30坪+20坪の菜園

BIG FARMの農事日誌です。

追記-我孫子市久寺家2丁目のK氏には用心したほうがいい

2013-12-26 | その他

きのうの記事は書いていて気が重かった。人とのつきあいはむずかしい。今回の事件でいっそうそう思う。月給取り時代に経験した人間関係と同じように悩まされた。いまも悩まされている。若い時と違って年をとると心の負担は重く感じる。

わたしに中傷誹謗、罵詈雑言を浴びせたKという人物(我孫子市久寺家2丁目)が、66歳にしてあれほどの屈折した妬みを持っていたのかと思うといまでも身の毛がよだつ。悪意というよりも憎しみの顔で“口撃”する姿はなんとも醜く見えた。今回の件で、妬みが大罪だというのがよくわかる。男の妬みのほうが怖いというのもよくわかった。66歳になっても妬む感情は衰えず強いんだということもよくわかった。この年になってはじめてわかった。世間の人はどう見るんだろうか。66歳にもなってなんとも見苦しいと思うのが大方ではないのか。酒の勢いがあったにせよ、66歳にもなれば自制するものだろう。

中傷誹謗をその場ですぐに謝ればいいものを、一転して「言った覚えはない、言う理由はない」としらを切るものだから、白状する機会を逸し、ますます自分の発言を認めることができなくなった。もう引っ込みがつかなくなっているから「知らぬ存ぜぬ」で押し通すしかないのだろう。

わたしに中傷誹謗罵詈雑言を浴びせたから、わたしが怒り、その場で口論になり、仲間が止めにはいった。その明明白白の事実さえ否定して「言った覚えがない」と言い張る。。そこまでしらを切れる神経がわからない。そのうえで「言っていないことをを理解してほしい」という。ウソを認めてほしいということになる。

Kという人物と同じ年恰好のわたしは、こんな経験をさせられると、新たな人間関係に臆病になる。昔からの気のおけない仲間と付き合っているのが一番無難かなと思ってしまう。地域にはそれぞれ異なった人生を歩いんできた人たちが住む。馬の合う人もいればそうでない人もいる。わたしは隠居したら嫌いな人とはつきあわない方針でいた。こんなわがままは許されるだろうと思っていた。それを実践してきた。

生きている限りこれからも人と付き合う新たな機会が出てくる。新しい人にどう向き合うか。相手に少しでも違和感を感じたらつきあいを避ける。これが無難で安全策かなと思う。オレらしくないと思うのだが、それほどにあらたな人間関係に神経質になっている。いまの気分というか、気が弱くなっている自分を打ち破るには、これまでの経験から思い切り山を歩いて体を痛めつけ発散してしまうのが一番方法だとわかっているのだ、その気さえも起こらない。死角に潜むKという人物を見抜けなかった自分がなんとも情けない。

きのうといい、きょうといい、気が滅入る記事ばかりだ。この話題はいいかげんやめよう。わたしはたいした人格は持っていないのだが、Kという人物を相手にしているとわたしまで人品卑しくなるから、このあたりで相手するはやめ、新たな気持ちで新年を迎えたい。先が短いのだから、いまを楽しまなければならないのにこんな邪魔が入ってしまった。


    


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