Kuniのウィンディ・シティへの手紙

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三池敏夫さんのトークイベントレポート(5月7日)〜東京都現代美術館の「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」<その3>

2022-05-14 | 特撮
スペクタクルな映像を撮影する過程で、ミニチュア・セット設計とともに数々の仕掛けを編み出したことも井上泰幸さんの偉業である。円谷英二監督からの信頼もそれで深まっていった。トークイベントで三池さんが写真を見せながら、その驚異の仕掛けも紹介した。

『空の大怪獣ラドン』における阿蘇山の噴火や『日本誕生』(1959年)における富士山の大噴火のシーンなど、迫真の映像を撮るために、鉄工所から業者を呼んで鉄を溶かして流すという常識では考えられないようなことまでしている。また戦争映画『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1959年)の撮影時に、東宝撮影所に革新的な大プールを設計建立した。この大プールは2004年まで、怪獣映画などの特撮映画の撮影に利用された。

また、円谷英二監督のアイデアから高空から見た海を再現するために、大量のお湯で煮て伸ばした寒天を敷き詰める方法も使用された。実現困難な撮影をこうした創意工夫で可能とし、海のリアリティを追求した。この時に使用したゲタなども展示されている。

『モスラ』(1961年)のダム決壊のシーンでは、水落とし用のタンクを指示された数より多く用意したため、円谷英二監督が不機嫌になったのだが、その水流の凄まじさで迫力あるシーンが撮れたため円谷監督を喜ばせたという。

『海底軍艦』(1963年)で井上さんが作成した、陥没するビル街のセットの設計図などを展示。計算し尽くされた緻密なビル街の陥没シーンの撮影は大成功だったそうだ。また水槽に数色の絵の具を次々に垂らして大爆発の噴煙のような映像を作り出すという手法も、この映画では使用された。この大水槽を使った爆発表現は、後年になって再現したドキュメンタリー映像が井上さんのインタビューとともにビデオで紹介されている。

トークイベントの後半で、三池さんは『日本海大海戦』(1969年)で使われた三笠という戦艦の大規模なミニチュアのことに言及した。これは2015年、「館長庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」を熊本市現代美術館で開催した時に発見された。2017年に設立されたアニメ特撮アーカイブ機構(Anime Tokusatu Archive Centre 略称ATAC)が「特撮史上における重要な遺産」との判断で、文化庁からの支援金で修復作業を行い、今は須賀川特撮アーカイブセンターに展示されている。

全長6メートルもある三笠のミニチュアを東京都現代美術館まで輸送し展示するのは難しいため、会場最後の岩田屋ミニチュアコーナーの横に、CGによって再現された映像を実物大で投影している。

井上さんが関わった作品を通して日本の特撮美術の歴史ひいては日本の特撮史の流れが俯瞰できるわけだが、現代、CG主流の作品がほとんどの中、こうしたミニチュアの高度な技術は今後作品の中に活かされていくのだろうか。筆者も三池さんにこの質問をしたし、トークイベントでも同じ質問が出た。

三池さんの興味深い説明はこうだ。CGでは「壊れる表現」などはまだ苦手ではないかという時期もあったが、ここ10年でほぼクリアしている。煙、火、水が流れる表現は、ほぼCGでミニチュア並みにできるようになった。「ただミニチュアの良さは間違いなく今でもあるんですよ。CGはどんどん巧みになってますけど、やっぱりバーチャルなんですよ。コンピューターで作ってる世界であって、ミニチュアの素晴らしさは間違いなくそこに存在する。そこで火薬とか爆発とかやれば、間違いなく物理的に絡む印象というのはそこで撮れるから、映像の説得力は絶対あるんですよ」と強調した。しかし残念なことに、CG班があるため、ミニチュア班を入れる予算がないという。作品としてミニチュアの技術を今後同じように維持するのは難しい時代なので、須賀川特撮アーカイブセンターでミニチュアを展示して、目の前にある存在感を味わってもらいたいと三池さんはトークイベントの最後に締めくくった。

