Kuniのウィンディ・シティへの手紙

シカゴ駐在生活を振り返りながら、帰国子女動向、日本の教育、アート、音楽、芸能、社会問題、日常生活等の情報を発信。

ハーパー・カレッジ「アメリカ野球の歴史」のクラス終了!

2008-07-31 | メジャーリーグ
今日は、ハーパー・カレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスの最後の授業だった。2ヶ月間、1回の授業が2時間半で、週2回というハイペースで、歴史の専門家として、ハーパーで一番定評のあるトーマス・ディパルマ教授が、ときおり、アメリカ史とからめながら、密度の濃い内容のアメリカの野球の歴史を駆け足でたどった。

最初にアサインメントにだしたベストなチームの分析と今までの選手を振り返りながら、ベスト6の選手をディパルマ教授が選ぶ。以下彼が列記した順位と教授のコメント。

6位は現役のアレックス・ロドリゲス
5位、ジョー・ディマジオで、「オールラウンドプレイヤー」と呼んでいた。
4位、ハンク・アーロン
3位、ジャッキー・ロビンソン、野球という次元を超えた大きな影響をアメリカ社会に及ぼしたという意味もあり、昔の選手だが、現代野球の選手としても立派に通用する。
2位、ウイリー・メイ
1位は、野球の神様、ベーブ・ルース、誰も文句のつけようなし。「バスケットのマイケル・ジョーダンのような存在」と言っていた。

学生たちが、口々に自分たちの野球ヒーローを叫ぶ。「カル・リプケン・ジュニア!」「ケン・グリフィー・ジュニア!」「ピート・ローズ!」
女学生のモリンダは「ルー・ゲーリック!」熱狂的なカブスファンの彼女は私と同じ趣味のようで、カブスのテリオとフォンテノーのファンだった。その他、高校を卒業してすぐで高校野球を経験したデビットは、初期の頃活躍した「ホーナス・ワグナー!」を選んだ。ハイパワーを合わせ持つベストヒッターの「テッド・ウイリアムス」忘れちゃいけない「シューレス・ジョー・ジャクソン」

そして、スーパーな守備で印象に残っている選手たちをみんなが言い合う。「オジー・スミス」「ゲーリー・マシュー」「ケビン・ミッチェル」素手でボールを捕ったという。

ここで、カブスファンのジャスティンが、「イグチが、ベース際で捕って、体全体をカーブして投げてアウトにしたすごいプレーを覚えている。」と言う。みんなが「そうそう、あれはすごかった!」と口々に言う。「(ホワイトソックスがワールドチャンピオンになった)2005年の出来事か?」と聞くと、熱狂的なホワイトソックスファンのブライアンが「2006年」と答えてくれた。みんな好きなチームの試合は最初から最後まで見ているというわけか。このクラスをとった学生たちは、野球を心底愛しているようだ。

毎回、授業が始まるとすぐ、ディパルマ教授が休みの間のメジャーリーグに起こった突起だった出来事をみんなに聞くと、みんな目を輝かして、さまざまなプレーや各チームの分析を言い合う。カブスかホワイトソックス、あるいは日本人メジャーリーガーがでているチームの試合を見るぐらいしか時間のない私にとって、みんながあらゆるチームの選手たちのプレーがちんぷんかんぷんだった。ディパルマ教授が、「このクラスはカジュアルだ。」と言っていたが、みんな好きな分野なので積極的にフランクに発言していた。

授業が早めに終わったので、ディパルマ教授になぜこのようなユニークなクラスを作ったのか聞いた。「野球は、アメリカ社会の市民権運動などの大きな歴史的な出来事を反映している。野球というレンズを通して、アメリカの歴史をつかんでみたかった。私は、フットボールやボクシングなども含めてスポーツが好きだが、野球が一番好きなスポーツで、両親、兄弟たちの影響も大きい。」とディパルマ教授は、うれしそうに語る。このクラスをとった学生たちが、授業を楽しみながら、きちんとアサインされた本をすべて読み、ジャーナルも詳しく書き続けたので、とても満足そうだった。みんな最後は、口々にディパルマ教授に握手しながら、お礼を言っていた。こんな最後の授業の光景はめずらしい。写真におさまったクラスのみんなは、とてもうれしそうだ。



ディパルマ教授は、このクラスを3年間かかって熟考し、ハーパーのマーケティング部と共に「スポーツ史」のクレディットのクラスとして、他の大学にもトランスファーできるように設定したという。勿論、ディパルマ教授もこのようなクラスは初めて教えるのだとういう。息子の野球チームのお父さんコーチやお母さんたちにこのクラスのことを言ったら、みんな目を輝かせて、「そんなクラスがあるのかい?」「受けたい!」「僕が教えてみたい!」と言いながら、昔のメジャーリーガーの話で盛り上がっていた。アメリカ人にとって、野球というのは、みんなの心のふる里なのかもしれない。

ディパルマ教授は、エバンストンで生まれて、シカゴ界隈で育ち、小さな頃は、イーストコーストから移り住んだお父さんの影響で、ジャイアンツの大ファンだったという。14歳ごろからジャイアンツとカブスの両方のファンになり、大人になって、熱狂的なカブスファンになったという。



