先日NHKでアニメ映画『この世界の片隅に』が、地上波で初放送された。N国党が評判になるなか、危機感を感じて失地回復を期したのか。まさかそのために、幅広い世代から人気を集めたアニメの放映権を、NHKはどこよりも高く買いつけたのかどうか知らん。
放送日の翌日から2,3日後にかけて、当ブログには驚くほどの訪問者数があり、書いた記事の内容、その読解について、改めて責任を感じてしまった。映画を観たのは今回で2回目だし、原作は間をおいて読んだりして、通しできちんと読んだのは今回が初めてといっていい。
何十回も原作や映画を観る方がいると聞いていたが、そういう方が小生のブログを読んだら、一笑にふされる雑文であったろう。恥ずかしいかぎりである。
とはいえ、小生は『この世界の片隅に』を観、読んで、ブログの記事を何本も書き、広島や呉にも人生初の旅行に行ったりもした。片隅のまた片隅で生きている爺にも、それなりの思い入れもあるし、さらに性懲りもなく書いてみたいことがある。
今回、ネットで色々と囁かれる白木リンの存在について、多少読み落としていた点があり、いわゆる『この世界の片隅に』のエロス的問題について補正する必要が生じた。
はじめにお断りしておきたいのは、原作者こうの史世は、読者の思考を妨げず、想像力が自由に拡がるように、「含みを持たせた」プロット(伏線)、予告のない挿画方法を多用している。
たぶんそれは、周作とすずの夫婦関係を、戦前のステレオタイプ的な男女像で描くことは避けたいという思いと、戦争には左右されない普遍的な愛、日本の男と女の新たなエロスをも、表現したい企図があったのではないか、と小生は考えている。
くどいようだが、もうすこし丁寧に書きたい。
銃後とはいえ、戦時下における異常な環境のなかでも、人々の暮らしは「普通のまま」を願い、そこでは女性たちが健全で倹しく、生活の知恵を極限まで発揮する「瞠るべき世界」があったことを、作者こうの史世は発見した。
同じように、男女の関係においても、戦前の男の女の在りかたの実相を探り、作家としての新たな視点、考察すべきなにかを発見したのかもしれない。
普通のままの男女関係は、戦時下ではどのように歪曲されたのか。それより、戦前のジェンダーの在りかたはどうだったのか。「従軍慰安婦」なぞという、今の子どもからすれば、何を想像し、どう考えたらいいのか、不可解なことが多いこの日本・・。
作者のこうのさんは当然のごとく、そこに日本特有のジェンダーギャップと、その同調圧力に翻弄した女性たちを描きたかったはずだ。それゆえに、「昔のふつう」をあえて告発してみるという、作家としてのモチーフもあったのではないか、と今回改めて感じ入った次第である。
「漫画アクション」という青年向けのマンガ誌に発表されたことも、それは大いに関係があったと思われる。編集者との侃々諤々のやりとりもあったろう。
いずれにしても、夫唱婦随、男尊女卑があたりまえの戦前の風潮を踏まえつつ、男女間の愛、絆、エロスなどのテーマを掘り下げ、それはまさに今日的な課題とも共鳴しあい、この作品の奥行きをいっそう深いものにしている、だからこそ、幅広い層に受け入れられた大きな理由もあったと考える。
さて、これまで小生が書いてきたもので、触れてこなかった、気がつかなかったことに、具体例を挙げて再考してみたい。
まず、白木リンについて。
驚いたことに原作では、上巻の2作目にあたる『大潮の頃 10年8月』で白木リンらしき少女が登場していた。これはネットにも指摘されていたことだ。
お盆が来て、すずの3兄弟は、叔父夫婦と祖母がすむ町に出かける。両親も後から来て、みなで墓参し、平和でのんびりした夏の一日が描かれる。その後、兄弟は昼寝をするが、すずだけが目を開けていて、天井からツギハギだらけの着物をきた少女が降りてくるのを見た。その少女は縁側にあった食べつくされたスイカの皮を見て、呆然として佇んでいる。すずは挨拶をして、その子に対峙した。
(この子こそ、後に出てくる白木リンの面影を彷彿とさせる。漫画では、座敷童という扱いであるが、貧しい家庭の中で、遊郭に売られる薄幸の女性の象徴として、作者はリンの役割を、「居場所のない」女として登場させたかったのではないか。そしてリンは、周作とすずのとの関係につかず離れずの位置にいる。
