Kuniのウィンディ・シティへの手紙

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シアトルとパリで活躍した田中保の回顧展「田中保とその時代」展が埼玉県立近代美術館で開催中!

2022-09-15 | アート
1976年日本で初めての田中保の展覧会が「知られざる巨匠」として、新宿の伊勢丹で開催され、34点の作品が紹介された。1904年、田中は18歳の若さで単身シアトルに渡米し、画家になり、1920年にパリに移住した。パリで画家として名声を得るが、54歳で亡くなるまで一度も祖国日本の地を踏むことはなかった。今となっては信じられないが、当時の日本の画壇から田中は評価されなかったのである。

20世紀モダニズムが台頭していた華やかな芸術の都、パリで活躍した日本人画家がいた。しかし、日本では1970年代の初個展までその画家が埋もれていたのはどういうことだろうか。

現在埼玉県立近代美術館で「シアトル→パリ 田中保とその時代」展が開催されている。(10月2日まで)この展覧会では、田中の画家としての激動の道のりを振り返りながら、同時代活躍した画家の作品と共にその足取りを作品と資料で再検証している。田中の足取りを追いながら、その作品を一部紹介していきたい。

田中は1886年(明治19年)金融業を営む父(元岩槻藩士)の元、埼玉県の岩槻で9人の兄弟の4男として生まれた。県立第一中学校(後浦和中学校と改名し、現在の浦和高等学校)に入学するが、3年生の時に父が急逝したため、一家は破産し、離散。9人兄妹のうち、3兄弟はバラバラで海外に行くことになった。田中は中学校卒業後してすぐの1904年、アメリカのシアトルに船で渡った。

移民が押し寄せたシアトルで、田中は農家の手伝い、ピーナッツ売り、コック見習いなどをしながら、英語も学んだ。そして、シアトル市立図書館や美術館、展覧会などに通い、独学で絵を勉強した。1912年頃オランダ人画家フォッコ・タマダの主宰する塾に入り、指導を受けた。当時同じようにアメリカに渡った日本人画家に清水登之や国吉康夫がいるが、清水とはタマダの塾で一緒に学んだ。

この展覧会のセクション1と2では、シアトルでの田中の初期の作品が展示されている。力強い自画像と濃淡の浮かび上がる裸婦の木炭のデッサンに高度な描写力が裏付けされている。この頃の清水の作品も展示されている。


田中保『自画像』(1915年頃)埼玉県立近代美術館蔵

日本でアカデミックな絵画教育を受けずに、欧米の作家が描いたような「黒シートの裸婦」(1915年頃)のような作品を短期間で描けるようになるとは、驚きだ。画家という職業でアメリカンドリームを夢見て、ひたすら貪欲に技術を磨いていったのかもしれない。


田中保『黒シートの裸婦』(1915年頃)埼玉県立近代美術館蔵

展覧会には1912年頃から出展し始め、1914年28歳の時、ワシントン州立協会ギャラリーの北西画家展で、海景画が高く評価され、作品も売れ、徐々にメディアからも注目されるようになる。

1914年、シアトル美術協会で作品を展示したとき、田中の講演会を聞いた詩人で美術評論家のルイーズ・ゲプハント・カンは田中の裸婦の作品を高く評価した。後に田中とルイーズは結婚したが、異人種間の結婚は当時許されず、ルイーズはアメリカ国籍を失った。

1915年サンフランシスコで開催された万国博美術部門にアメリカ代表として選ばれ、『マドロナの影』(1914年)が展示された。黄色の背景に横向きの表情の見えない女性が、オレンジがかった布を持ちながら、すくっと立っている。あたかも夢の中でぼんやり現れた女性を描いたかのような幻想的な油彩作品。この作品は評価が高く、田中の代表作の一つであろう。この頃田中のアメリカでの評価は確立され、シアトル美術協会でも指導をするようになった。

1915年、シアトル市立図書館展示室で初めての個展を開いた田中は、裸婦をメインに描くようになった。しかし、裸婦は「挑発的で非道徳的」と、たびたび展覧会で批判を浴びる。その批判に対して田中は、地元紙に「芸術のあるべき姿」として、「芸術のあくまで個人にかかわる問題であり、個人の心的、精神的な活動の表明である」(『画家タナカ・ヤスシ シアトルとパリにかけた夢』図録 1997年 埼玉県立近代美術館 p 133)という主張の寄稿をした。その後も批判に対するより強い主張の寄稿文も書いたが、アメリカ人には理解されなかった。