なんと1965年に、お父さんに連れられていったリグレー・フィールドで、ジャイアンツ対カブス戦で、日本人初のメジャーリーガー、村上雅則のピッチングを見たという。ジャイアンツがリードしていて、リリーフで2番手ぐらいにでてきて、見事なピッチングをしたらしい。そのときに一緒にプレーしていたアウトフィールダーが、ウイリー・メイズで、(全盛期だったという)またまたすごいキャッチをして、カブスのロン・サントが土をけるほどくやしがったのを克明に覚えているという。村上は、2年しかメジャーでプレーしなかったから、その村上のプレーを見たという人はめったにいないのではないか!と息子と言っていた。

ディパルマ教授は、7歳ぐらいに読んだ最初の本が、「市民戦争」のような歴史物と「野球」に関する本で、それ以来この2つの分野をずっとリサーチして、追い続けてきたという。この2つに、いつも共通する何かを感じていたようだ。歴史のあるスポーツ、野球から、19世紀のアメリカの歴史をとても感じるのだという。アメリカの歴史自体も他の国に比べて古くない。アメリカの歴史と共に、アメリカ人の心に野球が常に存在したというわけだろう。選手は7回失敗しても3回成功したらよく、試合も込み入っていて、かなりアップアンドダウンのある、スポーツ、いわば私達の悲哀のある人生を反映しているような感じだとつくづく言っていた。

まずは、第1回目の「アメリカ野球の歴史」のクラスが大成功に終わって、よかったと思う。先生になるためにマスターをとろうとしているモリンダは、この夏は、このクラスだけ取っていたという。とても楽しかったという。野球史を学びながら、アメリカ史を理解することの醍醐味にみんなが共感していた。ブロードウエイで、俳優をしながら、世界中を回っていたスティーブも毎回熱心にノートをとり、ジャーナルを詳しく書いていた。スティーブは転職し、先生をめざしているという。さまざまな分野を通して、歴史を学ぶことの楽しさをみんなディパルマ教授から教えてもらった。今後もこのクラスを受ける学生たちは、ラッキーだ。ありがとう!ディパルマ教授!

まだまだこのクラスの内容を書いていない部分があるので、また投稿しますので、読んでください。






1970年代のメジャーリーグ<その1>~ルースのホームラン記録714号を破ったハンク・アーロン

2008-07-30 | メジャーリーグ
今週のハーパー・カレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスは、1970年代のメジャーリーグで活躍した選手たちやチームをDVDで紹介しながら、ディパルマ教授が分析した。

ディパルマ教授の「1970年代」という分析プリントによると、教授が選んだオールスターチームのメンバーの中に、よく名前を聞く選手がでてきた。ジョニー・ベンチ、マイク・シュミット、バリー・ボンズの父、ボビイ・ボンズ、レジー・ジャクソン、そしてピート・ローズなど。ピッチャーの中に先週クラスにきて、講演をしてくれたビル・キャンベルの名前もあったので、感激!ビルは、地元パラタインに住んでいるから、また会えるかな。

この分析プリントにあった、1970年代のベスト5項目、ワースト5項目という部分が面白い。ワーストは、選手とマネジメントとの闘争、環境の悪い球場の出現、引き続く人種差別、ファンの暴飲、暴力など。

ベストの筆頭は、ハンク・アーロンが不滅と言われたベーブ・ルースの714本のホームラン記録を塗り替えたことだ。アトランタ・ブレーブスにいたアーロンがルースの記録にあと1本とせまったオフのとき、1日に3000通ものほとんど名前のない手紙が届き、マスコミからの重圧もあり、苦悩の日々を送ったという。白人である偉大なルースの偉業を黒人であるアーロンが抜くことに対する脅迫状も多かったという。アーロンは苦しみながら、「ルースを忘れて欲しいのではない。ただ、みんなに私のことを覚えていてほしいだけだ。」と謙虚に語った。

DVDで見たのは、1974年のシンシナッティでの開幕戦の第1打席で通算714号を放ち、ルースの記録に並んだときの貴重な映像。そして、4日後の4月8日、本拠地アトランタで、高めの球を見事ホームランに持っていき、715号という数字が電光掲示板に輝く。ホームに飛び込み、みんなの祝福を受けながら、両親と抱き合うアーロン。母親としばらく抱き合って、興奮をわかちあう。「Move over Babe. Here comes Henry」という事実そのままの歌も当時ヒットしたという。

アーロンは、通算本塁打755号を打ち、1977年9月3日に、756号のホームランを打った日本が誇る王貞治にその偉大な記録を抜かれた。私は、このときの王のホームランを目撃したという熱狂的な興奮を覚えている。755号を王が打ったとき、そして756号を打ったとき、そのときの各打席のラジオ中継を克明にテープに録音し続けた。まだ、ビデオが自宅になかった時代だ。それほど、世界の王の決定的な瞬間を記録したかったほどの大ファンだった。流れるような独特の1本足打法から打ち出される、高々としたホームランのアーチは、いつもすごかった。王が1本足打法を荒川コーチと生み出すまでのすさまじい練習の映像もまざまざと覚えている。たしか畳が擦り切れるほど素振りをして、刀でわらを切ったり、刀で1本足打法をしていた。なぜ刀だったのだろうか。フォアボールのときも王は、表情1つ変えず、淡々と1塁にでていたのを尊敬のまなざしで見た。アーロンと王はホームラン競争をし、アーロンが1本差で勝った。

