Kuniのウィンディ・シティへの手紙

シカゴ駐在生活を振り返りながら、帰国子女動向、日本の教育、アート、音楽、芸能、社会問題、日常生活等の情報を発信。

「放浪の画家ピロスマニ」の孤独~グルジア映画再公開

2015-11-22 | アート
「放浪の画家ピロスマニ」という1969年グルジアで製作された映画が岩波ホールで再公開されている。
監督はギオルギ・シャンゲラヤで、グルジア人の魂を象徴する国民的な画家を静かに描いた映画ということで国際的に高い評価を得た。



19世紀末から20世紀初頭、ピロスマニは生きている間は人とうまく折り合いをつけられず、人々からその芸術世界を理解されず、貧しく孤独のうちに亡くなった孤高の画家。
どの映画のシーンも当時のグルジアの風土や生活文化をまるでピロスマニの素朴な絵画と重なるかのように絵画のようなスケールで切り取られ、思わずショット全体を隈なく鑑賞してしまう。
ピロスマニは猫背でゆっくり歩きながら孤独の痛みを全身で表現し、カメラは真横から撮影し、一緒に動きながらその思いに静かに寄り添う。
1シーンごとの映像の残像がフラッシュバックしながら、そのたびに胸がヒリヒリして、感動の波は穏やかだ。
長い孤独な時間が独学でも国民的天才画家を生んだという皮肉。

「私の絵はグルジアには必要ない。なぜならピロスマニがいるからだ」とまでピカソに言わしめたほど、死後に評価される。
200点あまりがグルジアの国立美術館で展示され、日本では1986年に西武美術館で展覧会が開かれた。
再び展覧会が開かれたら、静かにピロスマニの心の闇を感じてみたい。

早川俊二ギャラリートーク~長野の中条高校時代、創形美術学校、ボザール時代

2015-11-15 | アート
早川俊二ギャラリートークの続きの一部をかいつまんで記す。

高校生でまだ朝日が昇る前の暗い時間帯に、朝日を昇る景色を見ながら微妙な光の変化を感じ、それに世界を感じる感性って…早熟な青年だったのかな。
そういう素養はあったんだろうけど、日々長野の雄大な美しい山々に囲まれた生活がその感性をますます研ぎ積ませたのかも。



その時の原風景と体験が今の早川絵画を築き上げた原点だった。
原風景というのはその人の人生を左右する。

「それがあるから今の絵があるんだと思うんですよ。それがなかったらもっともっとこう対象というものに引っ張られている。対象の前に世界があるというのは感動的だったんで」と早川さんは力説する。
大倉さんも「それが長野の空間につながってる感じですよね」と答えている。



勉強よりひたすらデッサンや絵画に没頭する高校時代。
明るい時は外で風景などを油絵で描き、暗い時は教室でデッサンをやる毎日だったという。
この頃ヨーロッパのルオーなどの巨匠の影響うけ、とくにセザンヌに影響を受け、セザンヌ的に絵を観ていたという。



東京に出てきてから、予備校では受験用のデッサンに一生懸命打ち込む。
そして、創形美術学校で技術的な土台を学び、素晴らしい先生方に出会い、1970年に大阪万博館長をやられた森田恒之先生に見せてもらったゴッホやフランドル絵画などの作品を観て、「これはヨーロッパに行かなきゃだめかな」と思ったという。

そして1974年ヨーロッパへ。
1976年からフランスの国立高等美術学校であるエコール・デ・ボザールに入り、彫刻家マルセル・ジリの指導の元、最初はモデルを使って小さな頭部のデッサンを毎日していた。
ボザールでの4年間ひたすらデッサンに費やし、1981年100号ぐらいの鉛筆のデッサンがムフレ賞を受賞し、8点発表し、そのうちの大デッサン1点と小デッサン3点をボザールが買い上げるという快挙。
この時の作品は師匠ジリも満点をつけたというほどのできで、6月の長野展や10月の札幌展にも1点の大作が展示された。



その時に、ジリから「サロン・ド・メにも出品しないか」と勧められてサロン・ド・メにも出品したという。
ジリはサロン・ド・メの創始者メンバーでもあった。                        
                                  ~ギャラリートーク続く~


