浦和というと、サッカー熱の高い「浦和レッズの街」というイメージが大きい。浦和駅の西口を降りると「URAWA Soccer TOWN」の赤い大きな文字が飛び込んでくる。2002年日本でのワールドカップの舞台「埼玉スタジアム2002」は、全国屈指の観客動員数を誇る。近年「住みたい街ベスト10」入りも果たし、テレ東の『出没!アド街ック天国』でも何回か浦和特集が組まれるほどの人気の街となった。
そのサッカーの街浦和には、文化面でもう一つ大きく誇れる顔を持つ。戦前から「鎌倉文士と浦和絵描き」と言われるほど画家の多い町としても有名で、かつて多くの才能溢れる画家たちが宿場町の面影が残る浦和というのどかな土地に住居を構えていた。
大きな理由として、美術学校や国立美術館がある上野までの交通の便が良く、(京浜東北線一本で上野まで30分ぐらい)台地で地盤がしっかりとした自然環境に恵まれた土地だったということだ。そこで、1923(大正2)年の関東大震災によって被災した画家たちが被害の少なかった浦和に次々と移住してきたのである。また「大震災の前から埼玉県師範学校や旧制浦和高校などがあり、文教地区として浦和にはいい教師が集まり、人材を育てる基盤もあった」とうらわ美術館学芸員の松原知子さんは説明する。
現在うらわ美術館でその画家たちを一同に紹介する「芸術家たちの住むところ」という展覧会が22周年開館記念として(当初20周年開館記念として開催予定だったが、コロナ禍で延長)開催中である。(8月28日まで)うらわ美術館は、当時多くの画家たちが住んだ鹿島台という振興住宅地(別所沼の東側で現在この地名はない)からも近いロイヤル・パインズホテルの3階に位置する。
その画家たちの描く対象となった別所沼は、今はさいたま市民の人気スポット、「別所沼公園」として整備されている。背丈の長い330本ものメタセコイアに囲まれた美しい沼の静謐な佇まいが多くの人々を惹きつけ、浦和という都会の言わばオアシスになっている。初めて訪れた人々は、突然現れる奇跡のような自然の佇まいに感嘆の声をあげるようだ。
当時は牧場まであったというから、池に映る緑の木を目に焼き付けながら、画家たちが絵筆をふるって創作に集中していたことが想像できる。松原学芸員の話では、「画家たちが集中して住んだ鹿島台は、高台にあって眺めがよく、洋館もあれば牧場や緑も多くあり、画家にとって理想的な場所だった」と言う。(2020年9月28日朝日新聞夕刊p3)
「その頃浦和にはたくさんの画家が集まっていました」という須田剋太の(加藤勉『画狂 剋太曼荼羅 須田剋太伝』邑心文庫 2003年)言葉でこの展覧会は始まるが、当時40数人ほどの画家たちが住んでいたという。
「描かれた土地の記憶」というセクション1では、のどかな風景の美しさを象徴するかのような、福原霞外(1870〜1912)が明治期に描いた『別所沼』(制作年不明)という落ち着いた油彩作品が最初に目に入る。現在の別所沼も水面に映るメタセコイアの縦長の緑と水色の空や夕日の対比が絵になるが、120年以上もの前の風景は、丸みを帯び、うっそうとした緑で包まれた沼の水面に暮れ行く夕日の色を反映させ、その静寂の瞬間を重厚な油彩の筆致で切り取っている。現在も時折美しい鷺が飛び交う別所沼に、当時は白鳥も舞い降りていたことがわかる。
福原霞外『別所沼』制作年不明 うらわ美術館蔵 作品画像は図録p 31より
最初のコーナーで目を引くのは、鹿子木孟郎(1874〜1941)の重厚で毅然とした54歳の『自画像』作品(1928年)。岡山で生まれた鹿子木は、1899年25歳で埼玉師範学校(現在の埼玉大学)へ助教諭として1年半赴任し、アメリカやフランスへ留学した。前期に展示された『日本髪の裸婦』(1899年)は師範学校時代の油彩作品だが、暗い色調から浮かび上がる背の肌合いとその写実性が印象に残る。
鹿子木孟郎『日本髪の裸婦』1899年 府中市美術館蔵 前期展示 作品画像は図録p120より
その鹿子木の教鞭の後を引き継いだのが大阪生まれの福原で、1900年に埼玉師範学校(現・埼玉大学)に図画教諭として赴任し、浦和の常盤に住み、12年間浦和の美術教育に尽力した。病気のため他の画家のような留学は叶わなかったが、没後教え子や友人たちが画集を刊行するほど慕われ、その教育に関する資料や写真も残っている。(展覧会前期に展示)