私が日本で一番野球を真剣に見ていた時代。勿論、長嶋のプレーに感嘆の声を上げていたが・・・大昔、巨人全盛だった頃の「鉄のカーテン、川上野球」の時代だ。毎週テレビ漫画の「巨人の星」を試合と同時進行で、(やや漫画は遅れながら)楽しみにして見ていた。しかし、大人になると、忙しくなり、なかなか1試合フルで観れなくなり、自然に野球から遠のいた。

明日で、6月から駆け足でアメリカ野球の歴史を振り返ったこのクラスもいよいよ最後。月曜日にハンク・アーロンの映像を見たので、王の姿もアメリカ人の学生たちに見てほしいので、ユーチューブで見るのを教授に提案してみよう。

また、今日の投稿に写真等追加するかもしれないので、チェックしてみてください。1970年代の選手たちの紹介はまだまだあります。    ~この項続く

シャンバーグ・フライヤーズの試合はピクニック気分!

2008-07-28 | メジャーリーグ
昨日は、ノーザン・リーグという独立リーグに所属する地元のプロ野球チーム、シャンバーグ・フライヤーズの試合をアレクシアン・フィールドという小ぶりの親しみやすい球場で、のんびり観戦した。ローンシートという芝生席のチケットを1人6ドルで買い、ローンチェアや毛布をかついでいく。



大規模なメジャーリーグの球場と違って、7000人ぐらい収容の球場なので、かなり小さく、座席とダイヤモンドが妙に近く、目線の先に選手がいるという感じだ。ファーストベース先のがらりとしたローンシートのセクションは、ところどころはげた芝生。なだらかな坂になっているので、一番前か一番てっぺんでないと、ローンチェアは置けない。下の息子は、毛布をひいたら、早速ころがっている。



目の前で選手たちが練習をしている。見渡すと、フィールド全体が自分の視界にすっぽりと収まるという印象で、なんだか昔ながらの球場にきたような郷愁を誘う。すべてが小ぶりで、おもちゃの球場のような感じだ。でも、あまりにフィールドに近くて、ファウルが飛んできたら、体に当てそうでこわい!先日息子の試合で、おなかにボールが直撃し、かなり痛く、青あざになってしまったので。

球場がとても低いので、青空にすっぽりと包まれて気持ちがいい。フライヤーズの帽子をかぶっているファンはまばらで、各自それぞれメジャーリーグのお気に入りの帽子やティーシャツを着ている。ウーン、うちもさすがにフライヤーズの帽子を買うほどではないかな。

しばらくして、20番の背番号をつけた若い選手にファンが集まってきて、サインをし始めた。みんなが気付いて次から次へとサインをねだるが、その選手はまったくいやな顔をせず、黙々としゃべりながら、サインをしている。ロースターで背番号を調べると、その選手はジャスティン・ジョーダンというピッチャー。フライヤーズのエースなのだろうか?


サインをひたすらするカッコいい選手、ジャスティン。

この日のフライヤーズのピッチャーは、背番号25番のスティーブ・シッペイ。ホームページのロースターの写真より実物は太っている。


左側のユニフォーム姿の選手が、この日の先発ピッチャー、スティーブ。

みんなサインを気軽にしたり、友達のようにファンと気軽にしゃべっている。なんて、感じのいいチーム。ファンをとても大事にしているのがわかる。

他の選手たちもベテランでもう若くないのか、ずんぐりむっくりの体型の選手もいた。逆に筋肉隆々の若いメジャーリーガーの卵のような感じの選手、背番号16番、ロブ・フィッシャーという選手がいた。また、メジャーリーグの黒人スラッガーのようないかにもパワーヒッターという雰囲気の打順4番のDHで背番号40番のカルビン・ピッカーリングなどなど個性的だ。

シャーンバーグ・フライヤーズは、1998年に元ホワイトソックスのスラッガー、ロン・キトルが監督に就任して、設立したまだ歴史の浅い球団。現在は、今年2年目の37歳のスティーブ・マドックが監督。マドックは、建築家もしながら、2002年、セントラルリーグという独立リーグのサンアンジェロ・コルツの監督でチームを優勝に導いている。8年間も独立リーグで監督やコーチの経験がある。きっと給料が安いので、コーチや選手たちも各自さまざまな職業をかけもちしながら、愛する野球をし続けているのだろう。

マドックは、今年の2月、息子たちの通っているベースボール・アカデミーに他の2人の選手たちときて、フリーのクリニックをしてくれた。このように、シャンバーグ・フライヤーズは、地元と密着してさまざまな活動をしているようだ。

2月のフライヤーズのベースボールクリニックの私の投稿は、
http://blog.goo.ne.jp/kuniwindycity/e/37f5a761c86895099499f05e5568493eを参照。

試合開始前の選手紹介では、リトルリーグのチームの子供たちと一緒に選手たちがでてきて、交流しながら、ナショナルアンサムが流れる。これは、「ベースボール・バディ」というキッズプログラムの1つ。友達のチームもチームパーティーで利用したと言っていたから、これはなかなか人気のプログラムなのかもしれない。

また、フライヤーズ・ダンスチームというチアガールがいて、試合前の雰囲気を盛り上げる。まるでなんだかバスケットボールのブルズの試合のようなのりだ。係りの人が何かグッズをスタンドに向けて投げたり、野球とバスケットをたして2で割ったような演出だ。

