とりあえず超高層ビルをなくす。すると景観が1960年代の前半になる。われわれの意識や世界観もその当時のものとなるだろう。
めちゃくちゃな話だろうか、と治ちゃんは訴える。超高層ビルなんか経済繁栄のシンボルに過ぎず、都市がもつ虚栄でしかない。
世界経済が行き詰まり、地球環境の温暖化が進むなか、日本が「進歩」という志向から「退歩」という途を選択するとどうなるか。少なくとも全世界が注目するだろう。
身の丈にあった経済活動と、国家としての自給自足の生産活動にシフトし、日本独自の優れたモノづくりをメインにした商品やノウハウなどを輸出していけば、たぶん日本は滅びないだろう。子供たちだって、目的のある希望をもてるだろう。
橋本治著「日本の行く途」は、ある程度のリアリティと荒唐無稽なビジョンのアマルガムであるが、納得しながら今日的な基本問題を分析し、かつ楽しく読み解ける本である。
私は「秘本世界生玉子」以来ほとんど治ちゃんのものを読んでいる。私よりも年上であるが、橋本治氏をずーっと「治ちゃん」といって敬愛してきた。「編み物教室」や「恋するモモンガ」だって熟読した熱烈な治ちゃんファンである。「熱血シュークリーム」の下巻はいつ発表されるのだろうか。
さて今度の「日本の行く途」の構想は掛け値なしに面白いし、実現可能な線もほのかに見える。でも、たぶん現実のものとはならない、と私は思う。なぜなら、思想で世界は変わらないからだ。もっと言うなら、世の中に科学者と技術者がいる限り、人類は前向きに志向するはずだから・・。
現在の諸課題はきちんと解決しつつ、それを踏まえつつ未来に進むべきだという考え方が「普通」だからだ。我々の文明そのものが「進歩」をプログラムすることで成立しているからだ。
治ちゃんはなぜ「過去」を見つめだしたのか。「源氏物語」「枕草紙」「平家物語」などを現代語訳していたからといって、「いま」を過去に引き戻すという考えはどういう理路で発想されたのだろうか・・。
藤原正彦も武士の「惻隠の情」をもちだしていた。
旧き善き過去の思い出は誰にでもある。そのころは、その人自身だけでなく、家族や友人たちも生き生きしていた。目的のある希望をもっていた、と普通のひとは心に抱いているのではないか。そういう記憶をもつ人は幸いである。とはいえ、過ぎ去りしことを元に戻すことはできない。
かつて、思想で強引に過去へ引き戻そうという国があった。ナチスである。ドイツ国家の起源となる、旧き善きゲルマン魂を復活して、難局の国家体制を全体主義で乗り越えるという思想だ。その後の展開は歴史をみるまでもない。
マルクス主義だってそういう要素がある。原始共産制がユートピアとして語られ、物象化や疎外のない生き生きした人間性にあふれた世の中だったとしてイメージされた。
人類は過去に戻れない。過ぎ去りしことは、もう元に戻ることはできないのだ。
叡智は過去にしかない。決して否定的にならない。あきらめないことだ。凡夫の私にしても、そう考えようと思うこの頃だ。