エコール・デ・ボザール:エコール・デ・ボザール(フランス語: École des Beaux-Arts)は17世紀パリに設立されたフランスの美術学校である。350年間以上にわたる歴史があり、建築、絵画、彫刻の分野に芸術家を輩出してきた。現在は建築がここから切り離されている。(中略)今日その名を残す有名な芸術家の多くがここで訓練され、エドガー・ドガ、ウジェーヌ・ドラクロワ、ジャン・オノレ・フラゴナール、ドミニク・アングル、クロード・モネ、ギュスターヴ・モロー、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジョルジュ・スーラ、アルフレッド・シスレーなどの名が挙げられる。(ウィキペディアより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB

サロン・ド・メ:サロン・ド・メ ( salon de mai ) は、1943年に対独レジスタンス運動の一環として設立、1945年に第1回展を開きました。 ピカソやミロが死去するまで毎年出品し続けた唯一の団体展として知られており、 現在フランス画壇のみならず、世界の美術界から最も注目を集め、高く評価されているサロンです。(http://ww2.tiki.ne.jp/~natuhitomi/ea/event/finearts/salondemai.htm より)


前回の投稿で、早川さんの奥様結子さんのメッセージも投稿しています。
早川俊二さんも全く同じ気持ちだということです。


追伸:このブログに早川さんのデッサンに関する文があったのを思い出したので、紹介する。
(「ミケランジェロ・デッサン展の感想~画家早川俊二」)
1974年秋に1~2年の予定で渡欧し、まず出来るかぎり重要な美術館を廻ってみようと、莫大な量の絵を観ているうちに、これは模写どころではない、まずデッサンから勉強し直さなければならないなと思えて、とりあえず1976年にパリ国立美術学校に入学した。東京で十分デッサンを勉強したので、油絵教室に登録しながら勉強することも出来たが油絵のことは考えず、デッサンだけに集中するため、Marcel GILIのデッサン教室に登録し、学生として在籍出来る最終年度1981年まで、ここの教室にほとんど毎朝通った。GILIの教室は自由で、描く材料は何でもよく、単色であればデッサンとして認めてくれて、スタイルも、モデルを描写することから現代流行の抽象画まで許され、学生は思い思いに自由に制作していた。

僕はその中で「対象を見て描くことは何なのか?」「絵画芸術とは?」「芸術は人間にとってどういう意味があるのか?」というような大きな命題を抱えながら、ひたすらモデルの頭部を中心にデッサンした。これらへの答えは未だによく分からないのだが、考えながらデッサンをしているうちに、自分がそれまで持っていた偏狭な芸術観から解放され、自由な芸術観が生まれてきた。これは丁寧に教えてくれ僕の硬い意識の殻を破ってくれたMarcel GILIのお陰だった。

「デッサン」というとき、下書き程度の素描だと思っている人が多いだろう。それは意味的には間違いないのだが、デッサンは平面芸術として最もミニマルな行為なのだ。時折本命の絵画、彫刻以上の次元まで突き詰めたデッサンに出会うことがある。多分、描く材料に技術的な駆使をすることが少なく、描く行為に最大限力を注ぐことが出来るからかもしれない。もっとも、デッサンを魅了してやまないような芸術作品に高めるのは容易なことではないが・・・。

パリのテロ事件によせて~早川夫妻より

2015-11-15 | 事件
なんということだ!芸術の都パリで無差別同時多発テロが起こるなんて!
私たち人類の愛する大事な人々、物が破壊されるかもしれないという恐怖。
犠牲者に哀悼の念を表しながら、真っ先に帰国中のパリ在住の早川夫妻のことを考えた。
さぞやパリの友人たちの安否を心配し、今後のパリでの生活を心配されていることだろう。

早川俊二さんは今日長野に向かっていてコメントが書けないので、代わりに妻結子さんのメッセージをファンの方々のために以下掲載します。


14日のテロ事件、帰国中の私ら夫婦は事なきを得ています。
今日、パリの友人らへお見舞いメールを送りました。
多分、みなさん問題ないだろうと思います。

ところで、襲撃戦があって多くの人命が奪われたバタクランは我が家のすぐそばです。
シャーリー・エブドもすぐそばでした。
偶然にも私らは2回とも留守中で、あとで事件を知ることになりました。

「このフランスへの報復はほんの始まりにすぎない」とのIS声明を聞き、
今後のパリ生活から安らぎをもぎ取られた状況・・・。
私らは諸事情で26日から2週間ほどパリに戻りますが、緊急事態宣言が敷かれたフランスで、
通常通りにCDG空港を通過できるのか気になり、在仏日本大使館からのメールで成り行きをみています。