さて試合が始まったが、いきなり相手チーム、カンザスシティ・ティーボーンズに初回に立て続けにヒットを打たれ、点数が入る。1回表に2ランホームランもでて、一方的な試合に、なーんだ、つまらないなあ。と思っていたら、フライヤーズもすぐに反撃。両チームともエラーもでて、あまりしまりのない試合展開だ。独立リーグ、守備はあまりうまくないようだ。

面白いのは、得点ボードなどは人が立ってボードを付け替えること。掲示板自体が低く、とても小さいので、こんなことができる。なんともいえないほど味わいのある球場だ。私は、いっぺんでこのアレクシアン・フィールドが気に入ってしまった。





もう1つ面白いのは、私たちが観ていたまん前のピッチャーがウオーミングアップする後ろにいくつかイスがあり、4、5人の選手が試合中も座っていたことだ。控えのピッチャーなのだろうか?それにしても多い。相手チームの方も同じように座っている。



試合は、フライヤーズもホームランがでて、打撃戦となり、フライヤーズがかなりリードしたので、試合途中8時過ぎに私たちは帰った。結果は、16対13でフライヤーズの勝ち。この日は、夜遅くまでいたら、イベントで花火が見れたようだ。

地域密着型の球団、シャンバーグ・フライヤーズは、「みんなが応援する我が村の球団」という感じで、きっと今後もみんなから愛されていくであろう。アメリカ人の地元の友達アイリーンが、「私たちのチームという感じで、心の底から野球を楽しめるから、野球が好きなら、フライヤーズやケーンカウンティ・クルーガーズ(マイナーリーグ)の試合は行くべきよ!」と言っていた。日本人の選手もフライヤーズには、去年はいたというから、今後も日本人の選手は入ってくるかもしれないから、その動向がみのがせない。

Alexian Field
1999 S. Springinsguth Rd. Schaumburg, IL 60193

847-891-2255
http://www.flyersbaseball.com



ペイトンズ・ヒルからの不思議な夕焼け

2008-07-25 | アメリカ生活雑感
うちの近所にペイトンズ・ヒルという有名な丘がある。地元シカゴベアーズの名選手ウオルター・ペイトンがこの丘をトレーニングしていたことで知られる。この丘から見る夕日が絶景だということに最近気付いた。うちのタウンハウス群の西の方角からバラ色の夕焼けがたなびいて、この丘につながっている。



もうこのピンクとグレーが入り混じった抽象的な色彩が目にはいると、ふらふらと足がペイトンズ・ヒルの方に向かってしまうほどの強烈な引力がある。いつもは緑が眩しい中で、息子たちはペイトンズ・ヒルを息を切らしながら走り、私は気持ちよく闊歩する。この丘は、二コル・ノールというゴルフ場にもなっていて、昼間は子供も大人も夏は気持ちよくゴルフに興じる。

しかし、太陽が沈む直前の夜の9時前にこの丘に登ると・・・強烈なオレンジ色の太陽が地平線付近に張り付き、グレーの雲とダークブルーの空の色が微妙に入り混じった大パノラマが視界に広がる。このアーティスティックな空は、あたかも別の次元にすっぽりとおちいったかのように、奇妙な感覚を私たちに抱かせる。空の空間が楕円状に押し付けられたかのように、渦巻いているのだ。不思議に思い、東の方の空を見ると、なんら普通のダークブルーの空だ。



ペイトンズ・ヒルが高いからこんな光景に出くわしているのか、このあたりの自然がなせる技なのか・・・通常の生活で、こんな美しい世界を垣間見れるなんて・・・ペイトンの魂がもしかするとこのパノラマを創りあげているのではなんて、おおげさなことまで考えてしまう。

丘を降りる途中で、2人のゴルファーが「いい写真とれたかい?」と話しかけてきた。2人ともペイトンズ・ヒルのことを知っていた。アルゴンキンから来たという。この場所は、みんなから愛されたウオルター・ペイトンの思い出と共にみんなから愛されている聖地なのだろうか。2人とはほんの一瞬の出会いだったが、名前までお互い言い合い、握手をして分かれた。

今日送別会をして、8月1日に日本に帰国する友達が、「車を走らせながら、この光景が最後かと思うと、涙がでてくる・・・」と声につまっていた。シカゴやアーリントン・ハイツの1つ1つの美しい1コマの風景。すべて記憶にとどめておきたいと思いながら、この丘をカメラに収めた。

息子たち、サマーキャンプたけなわ!

2008-07-24 | 教育一般
息子たち2人は、17日にシカゴ日本人学校全日校の終業式を終えて、今週からサマーキャンプに入った。6月から長い夏休みに入っているアメリカ人たちは、すでにファーストセッションのサマーキャンプも終え、旅行中の友達も多い。

上の息子は、小学5年生のときに経験したアーリントンハイツの豪華版キャンプ「セーリング、テニス、ゴルフキャンプ」で、下の息子は、バッファロー・グローブの人気の「ボーイズ・スポーツキャンプ」。

下の息子は、サイトに日本人の友達がいないので、アメリカ人たちの中で大丈夫だろうかとかなり心配していた。セカンドセッションは先週の月曜日からすでに始まっており、息子は全日校の方が大事との判断で、1週間キャンプをお休みしている。英語のハンディキャップとともに、こういう出遅れもあり、私もかなり心配していた。

