは歓喜、垂涎あるいは揶揄など、両極端に振れるように作られている。制作の狙いは、視聴率を稼ぐことだろうが、品位に欠ける嫌いがある。また、鑑定をおこなう一部の専門家の眼力や方法に、どうも鼻がつく感じがして7,8年前から番組を見なくなった。
とはいえ、今回の柳原義達の作品、その来歴の説明としてリシエ、ジャコメッティの紹介がなされていたのは、手前味噌のようだが喜ばしい。番組の人気を保つために、あの手この手で趣向を凝らしているとしておこう。
▲番組に出品された柳原義達の作品『鳩』。鑑定価格はなんと500万円という驚きの結果!
さて、柳原義達の著作『孤独なる彫刻』は、神保町のボヘミアン・ギルドという店で買った気がする。朝倉文夫の教え子という記憶を手がかりに、ロダン、ブールデルはじめ、その系譜につらなる彫刻家たちをとりあげ(マリノ・マリーニ、エミリオ・グレコetc)、さらにパリ留学時代のジャコメッティとの親交のことなどを立読みした。巻末に、矢内原伊作との対話が掲載されていたことも購入理由のひとつ。千円もしない値段で手に入れた記憶があるが定かではない。
▲柳原義達は生前に鳩や鴉を飼っていた。鴉は飛べない幼鳥をひろって飼育した。TV番組では、アトリエで鳩を観察している柳原本人の映像が出てきた! 地方局のニュース映像らしいが、ここまで掘り下げることはなかなかのことだ。
未読であった本には、柳原義達はジェルメーヌ・リシエに直接会ったこと、そのエピソードを披歴している。リシエの芸術観、人となりにふれていて、彼女のあくなき造型への追求、孤高の生き方が伝わってきた。
戦後42歳のときに勇躍としてパリ留学を決行した柳原は、ジャコメッティらと親交をもつことで、リシエの存在の凄さに驚いたようだ。この時は、リシエはスイスで暮らしていたかと思う。アットランダムだが柳原が書いていたことを引用する。なお、これらは筆者が前後を省略して、まさに牽強に引用したものであり、断片的でもある。市井の独り善がりの美術愛好家だと呆れ、どうかご海容のほど願いたい。
◇マダム・リシエを知ったのは、ザボという彫刻家のアトリエであった。作品を彼女に見てもらっていたザボに向って、彼女は強い語調で「ロダンの『地獄の門』のようにおしゃべりが多すぎる」と語っていた。この言葉は私の心に深く残っていて、目的を表出するための単純化の世界を教えられたのである。(中略)ロダンの言葉やブールデルの言葉の真実という幹から、あのマダム・リシエすら、リシエの花を咲かせるしかない。そこに具象の仕事の面白さと、そして表現の困難さがある。
◇「自分の芸術は花でも果実でもない、根であり木であり枝であるものをより見つめている」と、リシエはこの言葉通りに麗しい結果より美しい根源の世界を探し求めた。そしてジャコメッティはこの世のなかに自分が生きている不思議さに、自己の存在の記号を残すために造型していったのだ。私はこの二人の弟子の生き方に、ブールデルの偉大さの存在を感じるのである。
◇人間にしろ、樹木にしろ、ビルにしろ地球上に立っているということは、よくよく考えてみると、確かに不思議なことで、美しいことでもあるのだが、彼らは彫刻家として、その不思議さ、美しさにを真剣に追究した人たちなのだ。
◇人間やモノがなぜ美しいのかは、いろいろ考え方もあるが、たとえば高村光太郎『ロダンの言葉』にある考え方だと、「人間というのは地球の重心の上に精神的なバランスをとって立っているから美しい」ということになる。
◇ジャコメッティは、地球上に立っている美しさと感じると同時に、立っている存在そのものが、恐怖でもあった。芸術上の感覚だけでなく、日常の生活の中でもその恐怖感をいつも感じていたそうだ。
そのほか、柳原義達はジャコメッティについて記した随筆で次のように述べている。
「抽象などというものは、彼の芸術には全然ない。しかし、具象を追求していくうえで抽象化はあった。抽象化せざるを得なかった。芸術というものが自然をコピーすることであれば話は別だが、芸術においてはなんらかの意味で抽象化していくことは当然のことである」
さらに、リシェを評して「彼女はまた型を抽象的に見る。しかも、それは自然の内部にある抽象的生命を抽出することであって、抽象を作ろうというのではない」と言及している。至言といっていいだろうし、リシエが誤解されないように配慮した視点であろう。以上
