一昨日の日曜日、地元の「谷中の家」にて月に1回の映画祭に行ってきた。
はじめに月1原発映画祭の主催者から、運営の変更のお知らせがあった。2012年5月から月に1回のペースで、3.11の原発事故に関する数々のドキュメンタリー映画が上映されてきた。7年を経たいま、上映するにふさわしい作品は減少し、これからは隔月で開催する旨の説明があった。(注1)むろん、フクシマの問題はいまだ終息していないばかりか、様々な悩みを抱えながら避難されている人々がいる。
いまだに被爆の不安が囁かれるなか、膨大に積み上げられたフレコンパック、廃棄物焼却後の処理問題(以上、放射性物質関連)、あるいは帰還した高齢者たちのフォロー(ネグレクト)の問題など、副次的な課題、別の新たな困難も生じている(追記:1)
さてさて私たちは、喉元過ぎれば熱さを忘れたのたのだろうか? 7,8年もの時が経てば一般の人々の意識には、フクシマの影はしだいに薄れつつあるのが現実、としたら、余りにも寂しく寒い。(追記2)
「アンダーコントロール」などと平気でウソをつく安倍政権のもと、東電の責任逃れの体質はいまだ改まらず、これらを糾弾すべきメディアは、権力・広告主などに「忖度」し、フクシマに関わることを追求する構えはもはや喪失している。社会悪を指摘し、糾(ただ)すものがこのテイタラク! 人々の疑惑、怒りは、やがて諦めから無関心へと変わっていく、まことにやるせない。
そんななか、「谷中の家」で開催されている原発映画祭は、映画を通じてフクシマ・原発問題を定期的に観て・考える貴重なイベントといえるかもしれない。
今回もだが、フロリダ在住の女性や福島から足を運ぶご夫婦など、遠方からわざわざ谷中に足を運ぶ方が必ずいらっしゃる。こういう「場」が存続していることは、何よりも嬉しくリスペクトしたいと、運営スタッフに惜しみない賛辞をのべる。また、自らが主体的にフクシマに関わる運動をし、そのことを周知させるべく毎回参加する方もいれば、東京に来る用事があったなら、この映画祭に合わせて北海道から上京する方もいる。
「谷中の家」に来る観客は、フクシマ及び原発に対してそれぞれの問題意識を持ち、地元やネットを通じて何かしらアクチュアルな活動を続けている方も多い。立場は異なっていても、フクシマへの思いは、みな根底ではつながっていると思う。こうしてたまにブログに書くぐらいしかできない愚生としては、恥じ入るばかりである。
毎度のことながら、前置きが長くなってしまった。
坂田雅子監督の『モルゲン、明日』(2018年公開)が、今回の上映作品だった。
坂田監督の前作『わたしの、 終わらない旅』も、以前この谷中の家で観た。「核問題」及びそれに向き合う市民の力とは何か、日本人の一個人として何ができるのか・・。その監督自身のライフテーマは今作にも重なり、「日本」というシステムの無責任、問題解決の不徹底さを浮き彫りにする。(監督の経歴などは別記に記したので参考にされたし)
今回の『モルゲン、明日』は、脱原発に踏み切ったドイツを取材し、エネルギー転換への市民意識や行動力を丹念に掘り下げている。周知のとおり、「3.11以降」を受けて、2011年6月ドイツのメルケル首相は、2022年までにすべての原発を廃炉にすることを決めた。この英断というか潔い見切りは、驚きと称讃をもって世界から耳目を集めた。
特筆すべきは、何よりも市民たちが「脱原発」の具体的かつ現実的な行動に移したことだ。代替エネルギー開発と実現に向けて、想像をこえる市民のパワーが結集されたのだ。坂田雅子監督は、まずそのことを確かめにドイツを訪問した。それが、『モルゲン、明日』を撮るモチーフともいえる。
映画『モルゲン、明日』予告編
『モルゲン、明日』の要諦は、敗戦国として行うべきことを決して曖昧にしなかったことだ。国民の一人ひとりが、ナチス・ヒットラーの全体主義に関与したことの深い反省がある。その認識にたって戦後のドイツ民主主義があり、国家の枠をこえて一市民としての覚醒があった。(東西ドイツは分断されていて、そのことの事情、温度差は詳らかではない。メルケル首相は確か東ドイツの出身である)。
イデオロギーや価値観を抜きに、東西ドイツの市民は、全体主義の帰結としての戦争、そしてホロコーストの深い反省がなされたと、小生は考えるし、そのことの共通認識が現在のドイツの基盤になった。それを踏まえて、戦争責任の徹底追及、未来を担う若者たちへの歴史認識の教育、「自立し、考える個人へ」の全人教育にシフトした。戦争を知らない世代への教育、啓蒙は、まさに国家的プロジェクトでしか達成できない。
過去に犯したことの深い反省、責任の取り方と謝罪(1985年のワイツゼッカー演説)など、戦争責任が全国民に内実化されたこと、既成概念を超えることの確かな進歩は、チェルノブイリ、フクシマを経て、「脱原発」に向かうための素地をつくった、と敬意をもって強くおもう。
「谷中の家」における月1原発映画祭の特長は、単に映画を自主上映するばかりでなく、制作者(ほとんどが監督)が会場に来てトークし、質疑応答があること。さらに、その後の懇談では、観客一人ひとりに3分間の発言が許されることだ。映画の感想だけでなく、自らの活動に引きつけて映画を語る人もいる。どんなに熱くトークしようが、3分経てばチーンと音が鳴ってお終いだ(ま、これはという発言は、スタッフの配慮で延長される場合もあるが・・)。