しかし、今週月曜日にキャンプのサイト、クーパー・ミドル・スクールに行くと、小さな頃仲が良かった近所のカイルがいた。2歳から3歳の頃、プリスクールやパーク・ディストリクトのクラスで一緒で、家もしょっちゅう行ったりきたりして、いろんな場所に遊びにも出かけていたほど仲が良かった。カイルのお父さんのスコットは、ステイ・アト・ホームダディ(専業主夫)で、子供たちの面倒見がとてもよかった。

今では、毎年リトルリーグBGRAのチームの監督をやるほどはりきっている。息子もカイルもときどきリトルの試合で顔を合わせるが、昔のことはなんとなくしか覚えていない。それほど、お互いの生活で忙しく、遊べなくなっていた。

今回のキャンプで、息子はカイルと同じグループになり、カウンセラーの話だと遊んでいるという。他のアメリカ人とも息子は交流しているらしい。昨日は、カイルが帰り際、息子と「遊びたい!」と言い寄っていた。また、交流が復活できたのかと私もとてもうれしくなった。全日校の通っている日本人が、1人でキャンプに入るのは、親子でとても勇気がいることだが、やはりそうしてよかったと思った。

昨日は、ウィーリングのアクアティックセンターで、みんなと思い切り泳ぎ、スライドもやり、プールの横で、カード遊びなどもしたという。サイトにもどってきたら、フットボールや全日校の「英語遊び」の時間に習った英語遊びもやって、とても楽しかったという。今日は、地元のマイナーリーグ、シャンバーグ・フライヤーの試合を見に行っている。明日は、ゲームセンター、来週はスケートやボーリングなどフィールドトリップ盛りだくさんのキャンプだ。

息子は、全日校に入って以来、英語がなかなかでなくなってしまったが、その前小さな頃から日本人1人で過ごしてきたため、知らない環境でも合わせていける術をいつのまにか身に着けているのかもしれない。

上の息子は、毎年日本人があまりいないキャンプで過ごしてきたので、今年は最後かもしれないので、クラスの仲良しの友達と一緒だ。きっと思い出に残るキャンプになるだろう。今週はとことこ歩いて、近所の二コルノールのゴルフ場で、午前中ゴルフ。ゴルフを練習していないので、スコアがひどいらしいが、緑の中で、思い切りクラブを振り回すのも気持ちがいいだろう。短い距離の9ホールとはいえ、日本で、ティーンエイジャーが1人で歩いて、ゴルフしにいくなんて考えられないことだから。

午後は、バスで移動してテニス。来週は、毎日アーリントンレイクでセーリング。月曜から木曜まで、9時から4時まで、ランチつき。子供たちは満喫し、親は楽できるお勧めのキャンプ。全日校のスケジュールにもぴったりの8日間。息子の友達は、シャンバーグなどからきている。




元メジャーリーガー3人が「野球の歴史」のクラスで講演!~カブス、ランディ・ハンドレイら

2008-07-23 | メジャーリーグ


じゃじゃーん!この人たちは誰でしょう?そうです。元メジャーリーガー3人衆!
昨日、メジャーリーグで活躍した3人の元選手たちが、ハーパー・カレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスに来て、白熱した話をしてくれた。

私が、クラスに着くと、いきなり年配の大柄の2人のアメリカ人が立っている。とても優しそうな笑みをたたえた背がひゃろりと高い人が、1973年から87年までプレーした、元レッドソックスのリリーフピッチャー、ビル・キャンベル。1977年にオールスターメンバーにも選ばれている。



もう1人の饒舌なユーモア溢れる熱血漢のアメリカ人は、1971年から80年までプレーした元ホワイト・ソックスの3塁手、エリック・ソダーホルム。ツインズ、ホワイトソックス、ヤンキースと渡り歩いている。

遅れて入ってきたアメリカ人は、カブスで有名なキャッチャー、ランディ・ハンドレイ。そんなに背は高くないが、元メジャーリーガーのオーラがでていて、なかなか貫禄がある。1964年にジャイアンツでデビューし、カブスには、1966年から73年と1976年から77年までいた。キャッチャーとして片手でキャッチングすることを父から教わり、60年代後半のカブスをささえた名キャッチャー。昔からのカブスファンなら、「ああ、ランディ・・」と知っているようだ。



なんせ、60年代から80年代のメジャーの話なので、残念ながら説明したくても、私にはちんぷんかんぷん。わかった部分だけをリポートすると・・・

冒頭で、球団オーナーの選手たちに対する横暴な年棒の決め方に、とくにランディが、「オーナーが、フェアなマーケットの価値を壊している!」と何回も訴えていた。フリーエージェントになったとたん、年棒7万5000ドルが50万ドルに跳ね上がった選手がいたという。とにかく、「Greedy(強欲)だ!」を連発していた。長年メジャーリーグでプレーしてきて、トレードも何回も味わうと、表も裏も見てしまうと、そういう思いも強くなるのだろう。

一番タフな相手は誰だったか?という学生からの質問では、エリックが、「ノーラン・ライアンだ!」ときっぱり。そのすさまじいスピードの速さが怖く、変化球のストンと落ちる長さがすごかったという。5714という奪三振記録を持つ「ライアン特急」と呼ばれて、みんなから恐れられた速球王だ。そうか、ノーラン・ライアンと対戦した人が話しているのか。となんだか不思議な感覚に襲われた。息子の話では、時速170キロ以上をだしていたというから、超人か。そんなピッチャーはもう2度と現れないだろう。