福原と鹿子木が残した精密な鉛筆デッサンの中で、玉蔵院、別所沼、常盤、大戸、針ヶ谷、中山道周辺や与野、岩槻などの田園風景を描いた作品が展示されている。他の絵画作品も含めて、さいたま市アーカイブセンター提供の写真スライドなどと比べながら、当時を振り返る貴重な資料でもある。2人の風景画デッサンから藁葺き屋根の下での当時の人々の営みや明治時代の趣きを感じさせる。
福原霞外『玉蔵院』1891〜1910年うらわ美術館蔵 作品画像は「市報さいたま浦和区報版」2021年6月号表紙より
この2人と同世代の浦和生まれで、埼玉洋画の草分けと言われた倉田白羊(1881〜1938)の両親の肖像画も展示されている。倉田の父は漢学者で、師範学校で教諭をしているときに白羊が現在のさいたま市桜区に生まれた。兄の弟次郎が浅井忠に学び将来も期待されていたが、24歳の若さで病没した。白羊は兄の遺志を継ぐために13歳で浅井忠に入門し、画家を目指した。(『埼玉の画家たち』水野隆 平成12年 さきたま出版会)暗闇の中の仙人のような風貌の父を19歳の時油彩で表現し、上田に移住してから変化した明るいタッチで母を描いた。
倉田白羊は中学の教師を経て時事新報者の記者をしながら、美術批評や小説なども書いたインテリであった。自然のリアリズムをとことん追求した伸びやかな描写力で、1920年に移住した信州の明るい山岳風景も多く残している。『埼玉の画家たち 水野隆』p68~69参照
その後の「絵描きの街浦和」を形成していった近代の画家たちを展示作品とともに紹介しよう。1923年の関東大震災直後に小林真二、そして武内鶴之助、相馬其一、跡見泰が次々に鹿島台に転入してきた。浦和画家や文化人たちが好んだ別所沼に近い鹿島台という閑静な新興住宅地で、作品制作に集中できたのだろう。
武内鶴之助(1881〜1948)は、明治末にイギリスに4年間留学し、アカデミックな教育を受け、その力量でロイヤル・アカデミーに2回入選した。1924年にこの鹿島台にアトリエを構え、日本にパステル絵画技法を紹介した。前期に展示された空や雲の連作では、パステルの速乾性を生かしながら、ロンドン郊外の刻一刻と移ろいゆく空の光と影をターナーの油彩作品を思い起こさせるような繊細な色彩で表現した。
武内鶴之助『気にかかる空』制作年不明 うらわ美術館蔵 前期展示 作品画像は図録p130より
全体に黄緑色を配した『もれ陽』(制作年不明 うらわ美術館蔵 前期展示)や『木の間の光』(制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示)と『月』(制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示)は小品ながら、じっと見ているとやわらかな色彩の光が放つ吸引力と奥行きのある空間に思わず惹き込まれる。
武内鶴之助『月』制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録p 59より
今回展示されてないが、『アラシの夕』(1912年 埼玉県立近代美術館蔵)のような油彩画もアカデミックな表現の中に、バルビゾン派のような叙情性が漂っていて、画面に入り込みやすい。
黒田清輝の指導を受け、白馬会、光風会、文展、日展等で名をなし、2年間のパリ留学後の1925年に鹿島台に転入し、亡くなるまで浦和に住んだ跡見泰(1884〜1953)は、日本のバルビゾンを夢見てアトリエを建設したという。(図版p52)黒田清輝の流れを忠実に反映した印象主義を取り入れた外光表現で一家をなした。(『埼玉の画家たち』 水野隆 p71)『初秋静日』(1948年さいたま市立博物館蔵)では、木を手前に大きく置いて、淡い水色の空をバックに教会を中心に眺めた景色はあたかもヨーロッパの田園風景の一コマのようで、現在の浦和からはとても想像できないような光景が広がる。
跡見泰 『初秋静日』1948年 さいたま市立浦和博物館蔵 作品画像は図録p53より
見出し画像 「芸術家たちの住むところ」展チラシより
展覧会場:うらわ美術館
https://www.city.saitama.jp/urawa-art-museum/exhibition/whatson/exhibition/p086245.html
会期: 2022年4月23日(土曜日)~8月28日(日曜日)
前期:4月23日(土曜日)~6月19日(日曜日)
後期:6月28日(火曜日)~8月28日(日曜日)
開館時間 10時~17時
金曜日・土曜日のみ 20時まで(入場は閉館30分前まで)
休館日:月曜日(ただし7月18日は開館)、6月20日~27日、7月19日