シアトルには16年在住したが、田中とルイーズは非難を浴びたアメリカを去って、1920年パリへ約100点ほどの絵画を伴って移住した。エコール・ド・パリの時代、自由な空気の流れる芸術の都で、田中は精力的に個展を開いたり、作品をサロン・ドートンヌなどのサロンやグループ展に毎年出展した。シアトルで酷評された裸婦の作品もパリでは高く評価された。自分の画塾も開いている。

モダニズムの旗手といわれた詩人のエズラ・パウンドや小説家ジェイムス・ジョイス、ヘミングウェイたちとも交流をしながら、田中の才能は大きく開花し、政府が作品を買い取るほどフランスの画壇で成功をおさめたのである。パリでの成功は、文学者も含めて様々な関係者にコネクションが強かったルイーズの助言やサポートも大きかったかもしれない。

田中は、日本人画家たちと距離をおき、交流が少なかった。日本で美術教育を受けず、日本の画壇にコネクションもなかったためか、画壇は田中を受け入れず、1924年第5回帝展に落選した。フランスで成功した日本人画家に対する嫉妬ややっかみなどもあったのではないか。もし、田中の吸引力のある作品群が当時の日本画壇に紹介されていたら、若い芸術家たちへの衝撃は大きく、何らかの強いインスピレーションをもたらしたであろう。

田中は54歳で亡くなるまで日本には一度も戻らなかったが、日本に対する望郷の念を抱き続けていたに違いない。この展覧会に展示されているいくつかの海の風景画の構図やモチーフは、当時ヨーロッパで流行ったジャポニズムも感じさせ、西欧と東洋の融合された田中のエキゾチックな作品は注目されたに違いない。

セクション4の「パリの異邦人、ヤスシ・タナカ」で展示された服を着た作品の女性像は、ルノワールの描く女性のように、頬を赤く染め、夢見がちな眼差しでゆったりと座っている。ルイーズがモデルと言われる『黄色のドレス』(1925-30年)の女性の瞳は、穏やかで相手を包み込む優しさが滲み出ている。ルイーズにとって、自分たちの感性の合うパリに来て、良き理解者に恵まれた満足感や安堵感があらわれているかのようだ。


田中保『黄色のドレス』(1925年-30年)埼玉県立近代美術館蔵 昭和57年度埼玉銀行寄贈


田中保『黒いドレスの腰かけてる女』(1920-1930年)埼玉県立近代美術館蔵 昭和57年度埼玉銀行寄贈

『青いコートを着て腰かけてる女』は、女優の見せるような可愛らしく華やかな表情で、黄色のバックと青の服の対比のせいか、画面に惹きつけられる。

対して、裸婦の作品群が展示された「1924年の活動」というコーナーでは、一瞬別の次元に迷い込んだかのような錯覚に陥る。官能的でヴィーナスを思わせるようなふくよかな体形。様々な画風の眩い裸婦像が配置され、田中の精力的な仕事の跡がわかる。海の前で座る裸婦の後姿を描いた『背中の裸婦』(1920-1930年)は、ブルーの海を背景に、白みがかった肌色の腿から放たれる月光の反射光が際立つ。田中の異国での孤独感を反映しているかのようだ。


田中保『背中の裸婦』(1920-1930年)埼玉県立近代美術館

最後のコーナーに猫を描いた2作も印象的だった。『花と猫』(1920-1940年)は、赤い花の隣の窓際に座る猫をパステルで丁寧に描写している。こちらもバックは黄色で猫が黒。パステルの味わいを最大限にひき出している。もう片方の焦げ茶で固めた油彩の『猫』(1920-1930年)は、写実的で味わいがある。


田中保『猫と花』(1920-1940年)埼玉県立近代美術館

1920年代日本画壇で冷遇された田中保と田中を支え続けたアメリカ人の妻のルイーズが、令和の時代に作品とともに再検証される展覧会の開催によって、田中が海外で残した功績がますます評価されることを願う。

明日のNHK Eテレの「日曜美術館」アートシーンでこの展覧会が紹介されるそうです。

放送日:9月18日(日)9:45〜
再放送:9月25日(日)20:45〜


見出し画像は『サン・ベネゼ橋』(1928年頃)埼玉県立近大美術館 昭和57年度埼玉銀行寄贈


「シアトル→パリ 田中保とその時代」展

会場:埼玉県立近代美術館
会期:2022年7月16日(土)~ 10月2日(日)※会期中、一部作品の展示替えがあります。
前期:8月21日(日)まで
後期:8月23日(火)から
休館日:月曜日(7月18日、8月15日、9月19日は開館)
開館時間:10:00 ~ 17:30 (展示室への入場は17:00まで)