メジャーでは、精神的なプレッシャーと戦い、いかにいつも平常心をキープしていくかが成功の鍵だという。エリックが、1978年に2割4厘しか打てず、スランプにおちいった時、イリノイの病院で、白血病にかかっている子供たちとバスケットをしたときの話をしてくれた。「こんなことしていちゃいけないって、神様からおこられているじゃないかと思ったほどだよ。」それから、次の試合では、3安打を放ち、その年は2割5分8分まで打率を引き上げたという。



バリー・ボンズのステロイド問題にも話は及んだが、ランディは、「ボンズは1日5、6時間練習をするピュアな打者だ。」「ホームランを見たい!というファンの気持ちや球界全体の体質こそ考えたほうがいい。」と問題提起していた。

ランディは、メジャーを引退して、1983年からアリゾナで大人用の「ランディ・ハンドレイのオフィシャル・ビッグリーグベースボールキャンプ」を毎年行っている。さまざまな職業につく野球狂の大人たちが各地から集まってきて、メジャーリーガーのようなプレーをめざして、全力で野球を楽しむという。

最後に、元ピッチャーの優しそうなビルは、前もってサインをした自分のベースボールカードを一枚一枚私たち学生に配ってくれた。若き日のレッドソックス時代のちょっと古びたカードだ。1973年から76年までツインズでプレーし、その後80年までレッドソックスと裏に書かれている。防御率は3.32で、その当時の8年間で通算59勝39敗95セーブを上げている。

元メジャーリーガーは、ファンに配るため、昔の自分のベースボールカードを大量に持っているのだろうか。メジャーリーガーとは、引退してもその栄光のために、一生カードがみんなに喜ばれるという幸運な職業だ。息子が何年か前に一度受けたピッチングクリニックで、ジム・メッシーナという元マリーンズにいたピッチャーも自分のカードにサインをして配っていた。


右側で立っている人が、このクラスを教えているデパルマ教授。この日は、地元の新聞デイリー・ヘラルドも取材にきて、講演の後、デパルマ教授は取材を受けていた。

少年から年配の大人まで、幅広い年齢層の心をとらえてはなさない野球の魅力。私は、ほんの少しだけかじっている程度でもこんなにも心が踊る。だから、自分でプレーをして、その魔力にひきつけられたら最後一生プレーをし続けるのだろうなあ。ああ、野球、されど野球なり!






メジャーリーグ、オールスター戦で野球殿堂の選手たちを見る!ウイリー・メイズが福留選手と!

2008-07-18 | メジャーリーグ
今週の最大のハイライトは、やはりメジャーリーグのオールスター戦だろう。私たちは、息子の試合で見れず、録画しておいた映像を見た。

試合前のセレモニーで、各ポジションごとに、オールスターとして選ばれた現在活躍する選手たちと過去のメジャーリーグをささえてきて、野球殿堂入りした名選手たちとのがっちりと握手するシーンが感動的だった。中には、新旧お互いの出会いに、思い切り抱きしめ合う選手たちもいた。まあ、おじいちゃんと孫って感じのコンビもあった。

地元カブスで人気の初めての黒人選手、アーニー・バンクス、ハンク・アーロン、ヤンキースの名キャッチャー、ヨギ・べラ、オリオールズの鉄人、カル・リプケン・ジュニアなどなど名だたる選手が勢ぞろい。私が知らない昔の選手がたくさんいたが、主人は名前が呼ばれるたびに、うなっていた。

アウトフィールダーの最後の選手の紹介の前だったか、突然昔の白黒の映像が流れたのが、あの「The Catch!」と呼ばれる野球史上に残る1954年のワールドシリーズの勝敗の流れを決めたウイリー・メイズによる離れ業のような背面キャッチだ。キャッチして、高速で投げて、走者を刺す強肩を見せる。イチローのような感じだ。ジャイアンツがインディアンズにスウイープした最後の試合でみせた美技。ちょうど、今週の「アメリカ野球の歴史」のクラスで見たばかりだったので、本物のメイズがでてくるなんて、なんて超ラッキーなのかしらとわくわくした。

メイズは、通算660号ものホームランを放ち、1951年、新人王、ゴールドグラブ賞12回・本塁打王4回・盗塁王4回を獲得している万能選手。メイズの走塁は、まるでスキーヤーのようにすべるような感じで走る。

デパルマ教授の作成したプリントによると、メイズは、1950年代のベストプレイヤーだそうだ。そのプリントに、当時のジャイアンツの監督、レオ・デローサーのメイズに対する最高のコメントが紹介されている「もし、誰かが4割5分打ち、100盗塁を決め、毎日奇跡のようなプレーをしたとしても、ウイリーの方がよかったと言うさ。彼は、ヒットを打ち、パワーヒッターであり、走れて、投げられて、守備がいいという5つの条件がすべて揃っているスーパースター中のスーパースターさ。(略)」

オールスターのセレモニーで、紹介された野球殿堂の年取った選手は黒人の選手が結構いたが、みんななごやかな顔をしていた。しかし、メイズは、なぜか険しい表情をしていた。あまり、メディアにでない人なのだろうか。カル・リプケンのようにほいほいコマーシャルやテレビ番組に出るようなタイプではないのかもしれない。(テレビでよく見るリプケンは、頭に毛がなくなったせいか、なんだかやくざっぽい感じがして、昔のスマートな感じがなくなった)メイズは、やはり威厳があるというわけだろうか。

福留選手が出てきたとき、メイズの横に並んでいたようだった。お互いにどんな気持ちだったのだろうか。福留選手は、メイズの横で、さぞや緊張しただろうな。しかし、こんな新旧が混じるどえらい演出は、今年のオールスターが初めてでは?