すずは終始「居場所のある」女として描かれる。絵を描く右手を失っても、妊娠しない体でも、彼女の天性で「居場所」を確保する。作者の感情移入はどちらが主なのか、読者も迷走するしかない)。
これまでネタバレはしまいと心していたが、『この世界の片隅に』がこれほどに人口に膾炙したことで、それを恐れることなく書くことにしよう。
周作にとって、すずは運命のひと(女)である。最初の出会いがそれを運命づけているし、ひとさらいの篭のなかでの邂逅も、物語の核として設定されていたはずだ。
しかしながら、白木リンは、周作が一時期遊郭に通い、なじみとなった女性であった! (小生の以前の記事では、その事実認定は完全にはできない、という立場をとっていた)。のぼせあがって結婚まで思い詰めた周作の姿を想像するのも難しい。このファクトは、親戚の叔母の何気ない言葉のなかで語られる。この一コマを読み落としたことが、ぼんくらの小生の恥ずべき点だ。(以下の、挿画を参照されたい。3番目の画が、以上の該当場面)。
▲『大潮の頃 10年8月』から。右上と右下に注目。天井から降りてくる粗末な服の少女。その子は白木リンを彷彿させる顔立ち。初めて読むとき、この顔を鮮明に記憶する人は少ないだろう。この日すずが祖母から貰った大切な着物と、後年ふたりが出会ったときの着物の柄についての不思議な共感的トーク・・。
▲結婚式の当日、周作とすずは初夜をむかえた。そして就寝した後のコマ割りの図。この天井のカットは意味深であり、白木リンの存在を暗示するかのように、小生は感じた。
ぐっすり眠る周作と眠れないすずの対比。エロスの後の静かさがここにある。すずが将来に抱くさまざまな不安、あるいは周作と結ばれた歓び、女としての覚悟・・、様々な読みができるカット・・。作者の意図を、直截に訊きたいところだ。
以下の頁は重要なシーンを描いているが、ぼんくらな小生は「こういうことも男にはあるだろう、戦前ならなおさらだ」と、読み飛ばしてしまった箇所だ。こことは別に、義姉の径子とリンが似ているのも紛らわしいのだが、これも作者の作為なのか?
▲周作の叔父夫婦が、大切な荷物を周作の家に避難させに来る。そのとき屋根裏の納戸で、すずは茶碗を見つける。可愛くて働き者のすずを見て、伯母は、周作の過去をなんとも事もなげに打ち明ける。
「好き嫌いと合う合わんは別じゃけねえ」「一時の気の迷いで変な子に決めんでほんま良かった」
初読のとき何気なく読み飛ばしていた。次頁では周作一家は、みんな呆然とした表情で固まっている。この際だからすべて話そうという当の伯母は、あくまで冷静そのもの。そして、なんとその会話の一部始終を聞いていたのか、その部屋の屋根瓦の上に周作がいたというコマが描かれていた。
以下の挿画は、文字をかけない白木リンが、馴染みの客つまり周作に、万が一のときの個人証明を書いてもらったのだが、その紙片が周作自身の手帳の裏表紙に書いてちぎったことを裏付け、すずがそれを自分の目で確認したところだ。実証性は薄いが、ここはそう読み解くのが妥当であろう。
▲16話で、すずがリンの働く二葉館の前に座って話をしているときに、リンは紙切れを見せた。白木リンの名前、住所、血液型が書かれていた。その紙片の記憶が、周作の手帳と結びついてしまった。そこに嫉妬はなく、すずは周作の人間的な優しさを見出す。すずの性格に、一片の邪悪さがないところが、『この世界の片隅に』の比類なき至高さもあるのだ。
結婚を申し込むためにリンドウの花柄を描いた茶碗まで用意していた周作。でも、これらは挿画として、断片的に語られることであり、必ずしも周作だと断定はできないのだ。だが、やはり周作だと決めていい、そこが作者こうの史世の、ジェンダーとしての創作源泉があるのだと思う。
以下の頁は、子どもができないすずに気づかう周作に対して、意外な言葉で返すところ。「代用品のこと 考えすぎて 疲れただけ」と、自分は白木リンの代用品としての女に過ぎないと落胆しているのか・・。周作のこころの片隅に、いまも白木リンがいることを、それとなく探っているのか・・。男女の機微に精通しないぼんくらでは腑に落ちない唯一の場面。不思議な緊張感のあるシーンが、漫画的な笑いにオチることで、作者は読者にその後の会話を委ねている。