うらわ美術館の「芸術家たちの住むところ」展〜「土地と人と美術と 地域美術研究の実践アプローチ」トークイベントより

2022-09-07 | アート
4月から8月にかけてうらわ美術館で開催された「芸術家たちの住むところ」展を観て、浦和画家の1人、渡邉武夫が残したこの言葉がワインレッドの木が浮かび上がる武蔵野の地の作品と共に、印象的だった。「東京を出て荒川を渡り、平坦な工業地帯や田園を通り抜けて、丘の上に立ち並ぶ家々や木立が見え出すと帰って来たなと思い、しみじみとこの町に愛着を覚えるのである」(「埼玉文芸 画房雑筆」『埼玉新聞 1964年12月10日「芸術家たちの住むところ展」図録p 223より)




浦和区にある1780年建立の玉蔵院 平安時代初期に弘法大師が創建 桜の名所として樹齢100年以上の枝垂れ桜が有名

当時の景色とは打って変わって商業施設が増えた浦和の街並みだが、古びた日本家屋のお店が所々に見受けられ、東京から戻ると人の動きも東京よりゆったり感じられて、この渡邉の言葉に共感を覚える。


裏門通りにある煎餅屋


味わいのある喫茶店「やじろべえ」まるで隠れ家のような雰囲気 吉岡里帆が出たCMのロケ地

浦和は湘南新宿線や上野東京ラインが浦和に停まるようになってから、交通面でますます便利になり、買い物や所用で立ち寄ることが圧倒的に多い。大好きな別所沼公園や埼玉県立近代美術館のある北浦和公園も近い。文教都市でありながら、芸術が身近に感じられる。普段何となく感じていたことを作品と浦和の芸術家の軌跡で具体的に示してくれたのが、この「芸術家たちの住むところ」という展覧会だった。

明治時代の浦和の景色や人々の営みを作品で検証し、歴史的な資料や写真で解説。有名な画家たちが浦和に移り住み、普段見ている別所沼などの過去の姿を描いた画家たちが中央画壇とも関係があり、日本の近代美術史を支えている事実にも驚き、そんな土地に仕事や生活面でずっと関わってきたことに嬉しくなる。

展覧会を担当した学芸員の松原知子さんは、7月13日にうらわ美術館で収録された「土地と人と美術と 地域美術研究の実践アプローチ」という展覧会関連トークイベントで、こう語っている。「地域の人たちに知って欲しいという思いがあって・・作品の解説だけにとどまらないよう多角的に芸術家たちが住んだこの地域の魅力を掘り起こしたいという思いがあって・・(中略)作品を鑑賞するだけじゃなくて、実際にそこに暮らした芸術家たちがこの地域に対してどういうことを言ったのかというものを作品と合わせて展示しました。それが地域の人達にとっての鑑賞の新しい糸口になるようでとても好評で、地域の人達と芸術家が共感するツールになった」。この展覧会場では、浦和画家たちの残した言葉が作品のそばに掲げられ、画家たちの浦和という場所への思いや画家同士のつながりを示していた。
(このトークイベントはうらわ美術館のYouTubeチャンネルで見れる。https://www.youtube.com/watch?v=cKIljrl-A0w&t=1s )

そのトークイベントでは、府中市美術館の学芸員神山亮子さんと板橋区立美術館の学芸員弘中智子さんがそれぞれ企画された地域ゆかりの展覧会が紹介された。神山さんは2009年に開催された「多摩川で / 多摩川からアートする At/ From Tamagawa 1964-2009」という多摩川をテーマとした作家11人の作品の展覧会を企画した。高松次郎の「石と数字」(1960年代)、山中信夫の「川に写したフィルムを川に映す」(1960年代)、そして日高理恵子の多摩川の段丘にある小さな神社の境内の木々のモノクロ作品を写真で紹介された。



この対談で司会をしていた、うらわ美術館学芸員(今回の展覧会担当)の滝沢明子さんが鋭い視点をこう指摘した。「当時もだったんですけれども、地域美術ということと現代美術というのが結構乖離しているなとずっと私は思っていて、それが地域ということから現代美術が引っ張れるのだという驚きがあった」。