メジャーリーグ初の黒人選手、ジャッキー・ロビンソンに乾杯!~「アメリカ野球の歴史」のクラス

2008-07-12 | メジャーリーグ
今週のハーパーカレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスは、メジャーリーグ初の黒人名選手、ジャッキー・ロビンソンがいかにアメリカ社会に影響を及ぼしたのかに焦点があたった。

デパルマ教授の話では、ジャッキー・ロビンソンほどものすごいプレッシャーの中で、プレーしたスポーツ選手はいまだかつていないだろうということだ。「The Soul of the Game」という映画を見ながら、1940年代のロビンソンの時代を振り返る。その当時二グロリーグで活躍していたサッチェル・ページという凄腕のベテランピッチャーとジャシュ・ギブソンという972本ものホームランを打ったとてつもない選手とジャッキー・ロビンソンの3人の交流を描く。



当時のブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーは、この3人のうちメジャーリーグ初の黒人選手に若いロビンソンを選ぶ。「私は、心からの野球ファンだ。おそらくこの選択(黒人選手を使うという)は、国中を揺るがすだろう!」と予言したが、まったくその通りになる。

さまざまな中傷・誹謗、そしてきたないプレーを乗り越えて、ロビンソンは、果敢なプレーで、黒人選手の優秀さを証明することに成功する。運命の日、1947年4月15日のロビンソンのデビュー戦は、ヒットとともに、足で引っ掻き回す。当時、ロビンソンが塁に出ると、その速さと俊敏さで、ピッチャーは翻弄され、打者にフォアボールを出したという。別のビデオで、当時のロビンソンのプレーを見たが、走塁がめちゃくちゃ早く、デパルマ教授が、早回しのビデオを観ているようだと驚愕していた。

ロビンソンのドジャーズ入りは、ドジャーズ内の選手にもかなり影響があったらしく、一緒にプレーするのを拒否する南部出身の選手もいたという。スパイクを立てて、1塁手のロビンソンを怪我させる選手もいたり、脅迫も多かったという。ロビンソンの奥さんの心境はいかほどだったか?!

想像を絶するプレッシャーの中で、命を賭けてまで、自分のプレーを貫いた鋼のような精神力の持ち主のロビンソン。彼の活躍のおかげで、黒人選手に道が開かれ、人種差別廃絶への手助けにもなったというから、その功績ははかりしれない。ステロイドで選手生命を縮めている最近の丸太のような腕を持った選手たちとは、えらい違いだ。

ロビンソンは、野球の世界だけではなく、当時の社会全体に影響を及ぼしたところがすごい!ロビンソンの背番号42番は、全球団で永久欠番になっていて、毎年4月15日は、さまざまな選手とくに黒人選手が42番をまとって誇り高くプレーしている姿が全球団で見られる。今年4月15日はピンとこなかったが、このクラスで学んで、やっとその重要性が理解できた。

ロビンソンは、その素晴らしい人間性がにじみでているほど、素敵なマスクを持ち、穏やかで、謙虚さがただよう。ちょっとシャイな感じもある。その風貌と対照的にアグレッシブなプレーをガンガンしていたというから、黒人も白人もファンとしては、たまらないだろう。今の時代にロビンソンがいたら・・・きっと、一挙手一動を目をこらして見守るのだろう。映画の中のロビンソンは、本物と似ていた。

映画の最後に、ジャシュ・ギブソンが、野球ファンの少年と握手するシーンがでてくる。その少年は、その場面を大きくなってから回想しているのだが、少年が大人になり、メジャーリーガーとなって、その彼のロッカーには、なんと「ウィリー・メイズ」と名前が記されている。メイズは、4回も本塁打王になり、660号も打っている名選手。そのメイズの憧れが、ロビンソンで、メイズに憧れたのが、バリー・ボンズだというから、誠に歴史は面白い。ただ、現代のボンズがステロイドで話題のかなたに消えてしまったから、ロビンソンがもし生きていたら、さぞや遺憾であろう。

しかし、ロビンソンは偉大だが、そのロビンソンを雇うことに決めた白人のドジャーズのオーナー、リッキーの決断もすごい。彼が予言した通り、社会を揺るがした大きな社会現象にまで発展したわけだから。

ただ、現代の黒人選手は、社会構造の変換に伴い、減少気味らしい。南米系、ご存知日本人選手に押され気味。このことは、ステロイド問題とともに、またゆっくり書いてみたいと思う。





息子、リトルリーグBGRAのオールスター戦で活躍!~続き

2008-07-12 | リトルリーグ
試合開始前のミーティングでは、詳しいルールの打ち合わせがあったらしい。監督は、ディビジョンの勝率の一番いいチームの監督が行う。息子のチーム、ナショナルリーグは、リーグ内で圧倒的な強さを誇るエンジェルスの監督、マイク。20人ぐらいのメンバーが片方チームにいるため、打順は公平にくじ。息子は、中間の11番目。ピッチャーは、各自1イニングづつ投げる。9イニングのため、9人のピッチャーが起用され、前回の投稿の写真に写っていた細身で背の高い速球投手コーリーが先発に選ばれ、息子は光栄にも最後の回のクローザーに選ばれていた。この日のために、新しいピッチングフォームも完成。主人とともに入念なピッチング練習をして、準備周到。

相手のアメリカンリーグが先攻。コーリーが気合を入れて、いつもの威圧的なフォームで、勢い良く投げ下ろすが、主人いわく、「気負っている!」ため、ストライクがなかなか決まらない。ヒットも連打され、1回で5点あっという間に取られ、「あーあ!」

逆に、ナショナルリーグは、リーグ屈指の剛速球ピッチャー、アダムにしっかり抑えられ、点数が入らない。アダムは、ディビジョンで息子のチームと対戦したとき、すごい接戦の試合の最終回を息子とともにクローザーとして、投げあい、お互い抑えたライバル。晴れの舞台で、実力が発揮できるのは、まさに本物!