8月12日(金)19時から40分程度の学芸員による無料のギャラリートークがある。(当日の観覧券が必要、事前予約必要なし)
展覧会の作品・作家の解説を行う。
文責 馬場邦子
〜その2へ続く〜
そのサッカーの街浦和には、文化面でもう一つ大きく誇れる顔を持つ。戦前から「鎌倉文士と浦和絵描き」と言われるほど画家の多い町としても有名で、かつて多くの才能溢れる画家たちが宿場町の面影が残る浦和というのどかな土地に住居を構えていた。
大きな理由として、美術学校や国立美術館がある上野までの交通の便が良く、(京浜東北線一本で上野まで30分ぐらい)台地で地盤がしっかりとした自然環境に恵まれた土地だったということだ。そこで、1923(大正2)年の関東大震災によって被災した画家たちが被害の少なかった浦和に次々と移住してきたのである。また「大震災の前から埼玉県師範学校や旧制浦和高校などがあり、文教地区として浦和にはいい教師が集まり、人材を育てる基盤もあった」とうらわ美術館学芸員の松原知子さんは説明する。
現在うらわ美術館でその画家たちを一同に紹介する「芸術家たちの住むところ」という展覧会が22周年開館記念として(当初20周年開館記念として開催予定だったが、コロナ禍で延長)開催中である。(8月28日まで)うらわ美術館は、当時多くの画家たちが住んだ鹿島台という振興住宅地(別所沼の東側で現在この地名はない)からも近いロイヤル・パインズホテルの3階に位置する。
その画家たちの描く対象となった別所沼は、今はさいたま市民の人気スポット、「別所沼公園」として整備されている。背丈の長い330本ものメタセコイアに囲まれた美しい沼の静謐な佇まいが多くの人々を惹きつけ、浦和という都会の言わばオアシスになっている。初めて訪れた人々は、突然現れる奇跡のような自然の佇まいに感嘆の声をあげるようだ。
当時は牧場まであったというから、池に映る緑の木を目に焼き付けながら、画家たちが絵筆をふるって創作に集中していたことが想像できる。松原学芸員の話では、「画家たちが集中して住んだ鹿島台は、高台にあって眺めがよく、洋館もあれば牧場や緑も多くあり、画家にとって理想的な場所だった」と言う。(2020年9月28日朝日新聞夕刊p3)
「その頃浦和にはたくさんの画家が集まっていました」という須田剋太の(加藤勉『画狂 剋太曼荼羅 須田剋太伝』邑心文庫 2003年)言葉でこの展覧会は始まるが、当時40数人ほどの画家たちが住んでいたという。
「描かれた土地の記憶」というセクション1では、のどかな風景の美しさを象徴するかのような、福原霞外(1870〜1912)が明治期に描いた『別所沼』(制作年不明)という落ち着いた油彩作品が最初に目に入る。現在の別所沼も水面に映るメタセコイアの縦長の緑と水色の空や夕日の対比が絵になるが、120年以上もの前の風景は、丸みを帯び、うっそうとした緑で包まれた沼の水面に暮れ行く夕日の色を反映させ、その静寂の瞬間を重厚な油彩の筆致で切り取っている。現在も時折美しい鷺が飛び交う別所沼に、当時は白鳥も舞い降りていたことがわかる。
福原霞外『別所沼』制作年不明 うらわ美術館蔵 作品画像は図録p 31より
最初のコーナーで目を引くのは、鹿子木孟郎(1874〜1941)の重厚で毅然とした54歳の『自画像』作品(1928年)。岡山で生まれた鹿子木は、1899年25歳で埼玉師範学校(現在の埼玉大学)へ助教諭として1年半赴任し、アメリカやフランスへ留学した。前期に展示された『日本髪の裸婦』(1899年)は師範学校時代の油彩作品だが、暗い色調から浮かび上がる背の肌合いとその写実性が印象に残る。
鹿子木孟郎『日本髪の裸婦』1899年 府中市美術館蔵 前期展示 作品画像は図録p120より
その鹿子木の教鞭の後を引き継いだのが大阪生まれの福原で、1900年に埼玉師範学校(現・埼玉大学)に図画教諭として赴任し、浦和の常盤に住み、12年間浦和の美術教育に尽力した。病気のため他の画家のような留学は叶わなかったが、没後教え子や友人たちが画集を刊行するほど慕われ、その教育に関する資料や写真も残っている。(展覧会前期に展示)
福原と鹿子木が残した精密な鉛筆デッサンの中で、玉蔵院、別所沼、常盤、大戸、針ヶ谷、中山道周辺や与野、岩槻などの田園風景を描いた作品が展示されている。他の絵画作品も含めて、さいたま市アーカイブセンター提供の写真スライドなどと比べながら、当時を振り返る貴重な資料でもある。2人の風景画デッサンから藁葺き屋根の下での当時の人々の営みや明治時代の趣きを感じさせる。