小生は、敗戦後のドイツにおいて、1968年をメルクマールとして、学生運動が社会運動へと変質し、力強い市民パワーにまとまっていくプロセスそのものが、『モルゲン、明日』のドキュメンタリーとして骨格を形づくっていると感じた。当時の若者たちが主体的に、反原発・環境保護の意識と情熱を政治に反映させた。さらに、そこには次世代につなげようとするドイツ的、論理的な意志力がある(「緑の党」の成立をまさに彷彿とさせる)。都市で、村で、学校で、教会で脱原発と自然エネルギーへ情熱を燃やし、実践する多くの人々をみて、感動を覚えないはずはない。
それにひきかえ、日本では戦争責任は曖昧のまま、経済の高度成長とシステムの効率化のみに邁進した。1968年以降も学生運動は、イデオロギー的な党派性差異のみで闘争し、結果的に内ゲバ殺人という人倫にも悖る行動へと激化した。ドイツの学生のように、未来へのビジョンをもち、環境とエコロジー、脱原発から再生エネルギーの転換へと、思想的かつ科学合理性の視座を持ちえたならば、日本は今よりもたぶん真っ当な社会になっていた、と・・。あの時代を青臭く生きた人間のひとりとして、忸怩たる思いがふつふつ湧き上がる。
革命の幻想を夢見た者は、未来のビジョンの輪郭さえも描けなかった。情けないことだ。
(参考:仲正昌樹の『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書2005)と『日本とドイツ 二つの全体主義』(光文社新書2006)は、戦争責任の処し方及び思想性の分析において、ドイツと日本の差をまざまざと浮き彫りにする好著である)
別記:坂田雅子監督のプロフィール
▲坂田雅子監督 京大の哲学科では、上野千鶴子氏と同窓だったとのこと。
長野県に生まれる。65年から66年、AFS交換留学生として米国メイン州の高校に学ぶ。帰国後、京都大学文学部哲学科で社会学を専攻。1976年から2008年まで写真通信社に勤務および経営。
2003年、夫のグレッグ・デイビス(ベトナム戦争で兵役経歴を持つ写真家)の死をきっかけに、枯葉剤についての映画製作を決意。
2007年、『花はどこへいった』を完成させ、毎日ドキュメンタリー賞、パリ国際環境映画祭特別賞、アースビジョン審査員賞などを受賞。
2011年、NHKのETV特集「枯葉剤の傷痕を見つめて〜アメリカ・ベトナム 次世代からの問いかけ」を制作し、ギャラクシー賞、他を受賞。同年2作目となる『沈黙の春を生きて』を発表。仏・ヴァレンシエンヌ映画祭にて批評家賞、観客賞をダブル受賞したほか、文化庁映画賞・文化記録映画部門優秀賞にも選出された。
2015年 『わたしの、終わらない旅』を公開。福島第一原発の事故をきっかけに、フランスの核再処理施設、マーシャル諸島、カザフスタンをめぐり、核エネルギーの歴史をたどる旅を記録したドキュメンタリー。亡き母が数十年前から続けていた反原発運動の意味に、改めて気づいた坂田は、母親と自身の2世代にわたる想いを胸に、兵器と原発という二面性を持つ核エネルギーの歴史を辿る旅に出る。
2018年 『モルゲン、明日』公開
上記の映画ポスター
▲2015 ▲2018
▼ 第43回 月1原発映画祭 『わたしの、終わらない旅』上映後の坂田雅子監督トークを発見!(50分弱、時間のある方はぜひ)
(追記1):直近では福1の「処理水」問題の行方。以前は、汚染水と呼称されていたが、いつの間にか当たり障りのない「処理水」という言葉にすり替わっていた。同じく「非正規雇用」は、「有期雇用契約労働者」となるのであろうか・・。言葉の詐術に惹かれるのは、IQの高い人の特性である。
(追記2)社会学的には、日本人の反応としては当然の結果といえる。「和をもって貴し」を志向するらしい日本人は、意外にも世界的統計によるとパブリックマインドは下位グループに属し、利己的な性向をもっている分析・評価が定まっているとのことだ(山岸&宮台)。
(追記1・2)は、2019.9.22に補記した。
(注1)隔月で開催するようになったのは、ほぼ2年前からだそうである。さらに、その理由は、上映する映画が少なくなったためではなく、上映するに相応しい映画を検討、選別するために、より丁寧に時間をかけたいとしたのが主たる理由とのこと。その他、個人的な理由により、上映会のための準備に専念できないスタッフも出てき、毎月開催が困難になったこともあったという。小生、何を勘違い・聞き間違えたのか、主催する関係者の皆様にたいへんなご迷惑と不快感をあたえてしまった。謹んでお詫び申し上げます。馬齢を重ねてきたとはいえ、結果的に事実を歪曲して書いてしまった。年齢のせいにはできない、痛恨の極みである。自戒して、今後は正確な記述を心がけたい。
最後に、決して開き直るのではないが、「月1原発映画祭」のネーミングは、隔月に上映している現行のシステムとはそぐわないのではないか、と申し入れをさせていただいた。2年前から隔月の上映とはまったく記憶がなく、月1の開催だと思い込んで、映画祭を愉しみしていたからだ。で、ネーミングの変更は、検討するとの回答を主催者の方から得た。以上 2019 .10 .4記