「なんでも鑑定団」は、日本に滞在する度に一度は見ます。楽しいです。鑑定人の上から目線もそれなりにおもしろい。
私もこれは将来価値があるからともらったものがいろいろあるのですが、ネットで検索したら大した値がついていずがっかりしたものがけっこうありました。
柳原がパリに来たのは戦後42歳とありますから、1910年生まれとして1952年、リシエは1946年4月にパリに戻っています。ドイツ軍占領中に空き家のアトリエを徴用されないように兄がマルセイユから来ていてくれたことを感謝していたようです。
度々チューリヒに戻るからと夫に言い残していったのに、結局そのまま別れました。
小寄道様のおかげで自分の記事を読み直し、あらためてリシエのすごさを思います。キャッチしてくださって嬉しいです。
自分としては、リシエについてもっと語りたいのですが、実際に見ていないのは辛いです。
ロダン系譜の彫刻家としては、型破りの研鑽をかさねたひとですが、二つの大戦をくぐり抜けた女性彫刻家としても、じっくり考えてみたいですね。
アーティストではなく女性としての強い意志、発条(ばね)が感じられ、その意味でももっとフォーカスされていいかと思います。
ご指摘のように、リシエは戦後1年でパリに戻ったきり、そのままだったんですね。柳原がリシエに会ったザボのアトリエは、パリにあったということが分かりました。(ザボが分かりません)
Sekko様ブログへのコメントは、いまだにフォーラムのすべてにアクセスできません。なにとぞ善処のほど、よろしく願います。
柳澤は1952年から5年間ヨーロッパということですから、リシエと付き合いは深くなかったのではないかと。もし彼がリシエのアトリエに出入りしていたとしたらもっと別の考察を残してくれていたかもしれませんね。
コメントはサイトで自由コメントをクリックしてさらに「最新50」をクリックしてから一番下にスクロールして下されれば書き込めるはずなんですが。
確かに敷居が高そうなのでまた考えますが、一度トライしてみてください。
ザボ(Joseph Szabó)について教えていただき感謝です。ただ、グーグル日本の検索エンジンでは、このスペルだと同姓同名のアメリカの写真家がヒットして、邪魔されがちですね(笑)。
さきほど、小生のブログを読んでいただいている読者から、Sekkoさまの写真の凄さを指摘されました。ルーブルに行ったこともあるらしく、フランスでも撮影の規制が厳しいところもあるようですね。
その意味では、今回のリシエ展は画期的だったのでしょうね。
日本にいつかリシエが来る日を待ち望みます。あと2年ぐらいで来てほしいです。
コメント書き込みの件、了解しました。親サイトのホーム画面から入るのが正規ルートなことが判明しました。
次回、そちらにコメントいたします。
私のブログのアートのカテゴリーをご覧になると分かりますが、フランスはルーブルも含めて今はほとんど撮影フリーです。昔はどこでもフラッシュ撮影禁止などがありましたが、作品を傷めないためだったのでしょう。シャッター音も迷惑だということで。今はみながスマホで、日本国外ではシャッター音を完全に消せますし、解禁になったのだと思います。いったん公開展示してミュージアムのサイトにも出しているのだから、個人が撮影して著作権を気にせず拡散できる方が、広く共有できてプラス面が多いからだと思います。日本ではほとんど撮影禁止ゾーンなのは、いったいどんなメリットがあるのか、撮影解禁したらどんなデメリットがあるのか分かりません。日本でも自由に撮影できたら、ブログでも詳しく考察できるのですが…。
日本でスマホのシャッター音が強制なのは、良からぬ撮影をする人(男)が多い、と聞いたことがあります。情けないことです。
美術館で撮影が全面解禁されないのは、よく分かりません。著作権がらみというか、出し惜しみというか、都合のいい権利意識というか、判然としないんです。
もしSNSで写真が拡散されても、悪用されるのはわずかだろうし、拡散されることで展覧会の宣伝とか、知らないアートの気付き、啓蒙につながり、メリットの方が大きいと思いますけど・・。
日本の美術界に属する人たちが、得体のしれないバイアスに縛られているんでしょうか?
ともかく、フランスの自由度というか鷹揚さに、キュレーターが先頭に立って学ぶべきだと思いますが、どうでしょうか。