この展覧会の開催とともに、文化庁の予算も使い、井上泰幸展の資料をアーカイブ化する作業も進められている。日本が作り上げてきた特撮映画の歴史と真髄をこの展覧会で確認しながら、多くのクリエーターが作り上げた特撮文化を体系立てて次の世代に遺していくことが大事なことだと強く思った。

この三池敏夫さんのトークイベントの続きは6月にもう一度行われる。

特撮美術の礎を築いた井上泰幸の業績を振り返る「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」東京都現代美術館にて開催中!<その2>

2022-05-13 | 特撮
井上泰幸さんは1922年に福岡県古賀市で生まれた。1944年、井上さんは戦争で左足を失い、戦後は家具作りなどの勉強をし、その後日本大学藝術学部美術科に入学、バウハウスで学んだ山脇巌主任教授に美術造形の基礎をすべて学んだと言う(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)。



この展覧会会場の最初のコーナー「特撮美術への道ーー芸術家であり、技術屋 1922−1953」には、井上さんの家族、妻令子さんとの写真や日大藝術学部時代の几帳面さを物語る「哲学」「芸術学」などのノート、写実的でマリアの優美さを感じさせる「聖母子」像と思われるデッサン、デザインした家具の図面などが展示されている。

井上さんは1952年から新東宝の撮影所で働き始めたのち、大学を卒業する直前の1954年に東宝へ出向する。その年に公開された、日本特撮の金字塔と言われる『ゴジラ』に美術助手として参加(「第2章 円谷英二との仕事ーー特撮の地位を上げるための献身」のコーナーに関連資料展示)。以降は東宝に留まり、特撮美術監督である渡辺明さんの助手として次々と代表的な特撮作品に関わった。

1966年『ゼロ・ファイター 大空戦』から特撮美術監督に就任し、『日本沈没』(1973)などの特撮超大作映画はもとより『ウルトラQ』(1965)などのテレビ作品にも参加した。この展覧会では、作品ごとに井上さんが台本を読んで各シーンを構想した絵コンテやイメージボードを図面とともに展示している。それらが完成された映像作品の場面そのものとなっているということに驚く。「私の場合、まず台本を読んで2、3日特撮シーンの絵コンテを描きます。どのステージが撮影に使えるのかは既にわかってますので、それに応じてどのセットをどのように作るか、またそのための予算などもその間に同時に出していきます」と仕事の流れを本で語っている(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第2章 衝突を経て築かれた円谷英二との信頼関係」p 124)。


『特撮映画美術監督 井上泰幸』キネマ旬報社 2012年1月11日発行

井上さんは常に「LIFE」からの切り抜きなどを集めて、円谷英二監督の「鉄橋を作ってくれんか」というような要望にいつでも答えられるように努力されていたという(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)。事前にあらゆる資料をリサーチし、特撮美術の構築のみでなく、スケジュール管理や人件費・材料費などの予算まで立てていた。その緻密な計算の軌跡は、展示資料の所々に書かれている。

「特撮美術監督・井上泰幸ーーミニチュアではなく、本物を作る 1966−1971」のコーナー。1966年『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』では、何十枚もの絵コンテとイメージボードが並び、井上さんと美術スタッフが作り上げたミニチュアセットに基づいて円谷英二監督が撮影に挑んだことが想像できる。羽田空港のスペクタルなシーンでは、どの角度で撮影されてもいいように、指示されてない部分までミニチュアを作り込んでいったという。

このサンダとガイラという怪獣の造形はグロテスクでインパクトがある。ウルトラマンや数々の人気怪獣を生み出した成田亨さんによるこの2体のデザイン画が残されており、その原画も展示されている。ただ原画の方はシャープでグロテスクさは感じられない。

その近くに井上さんの日記が展示され、1966年2月19日の日記に成田さんのことをいい意味でライバル視されていたことも明らかになっている。「円谷プロの成田君が非常に良いセットを組んだので、参考にする様にとのこと監督から話あり、技術面のよきライバルを得て張り合いがある」と書かれている(幾つかの日記の文章をタブレット映像で展示)。

