小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

経綸窮理について

2017年02月11日 | エッセイ・コラム

 

 

明治新政権の創成にあって、憲法とか教育勅語などの重要な文書を実質的につくったのは肥後(熊本)藩出身の井上毅である。その井上が若かりし幕末のころ、時習館という藩校の寮生であったが、余程の俊才であったのだろう、横井小楠から直々に教えをうけていた。その問答集が「沼山(ぬやま)対話」(講談社学術文庫「国是三論」)としてまとめられ、原文・訳文ともに読むことが出来る。

そこにこんな話があった。

井上が「キリスト教とは聖人君子を生みだすものですか? それにふさわしい宗教ですか?」と問うたのである。それに対して横井小楠は、「かつての基督教は愚民を教化するのが目的だから、たいへん浅薄なものだったらしい。ところが近来になって西洋には、知識人階級というものが生まれ、彼らはキリスト教を必ずしも信じていないらしいのだ。別に一種の経綸窮理の学問を発明し、これをもってキリスト教を補足しているようだ」と答えた。

それから経綸窮理のなんたるかを、縷々懇々と井上に語るのであるが・・。

「経綸窮理」の「経綸」(けいりん)とは、「世の中の秩序をととのえる、ひとつにまとめる」ほどの意。「窮理(※)」(きゅうり)は、朱子学でいうところの「物事の道理を究め、広い知識を得る」こと。つまり経綸窮理を簡単にいえば、「国家の秩序をととのえ、道理をもって治めるための方策およびその知見」ぐらいの意味。横井小楠の言をさらに掻い摘んで言えば、キリスト教という宗教では国は治められないので、科学的な裏付けのある理知的な学問の助けが必要になった、ということ。現代の経済学、統計学などの社会科学だけでなく、生命・物理科学なども視野に入れた総合知みたいなものがなければ、キリスト教の下での治世は満足のいくものとはならない、とした。(もちろん我流の解釈です)

今になってみれば、至極当たり前のことを言っているだけだ。果たしてそうか。

やはり、トランプ政権を生みだした現在のアメリカという国を考えると、どうしても危ういものを感じてしまう。アメリカは、自由と民主主義の国だが、キリスト教信者がたくさんいる国でもある。プロテスタントで約40%、カトリックで約24%の信者がいると言われる。そのうち福音派と呼ばれるプロテスタント系原理主義者は、約15%ほどもいると言われるが、どうだろうか。(この数字は大まかです)

残念なことだが、福音派の彼らは聖書以外のことは信じないというか関心がないらしい。科学や知識は、聖書を貶めるものだとして、はなから疑ってかかる。まして、地動説や進化論を前提にした本は読まない人が多いとのこと。それが嵩じて、読書好きや賢くて頭の良さのような人は嫌われる。残念なことだが、福音派だけでなくプロテスタント系信者の白人の人たちにそういう人が多い。いわゆる「反知性主義」もそうした土壌、環境のもとで生まれたのだろう。

彼らは自分たちの生活行動圏にしか興味がない。ニューヨークがどこにあるか知らないアメリカ人は5人に1人だという。日本がどこにあり、北朝鮮との違いも知らないという。ベトナムがどこにあるか地図を示すと、オーストラリアを指すという。こんな話は最初、冗談かと思った。だが嘘ではなく、本当らしいのだ。

昨日、アメリカ政府の報道官らしき女性が、公式の場で「大統領の娘、イヴァンカさんの服を買いましょう」と視聴者にすすめた。これはもう、公私の区別ができない、その善悪の判断もつかない人がいて、そういう方が政府の要職についているということだ。この類の話はもっとあるのだが、思い浮かべると心震える。考えるだけでも、精神衛生上によろしくない。


本題にもどろう。西欧版の「経綸窮理」なるものを、この日本にもたらしたのは、当初は江戸幕府と交易のあったオランダ人だった。しかし、明治初期には、来日したアメリカ人宣教師たちにより、多くの若き俊才たちが育てられた。内村鑑三、新渡戸稲造、津田梅子らである。岡倉天心も、含めていいかもしれない。