早川ゆいこ   11月15日


早川俊二さんも結子さんとまったく同じ気持ちだそうです。
結子さんに代表して気持ちを書いていただきました。




砂丘館と周辺散策~新潟の芸術文化の香り

2015-11-13 | アート
砂丘館は新潟駅を北上し、信濃川を越え日本海近くのドッペリ坂という坂を登った簡素な住宅地に位置する。



元は砂丘だったという土地に日銀支店長宅が建ち、30代もの支店長が暮らした大きな館というわけで、どことなく威厳がただよう。





中に入ると迷ってしまうほど部屋はあちこちに配置され、古風な庭の紅葉が美しい。



平成12年から一般公開され、平成17年から芸術、文化施設として新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体による管理・運営が始まった。



伝統的な日本家屋の落ち着いた部屋で、美術作品を観ながら、その延長に窓越しに赤と黄色に色付いた木々が目に入ってくる。







ここまで極上の芸術と伝統の融合が味わえるのは初めてで、心穏やかになる至福のひととき。
いっぺんで砂丘館のファンになってしまった。
大倉館長の話では、コンサートやダンスなどのパフォーマンス、お茶会、読書会などの市民の文化活動に開放され、絵の前の畳の広間でヨガ教室もあるというからびっくり。
最近は時々コスプレの若者たちも撮影に来るらしい。
大倉さんにいろいろ砂丘館の説明を受け、砂丘館を満喫後、大急ぎで周辺を散策。
大倉さんからの詳しい取材内容はUS新聞に書く。
周辺の様子を前日と合わせて紹介しよう。

砂丘館の横のあいづ通りを抜けると途中公園があり、目の前が日本海。





日本海見たかったんだ…
これでこの辺りの土地は砂丘だったと実感。

砂丘館の近所には「安吾 風の館」があり、新潟出身の坂口安吾の所蔵資料を展示してある。







すぐ近くの神社で坂口安吾の石碑も見つけ喜んで、文学ゼミ2つも取っている長男に報告したら、「おおっ、坂口安吾ね!『堕落論』読んだわ」(これは早稲田のNHKテレビのロシア語講座の貝澤ゼミなのか、TBSの「王様のブランチ」の市川真人ゼミでか?真人先生、安吾読ませそうだよね…) ワタシも『堕落論』読みたくなったわ!



館長の大倉さんの案内で新潟市美術館もすぐだった。



川村清雄という日本近代絵画の先駆者の展覧会が開催されていた。



勝海舟のお気に入りの画家で歴代将軍や福沢諭吉などの肖像画を油絵で描いていて、なかなか面白い。



真ん前の公園を抜けると旧齋藤家別邸という大きな館があり、こちらもお庭が砂丘館より広かった。





というわけで、文化の香りのする地域をほんのちょっと急ぎ足で回っただけだったが、新潟の文化の土壌の深さを感じられた。
大倉さん、ありがとうございました。







早川俊二ギャラリートークで今までの道のりを振り返る~11月7日新潟の砂丘館にて

2015-11-12 | アート
さて、7日の砂丘館での早川俊二ギャラリートークを振り返ってみよう。

早川俊二氏は、「昨日ここに入って日本家屋に合うかすごく心配だったが、ぴったりだったので、40年やってきてよかったと自分自身で感動している」と目を輝かせながら挨拶をした。
砂丘館始まって以来というほど大勢の観客が詰めかけていて、その反響の大きさを感じる。



冒頭大倉宏館長がこの砂丘館で早川俊二展が開催されたきっかけをこう説明した。
6年前、東京在住コレクターの山下透氏のコレクション展を開催した。
山下氏のコレクションはルオーを始め現代の日本画家の作品で、そこから選りすぐった30点から40点を展示。その中の1点が早川作品だったという。
その後2、3年前に山下氏から長野で大きな早川展をやり、他へ巡回するので、砂丘館でもできないかと持ちかけられた。1点しか観ていない大倉氏は迷ったが、山下コレクションが素晴らしかったので、展覧会を開催することにしたという。

そして、大倉氏が今年の6月の早川俊二長野展を観に行ったとき、「90過ぎた早川さんのお母さんに観てもらいたい」という同級生の強い志にもとづいて、主に同級生でなる実行委員会が3年かけて準備した手作りの展覧会に改めて感動したという。





ここから大倉氏が聞き手となって、今の早川絵画がいかにしてできてきたかの長い道のりの話が始まった。

長野の山の中で生まれ育った早川氏が画家になろうと思ったのは中3のときで、高校時代は朝一番に学校に行って9時まで描き、お昼休みに1時間、夕方4時から暗くなるまで毎日絵を描いていた。
その時代に、「切り通しを見て、向こうの村の家々との距離を見て、なんとなく距離感が見えた。というか空間が見えた」と現在の巧みな空間表現の原点を告白してくれた。