井上さんがデザインした怪獣の代表作は『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)に出てくるヘドラというサイケデリックな姿体の怪獣である。真っ暗な背景から浮き出ている赤と黄色のヘドロが入り混じった井上さんのデザインボードのヘドラは、シュルレアリスムの不気味な産物のようでなぜか心に引っ掛かる。当時社会問題だった公害をテーマとした話題作で、工場廃液のヘドロから生まれた小さなオタマジャクシのような生物が徐々に巨大化し形態も変わっていく。2016年に公開された『シン・ゴジラ』の形態変化を彷彿させる。

ヘドラが工場の煙突の煙を吸うシーンやゴジラと戦うシーンなどがイメージボードにおいてヴィヴィッドに表現され、映画のシーンそのもの。台本を元に次から次へと自分でイメージしたシーンを描写し、構築していく井上さんのとてつもない想像力が名作を生む原動力になった一例と言えよう。

左足がないハンディキャップを抱え、晩年まで癒えない傷の痛みに苦しみながらも不屈の精神で膨大な量の仕事を井上さんがこなしていったのは、優秀な医者として勤勉だったお父さんの影響が大きいのかもしれない。井上さんは本のインタビューで、幼い頃に亡くなったお父さんの日記を後年読んで「何と19歳で医師免許の試験に合格しており、またそのために驚くほどの努力をしていたことを、その日記で知らされたのです。これをきっかけに、私の仕事に対する態度もまた一段と変わりましたね。それまでよりも一生懸命にやらねばと、心を新たにしました」と答えている。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第3章 美術監督への就任と円谷英二との別れ」p 128)

49歳の時、井上さんは東宝から独立し「アルファ企画」を設立。この会社は特撮テレビ番組の造形物製作などを担当した。『快傑ライオン丸』(1972年)などのピー・プロダクション作品や平成ウルトラマンシリーズなど携わった特撮作品は数多い。特撮超大作『日本沈没』の特撮美術では、序盤のシーンに登場する潜航艇「わだつみ」のミニチュアをデザインした。「三菱の重役がこの映画の現場見学に来られたとき、わだつみの造形を見て三菱の最新艇しんかい2000にそっくりだと驚嘆の声をあげていました」と井上さんは本のインタビューで答えている。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第4章 東宝から独立してアルファ企画を設立 p 152)


                                      〜その3へ続く〜


特撮美術の礎を築いた井上泰幸の業績を振り返る「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」東京都現代美術館にて開催中!<その1>

2022-05-13 | 特撮
古びたホテルが写っている、同じ位置から撮影された2枚の白黒写真。1956年に公開された映画『空の大怪獣ラドン』の福岡の街の1シーンである。1枚は実際の風景写真で、もう1枚は撮影に使われたミニチュアセット。

本物だと思った方の写真は、よく見ると空に黒い鳥のような影、ラドンが写っている。これほどまでに完成度の高いミニチュアが1956年に作られていたというのは驚きだ。当時の建物や看板、鉄道、道路などを正確に再現した街にラドンが舞い降りてビル群を破壊し、ラドンの羽ばたきから起こる風圧で瓦や看板が吹き飛んでしまう有名なシーンは、今も特撮ファンの間で語り継がれている。

この大規模なミニチュアセットを設計し作り上げたのが井上泰幸さんで、その後の日本の多くの特撮映画の特撮美術に携わり、「特撮の神様」として知られる円谷英二特技監督と共に日本の特撮技術の高さを世界に広めた功績は計り知れない。

その井上さんの長年の業績を振り返る大規模な展覧会「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」が東京都現代美術館で現在開催している。(6月19日まで)




特撮美術監督の三池敏夫さんによると、「最初は(日本の特撮映画が有名になったのは)『ゴジラ』(1954年)で、『ゴジラ』や『ゴジラの逆襲』(1955年)は白黒映画でミニチュアとしては確かによくできてますが、本物の街に見えるようなミニチュアセットは『ラドン』(初のカラーの怪獣映画)ぐらいからが最初で、そこから日本の特撮映画の名声は世界にどんどん広がって行った」と言う。(3月19日展覧会初日取材談)