当時のアメリカ人宣教師たちは、彼らなりの「経綸窮理」なるものを携えていたと思われる。でなければ、当時の日本の俊英たちを感化できるはずもないからだ。キリスト教は「耶蘇教」と呼ばれ邪教として江戸時代から認知されていたし、盲目的な信仰だけを目的としたなら日本人への布教は無理だ、と当時の宣教師たちは従前から悟っていたはずだ。

いつから、アメリカのキリスト教は変質したのであろうか。何を契機として、英知を遠ざける浅薄なものになってしまったのだろうか。かつての宣教師がもっていたアメリカ産の「経綸窮理」は、どうして失われてしまったのか。

アメリカの宗教界の内部からの変革が求められる。そんな声は聞こえてこない。


横井小楠ならば「経綸窮理」をどう説くか。

彼は、手がかりとして「居敬」を説く。字義通り解釈すれば、静かに坐って心を一つにして、他に逸らさない。すると経綸の何たるか、広く事物の道理を究めて知識を得ることができる。なにか茫洋としているが、間違ってはいないと思う(※)。東洋的な叡智とさえいえよう。

これに続き、生活物産における生産の道理、海外との交易融通の道、さらに西洋人が発明した技術、汽船・汽車、伝信機、紡織機にふれるのである。また、キリスト教は本質的に宗旨争いをするもの(一神教ゆえの原理)であり、このごろの隆盛する西洋人はそのことを弁えているので、宗教を前面に押し出さないと語る。井上は、そんな凄いキリスト教にふれたら、日本人は染まってしまうのではないかと心配する。

横井は、日本人は今のところ愚民ばかりだから染まりはしない、大丈夫だと語った。

この世界の片隅で、どうなるものでもないことを考える、今日この頃である。

 


▲近所の萩寺に咲いた梅の花。もう二週間前のものである

アメリカ合衆国とのお付き合いは、今のところ安倍首相に任すしかないのだ。(注)


(※)小楠の解説でも腑に落ちない部分があり、図書館に行って調べたみた。「窮理」の漢字は、「居敬窮理」という四文字熟語の由来のものだった。朱子学の修養の眼目であるという。「居敬(きょけい)は、内的修養法で心を専一にして怠らず、起居動作に注意すること。窮理は、外的修養法で広く事物の道理を窮めて、正確な知識を得ること」とある。「居敬と窮理とが合してはじめて仁を実現できる」ものとしたそうである。大修館書店「廣漢和辞典」に拠った。また、「居敬」の熟語に似た「居中」という語を用いて、「居中調停」という熟語も知った。当事国以外の第三国が間に立って、平和裡に紛争を解決することとあった。(新潮 日本語漢語辞典より)

追記:福沢諭吉の著書に「蒙訓 窮理図解」(慶応四年)という啓蒙書があるらしい。図解というので興味をもつが、たぶん西欧発の文明の利器の数々だと思われる。なお、この本をパロディにした仮名垣魯文の「胡瓜遣い」(明治五年)があった。その序文には「実学有益の確論を無用の戯編に翻案せる」とあるが、文明開化を茶化したり言葉遊びに終始した戯作本とのことだ。その挿絵を描いたのが河鍋暁斎である。当時の日本は、キャッチアップも俊敏ならば、そういう風潮を笑う、カリカチュアライズするのも早かった。文化の成熟のしかたは世界一級だとおもう。 2017・2/18 記


(注)本記事が現時点においても読まれているというデータがあり、「なんで今なの」という好奇心から再読。アメリカとの外交など、なんと小生は、安倍首相に「任すしかないのだ」と結んでいた。我がブログの読者なら、ある種のアイロニーであると承知してくれるはずだが、たまたま読んだ人は、筆者が安倍首相に対米交渉の一切を託すような印象を持ったかもしれない。そのような意図は一切なく、国家的なリスクはより深まることを暗に示唆したかった。そんな疑心暗鬼の文脈で書いたことを、改めて(注)としてここに補記した。(2019.5.26:記)


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