「高校当時、暗いうちに家を出て、写生する場所に行くと、だんだん明るくなってくる。瞬間瞬間の色調がどんどん変わってくる…まだ空間なんていう意識なかった。光の調子がもっとも美しい時期かな。光が強くなってしまうと色がでてきて全体が見えるというよりか物の色が見えてくるでしょ。それよりももっとこう世界全体が見えるような感じだった。いまだにあのとき(の経験が)基本かな」と当時の状況を昨日のことのように振り返る早川氏。

とこんな感じでギャラリートークは流れていく。
受験のためにデッサンに励み、絵画技法を習った創形美術学校時代を経て、渡欧。
パリで巨匠の作品に打ちのめされ、ボザールの彫刻家マルセル・ジリ氏のもとで徹底したデッサンにこだわる。
その後の絵の具との格闘。

と、ここで全部書いてしまうわけにはいかないので、ここいらで休憩します。 ~続く~

写真もいれます。



日本家屋の砂丘館での早川俊二展~新潟にて

2015-11-07 | アート
さいたまから新幹線で1時間ちょっとで紅葉した新潟に着く。
新潟駅からバスで旧日本銀行新潟支店長役邸、通称砂丘館へ。



新潟砂丘の上にあり、1933年にできたので、レトロな雰囲気の美しい家屋の木造建築。



ここにパリで作品を生み続けてきた早川俊二の展覧会が開催されている。
正面玄関を見て、胸の高鳴りは一気に倍増。

受け付けの後ろに女性像が2点さりげなく展示され、その横のリビングにひっそりと静物画が配置され、以前からずっとそこにあったかのように部屋に溶け込んでいる。





細長い廊下を抜けると、蔵があり、そこがギャラリーとなっている。
蔵ですよ、蔵。

驚いたことに、木の床と柱が早川絵画の色彩の基調の一つの茶色と見事にマッチしているのだ。



呼応するといおうか、作品ごとの対象がくっきり浮き出してくる。
長野展であまり印象に残らなかった2014年の作品の方向性が見えたのに嬉しくなってしまった。
今は具体的に説明できないのだが、作風が変化しているのが実感できた。

砂丘館での展覧会を観た人々が口々に「すごくいい!」「早川絵画と合う!」と絶賛していた。







床の間の和室にパリのカラッとした空気が流れる瞬間。
なんて粋な空間なんだろう!

30点のフランス生まれの西洋文化によって醸成された早川絵画が日本の伝統文化の中に見事に溶け込んだ展覧会。



入場料無料で、夜の9時まで開館してるあっぱれな砂丘館。
うーん、ちょっと今晩は眠れないな。

早川さんのギャラリートークも内容がすごかったので、また少しずつアップします。




早川俊二新潟展へ~砂丘館

2015-11-07 | アート
新幹線で新潟へ向かっています。
新幹線から見える山々の紅葉が美しい。

砂丘館での早川俊二展を観にシカゴ仲間のやっちゃんと行ってきます。
妙高に住むやっちゃんとは長野展以来で楽しみです。



11月4日の新潟日報に館長で美術評論家の大倉宏氏の早川展の記事が掲載されていて、「石のような質感」と不思議な表現をされていたので、確かめなくちゃ
14時から早川さんと評論家大倉さんによるギャラリートーク。
お二人でどんなことを言ってくれるんでしょうか。
今朝早川さんから届いたメールです。

皆様

昨日午後、写真家の森岡くんと新潟に到着、チェックインを済ませて砂丘館に向かいました。昭和の初期に建てられたという元日本銀行新潟支店役宅の門を入ると世界が100年も前に戻った感じでした。玄関で靴を脱いで絵が飾ってある最初の部屋へ、自分が描いたと思われる絵が何かずっとそこに飾ってあったように馴染んでいるではありませんか?各部屋の展示を見て最後の大きな展示場になっているお蔵の展示を拝見、木造の部屋にも大倉さんいわく「石が夢想する」ような早川絵画も違和感なく馴染んでいるので久々に感動興奮しました。新潟展を発案してくれた山下さん、その案を快諾してくれた大倉館長に感謝!新潟は若干遠いですが時間的な余裕がある方にはぜひ見ていただきたく思います。今日は午後からギャラリートークで言葉のない僕の頭から何が出てくるのか不安ですが、白紙状態で臨むつもりです。早川俊二