『ゴジラ』を始めとする特撮作品を世に送り出した円谷英二監督を支えていたのがセットや怪獣、メカニックなどのデザインやミニチュア製作を手がけてきた井上さんで、彼がいなければ日本の特撮作品の名声はここまで得られなかったかもしれない。

三池さんによる東京都現代美術館での5月7日のトークイベントでも「井上さんはたかがミニチュアだったものに、スーパーリアリズムを持ち込んでレベルの違うミニチュアセットを作りあげた」と強調されていた。井上さんと約30年仕事を共にした三池さんは、「上からの命令でなく、井上さんの独断でこだわり抜いて(中略)どんどんのめり込んで徹底的にやった末の結果」と説明された。(3月19日談)

井上さんは『空の大怪獣ラドン』の映画制作のため、博多の街に5日間ロケハンに行き、歩道の升目を数えるなど様々な方法で一つ一つ実測し、図面に起こした。ミニチュアを起こす前の図面を見た円谷監督から「写真通りじゃないか⁉︎」と驚かれたほどの出来だった。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』キネマ旬報社 2012年1月11日発行「第1章 偶然が重なって映画の世界へ」p76〜77)

「(特撮美術について)こんな面白いものが世の中の職業にあったのかとそりゃ不思議でしたよ」「ミニチュアじゃない、あくまでも本物を作ってるというセットの空気感ですね。それを描くようにしています」と井上さんは生前のインタビューでそのこだわりを語っている。(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)

この展覧会の目玉は映画『空の大怪獣ラドン』に出てくる福岡岩田屋デパート周辺の大規模なミニチュアセットの緻密な再現だ(会場の最後に展示)。当時の天神の建物や鉄道の色合いなど精巧な佇まいがバックのリアリスティックな青空に映えて美しい。背景画家として井上さんと共に仕事をしてきた島倉二千六さんが、このホリゾントと呼ばれる背景の空を描いた。室内の空間なのにあたかも街自体が澄み切った空気をまとっているかのよう。見ている私たちもその世界に吸い込まれ、看板を仰ぎ見ながら一瞬その時代にタイムスリップする感覚を味わう。



この圧巻のミニチュアセットは三池さんが監修を務め、美術制作会社の老舗マーブリングファインアーツで製作された。井上さんが設計したように岩田屋の屋上の観覧車や岩田屋の一角にある丸太を組んだ工事用の足場も正確に再現されていて、懐かしい気持ちになる。










この展示室の一角には大きなスクリーンがかけられ、ラドンが街を破壊する映画の中のシーンが上映されているという憎い演出。ミニチュアセットの隣には「岩田屋再現ミニチュアセット製作メイキング映像」も流れ、その高度な製作過程が見れる。井上さんが亡くなった後、遺品や資料の保存管理を行なってきた遺族代表の東郷登代美さん(井上さんの姪)の提案でこのミニチュア再現プロジェクトが始まり、製作には3年もの月日がかかったそうだ。

東郷さんは小さな頃から叔父の井上さんに親しんできて、奇しくも亡くなった日に「作品を守る」と約束し、約5000点もの資料を保存管理してきた。このような体系的な展覧会が開催できるのも、東郷さんが資料を自宅にきちんと管理されてきたことが大きいと言える。東郷さんにとって井上さんの遺した資料を東京都現代美術館のような公共の美術館で多くの人々に見せられるのは長年の夢だったそうだ。

トークイベントで東郷さんはこう語った。井上さんの出身地の福岡県古賀市で2014年に最初の展覧会を開催して以来、(以降海老名、東京、佐世保と展覧会開催)生誕100年記念の展覧会を東京で開催することを目指した。当初古賀で抱いた「岩田屋のミニチュアを見てもらえればいいな」という妄想が目的となり、この展覧会開催の実現へと繋がった。「展示に関わってくださった皆さんのご尽力と努力のおかげで、展示が実現できましたことを本当に嬉しく思います」と晴々しい笑顔で挨拶した。

「生誕100年特撮美術監督 井上泰幸展」 会期:2022年3月19日〜6月19日(日) 休館日:月曜日
                    開館時間:10:00〜18:00  会場:東京都現代美術館


                                            〜その2へ続く〜