板橋区立美術館の弘中さんは、沖縄県立美術館や京都文化博物館と協力して、沖縄や京都の画家たちと池袋モンパルナスや前衛画家たちの関係性を示した「東京⇔沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」(2018年)と「さまよえる絵筆 東京・京都戦時下の前衛画家たち」(2021年)という展覧会を企画した。池袋にアトリエ村があった池袋モンパルナスの話は新聞記事等で読んで以前から興味を持っていたが、その最盛期である1920年代から1930年代に、他の地域の画家たちと交流の動きがあったという事実は、知らなかった。弘中さんは、今も2館と連絡を取り合って、調査を進めているという。





府中市美術館の地域の一つの象徴的な風景をテーマとしたような展覧会や、板橋区立美術館の他の地域との連携をテーマとしたような展覧会などは、地域に根差す美術館だからこそできる試みとして、他の地域の美術館も含めて今後もより深く掘り下げて、情報を発信していくことに期待したい。

地域美術というと地味なイメージがあるが、その強みとは市民にもその経験やネットワークを活かしながら協力し、芸術そのものを引き寄せる可能性が広がるということだ。松原さんの話では、うらわ美術館が5年前に開催したボランティア養成講座に参加した市民の方々が、今も緩やかに繋がっていて、今回の展覧会でも助けてもらったそうだ。「そういう人達の存在を大切にしていきたい」と松原さんは言う。

「浦和は地元に多くの作家がいて、彼らが緩やかに繋がり、周りの人々や画材屋さんも暖かく見守っていた風潮があった」と松原さんが言及した。瑛九が個展を開き、当時の画家たちも利用したコバルト画廊はコバルト画房と名前を変えて、画材や絵画教室、そしてギャラリースペースもある施設として現在も画家や市民が利用している。


浦和で一番古い画材屋「コバルト画房」

人間国宝の工芸作家(彫金)、増田三男の次の言葉が展覧会で作品の横に掲げられ、浦和の人間関係の居心地の良さを表している。「埼玉では『君は君、我は我なり、されど仲良く』」(『埼玉県展の50年』埼玉県美術家協会、さいたま芸術文化祭埼玉県実行委員会、2000年 図録p 195)松原さんのこの言葉に関しての補足説明の中で、浦和の「穏やかで控えめな気質が多くの浦和の芸術家の作風にも現れている」という指摘があった。人の繋がりも穏やかで、工芸や油彩などの分野や会派や派閥を超えて、緩やかに繋がっていって、地域の美術を盛り上げ、引き継いでいるという。地域の芸術を牽引した増田と画家高田誠は、ニックネームで呼び合うほど仲が良かったという。

勿論、文教都市として、師範学校(現在の埼玉大学)という教員を養成する機関が古くからあり、全国から集まった熱心な美術教師がこの地域にいたという影響力も大きいと取材中何回か強調された。東大合格率の高いことで知られる全国有数の進学校、県立浦和高等学校でも名を成した多くの画家たちが指導して、東京藝術大学へ進学し、優秀な画家を輩出したことにも驚く。

上記の浦和の芸術家同士の繋がりや師弟関係は、「うらわ美術館」のYouTubeチャンネルの「小川游と内藤五琅に聞く 浦和絵描き、その思い出」(5月24日うらわ美術館で収録)という動画の中で、洋画家の小川と日本画家の内藤が具体的に旧制浦和中学校(現在の浦和高等学校)時代の思い出とともに詳しく話している。小川は増田のことを大恩人と称し、旧制浦和中学校には高田誠が美術部を時々見にきてくれたという。人間国宝の工芸作家(彫金)内藤四郎を父に持つ内藤五琅も、増田や小松崎邦夫との交流を話している。

「(展覧会で検証したように)なぜ画家たちが浦和に来たのか探っていって、地域に住んでいる人たちに提示できれば、もっと(その人たちが)その地域が好きになるんじゃないかと思う」と8月末にうらわ美術館の滝口さんは話してくれた。滝口さんの言葉通り、何回か行われたギャラリートークでは熱心に耳を傾ける人々の姿が見受けられ、芸術を通して浦和の歴史的な魅力に気づいたのではないか。この「芸術家たちの住むところ」という展覧会を通して、地域に住んでいる私たちも芸術家と同じ目線で地域全体を見渡せるような気もして、滝口さんの言葉通り、さいたま市民としてますます浦和という街が誇らしく好きになった。