福原霞外『玉蔵院』1891〜1910年うらわ美術館蔵 作品画像は「市報さいたま浦和区報版」2021年6月号表紙より
この2人と同世代の浦和生まれで、埼玉洋画の草分けと言われた倉田白羊(1881〜1938)の両親の肖像画も展示されている。倉田の父は漢学者で、師範学校で教諭をしているときに白羊が現在のさいたま市桜区に生まれた。兄の弟次郎が浅井忠に学び将来も期待されていたが、24歳の若さで病没した。白羊は兄の遺志を継ぐために13歳で浅井忠に入門し、画家を目指した。(『埼玉の画家たち』水野隆 平成12年 さきたま出版会)暗闇の中の仙人のような風貌の父を19歳の時油彩で表現し、上田に移住してから変化した明るいタッチで母を描いた。
倉田白羊は中学の教師を経て時事新報者の記者をしながら、美術批評や小説なども書いたインテリであった。自然のリアリズムをとことん追求した伸びやかな描写力で、1920年に移住した信州の明るい山岳風景も多く残している。『埼玉の画家たち 水野隆』p68~69参照
その後の「絵描きの街浦和」を形成していった近代の画家たちを展示作品とともに紹介しよう。1923年の関東大震災直後に小林真二、そして武内鶴之助、相馬其一、跡見泰が次々に鹿島台に転入してきた。浦和画家や文化人たちが好んだ別所沼に近い鹿島台という閑静な新興住宅地で、作品制作に集中できたのだろう。
武内鶴之助(1881〜1948)は、明治末にイギリスに4年間留学し、アカデミックな教育を受け、その力量でロイヤル・アカデミーに2回入選した。1924年にこの鹿島台にアトリエを構え、日本にパステル絵画技法を紹介した。前期に展示された空や雲の連作では、パステルの速乾性を生かしながら、ロンドン郊外の刻一刻と移ろいゆく空の光と影をターナーの油彩作品を思い起こさせるような繊細な色彩で表現した。
武内鶴之助『気にかかる空』制作年不明 うらわ美術館蔵 前期展示 作品画像は図録p130より
全体に黄緑色を配した『もれ陽』(制作年不明 うらわ美術館蔵 前期展示)や『木の間の光』(制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示)と『月』(制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示)は小品ながら、じっと見ているとやわらかな色彩の光が放つ吸引力と奥行きのある空間に思わず惹き込まれる。
武内鶴之助『月』制作年不明 うらわ美術館蔵 後期展示 作品画像は図録p 59より
今回展示されてないが、『アラシの夕』(1912年 埼玉県立近代美術館蔵)のような油彩画もアカデミックな表現の中に、バルビゾン派のような叙情性が漂っていて、画面に入り込みやすい。
黒田清輝の指導を受け、白馬会、光風会、文展、日展等で名をなし、2年間のパリ留学後の1925年に鹿島台に転入し、亡くなるまで浦和に住んだ跡見泰(1884〜1953)は、日本のバルビゾンを夢見てアトリエを建設したという。(図版p52)黒田清輝の流れを忠実に反映した印象主義を取り入れた外光表現で一家をなした。(『埼玉の画家たち』 水野隆 p71)『初秋静日』(1948年さいたま市立博物館蔵)では、木を手前に大きく置いて、淡い水色の空をバックに教会を中心に眺めた景色はあたかもヨーロッパの田園風景の一コマのようで、現在の浦和からはとても想像できないような光景が広がる。
跡見泰 『初秋静日』1948年 さいたま市立浦和博物館蔵 作品画像は図録p53より
見出し画像 「芸術家たちの住むところ」展チラシより
展覧会場:うらわ美術館
https://www.city.saitama.jp/urawa-art-museum/exhibition/whatson/exhibition/p086245.html
会期: 2022年4月23日(土曜日)~8月28日(日曜日)
前期:4月23日(土曜日)~6月19日(日曜日)
後期:6月28日(火曜日)~8月28日(日曜日)
開館時間 10時~17時
金曜日・土曜日のみ 20時まで(入場は閉館30分前まで)
休館日:月曜日(ただし7月18日は開館)、6月20日~27日、7月19日
8月12日(金)19時から40分程度の学芸員による無料のギャラリートークがある。(当日の観覧券が必要、事前予約必要なし)
展覧会の作品・作家の解説を行う。
文責 馬場邦子
〜その2へ続く〜
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