気迫が漂うアダムのピッチング

2回か3回の裏、アメリカンが0点のときに、息子の打順が回ってきた。親の方がどきどきする。



息子は、落ち着いて、レフトに大きなヒットを放ち、軽々の2塁打。アメリカン初めての大きなヒット。得意の盗塁も決め、アメリカン初めてのホームを踏む。やれやれ!アメリカン頑張れ!

その後は、ナショナルの方が、常に先攻して、点数差を広げる。息子は、次の打順でも2塁打を打ち、活躍。無事役目を果たし、私たち親は、ほっとする。しかし、みんななんだかだれてきて、「早く終わらないかなあ!」ムードも漂っている。しかし、9回にならないと、息子のピッチングは見られない。

7回は、メジャーリーグでも恒例のセブンイニングストレッチで、マイクの前にお母さんと数人の選手が囲んで、「テイク・ミー・アウト・ツー・ザ・ボールゲーム」を大声でうれしそうに歌う。



夜の7時15分から始まった試合も攻撃が長かったため、10時前になってしまい、なんと9回は打ち切られることになってしまった。うっそー!そんなバカな!
息子のピッチングカットされてしまった。ひどすぎる!晴れの舞台をずっと楽しみにしていたのに・・・

終了式は、またしても、1人1人が呼ばれ、各リーグの監督からトロフィーが渡される。



あーあ、息子不完全燃焼。ピッチャーとしての快感を知ってしまった今、打撃だけ活躍しても満たされなくなってしまった私たち親子。誠にぜいたくな言い草。しかし、経験したら、あんなにあこがれてたオールスターもあっけなく終わるのね・・・一夜の夢か?!

息子、リトルリーグBGRAのオールスター戦で、活躍!

2008-07-08 | リトルリーグ
独立記念日の週末、3日から6日の4日間、バッファロー・グローブのリトルリーグ、BGRAは、恒例のオールスター戦で、大人も子供も野球三昧で大盛況!今年は、上の息子がオールスター選手に選ばれたので、地域の大きな野球の祭典に、私たちも巻き込まれた。

年齢ごとの各リーグごとの各チームから3,4人チームのメンバーの投票で選ばれた子供たちが、アメリカンリーグとナショナルリーグに分かれて、いつもの試合よりも長いイニングを闘う。まさにメジャーリーグのオールスター戦のお子様版であるが、あたかも自分の子供がオールスターに選ばれたかのような工夫された栄誉だたよう雰囲気の中で、親たちもつかの間の夢心地!

息子は、4日の夜の13歳、14歳混合のパロミノ・リーグに出場。いつも試合があるバッファロー・グローブの照明施設のある素晴らしいフィールド、エムリック・ノースに集合。

隣の照明施設のあるやや小ぶりのジェイ・ジョーンズというフィールドでは、パロミノのバッティングスキルを競う競技に続いて、バディ・ベースボールという身体・知的障害者たちのリーグの試合が華々しく行われていた。各選手に1人づつヘルプする人たちがみっちりついて、怪我のないように安全に楽しくプレーが行われる特殊なリーグである。見学する人たちの数も多く、プレーに一喜一憂していて、万人ができるアメリカのスポーツの裾野の広さに驚く。

さて、息子のオールスターの方は、1人1人選手名をアナウンスされ、1塁線と3塁線に各チーム一列に並ぶ。よばれて出て行くときは、並んだメンバー1人1人と握手しながら、整列。


左から3人が息子のチーム、パイレーツから。左から、マイケル、息子の相棒のキャッチャー、ケン、息子。赤のフィリーズのユニフォームを着ている右から2番目は、速球投手コーリー、右端は、息子のトラベルチーム、ペイトリオットで一緒の名キャッチャー、ショーン。

最後にコーチたちも同じように並び、まさにオールスターの感。10歳ぐらいのおしゃまな女の子がナショナル・アンサムを高らかに歌い、盛り上げる。みんな帽子を脱いで、胸にあてる。息子もいつものようにやる。こんなささいなことでも、他のアメリカに住む日本人の野球少年と同じように、息子はアメリカナイズしている。近所の野球少年勢ぞろいで、みんなはしゃいでいる。息子は、知り合いが多く、息子は日本人でめだつため、知らない子でも息子の名前は知っていて、話しかけてくるという。6年以上も同じ地域で野球をやっていると、現地校に通ってなくても、心が通じ合うアメリカ人の友達ができる。野球に感謝である。





試合の始球式は、やはりバティ・ベースボールのメンバーが車椅子から行う。こういう弱者に気を使うのは、アメリカならでは。

この項がまた続けて書くので、また読んでください!