筆に随う。
自分自身には徳がない。或いは間違った判断をしている。
つまり自分を悪だと認めることは、とても不快であるしそうした事実は直視したくない。
これが自己欺瞞のはじまりだが、私も含め多くの人が陥る致命的な性向であり弱点であろう。
四六時中清く正しく生きられないのは、そうした自己欺瞞を意図していないのにしてしまう。
そんなジレンマを誰しもが気がついているのに、是正しないで日常的に行ってしまう。
いや、そんな自分を偽ることなんてしたこともない。いつも自分自身に忠実に生きている御仁もいらっしゃるであろう。
それはたいへん素晴らしきことだし、私からは何も言うことはない。
ただ私が日頃自戒していることは、他人様に関わることで私の自己欺瞞から混乱が生じることは、絶対に避けるようにしていることだ。
ただし私にとって、清廉に生きることは困難である。
その清廉さはいわゆるモラルでありハビタスから来るもので、人それぞれに基準が違う。
つねに「論語」とかモンテーニュの「エセー」を手元におき、さらにこれに関する様々な著作も飽きないで読んでいるのは、自分の清廉さをチェックしていないと不安だからだ。
これは「虚栄」なんだろうか。
かつて、アダム・スミスは、虚栄は、高慢と同じく悪徳になりうると言った。
と同時に虚栄が個人の成功と社会の繁栄にたいしてもつ役割も認めていた。(道徳感情論)
自分のエクスキューズでこんな引用をしているのではなく、自分の誠実さがどこまで社会の責任に耐えうるか書きながら思っているのである。
ああどこまで悪文を書き連ねるのだろうか、私は。
現実は私の想像をこえて、どんどん嫌な方向に進む。
これを阻止することはできない。異議申し立ても微力で、効果はゼロに等しい。
馬齢を重ねながらも、自己の点検と知見を深めることを怠らない。
もちろん身近な人に微笑みを絶やさないようにしたい。
私を非難する人も、無視する人もふくめて、共に生きているという感覚をたいせつしたいのだから。
芸大の近く。日頃見慣れた光景をモノクロ写真で撮った。特に感慨はない素人スナップだが、感情のフックみたいな私的な情念を思い出す。
自分自身には徳がない。或いは間違った判断をしている。
つまり自分を悪だと認めることは、とても不快であるしそうした事実は直視したくない。
これが自己欺瞞のはじまりだが、私も含め多くの人が陥る致命的な性向であり弱点であろう。
四六時中清く正しく生きられないのは、そうした自己欺瞞を意図していないのにしてしまう。
そんなジレンマを誰しもが気がついているのに、是正しないで日常的に行ってしまう。
いや、そんな自分を偽ることなんてしたこともない。いつも自分自身に忠実に生きている御仁もいらっしゃるであろう。
それはたいへん素晴らしきことだし、私からは何も言うことはない。
ただ私が日頃自戒していることは、他人様に関わることで私の自己欺瞞から混乱が生じることは、絶対に避けるようにしていることだ。
ただし私にとって、清廉に生きることは困難である。
その清廉さはいわゆるモラルでありハビタスから来るもので、人それぞれに基準が違う。
つねに「論語」とかモンテーニュの「エセー」を手元におき、さらにこれに関する様々な著作も飽きないで読んでいるのは、自分の清廉さをチェックしていないと不安だからだ。
これは「虚栄」なんだろうか。
かつて、アダム・スミスは、虚栄は、高慢と同じく悪徳になりうると言った。
と同時に虚栄が個人の成功と社会の繁栄にたいしてもつ役割も認めていた。(道徳感情論)
自分のエクスキューズでこんな引用をしているのではなく、自分の誠実さがどこまで社会の責任に耐えうるか書きながら思っているのである。
ああどこまで悪文を書き連ねるのだろうか、私は。
現実は私の想像をこえて、どんどん嫌な方向に進む。
これを阻止することはできない。異議申し立ても微力で、効果はゼロに等しい。
馬齢を重ねながらも、自己の点検と知見を深めることを怠らない。
もちろん身近な人に微笑みを絶やさないようにしたい。
私を非難する人も、無視する人もふくめて、共に生きているという感覚をたいせつしたいのだから。
芸大の近く。日頃見慣れた光景をモノクロ写真で撮った。特に感慨はない素人スナップだが、感情のフックみたいな私的な情念を思い出す。