本堂は、かなり高台にあるようです。行って見ましょう。
六地蔵も整然と並んでいました。この時節柄でしょうか、マスクをしてお出迎えのようです。
梵鐘堂ですね。
徳川将軍御膳所跡の碑だそうです。それでは、改めてこのお寺の説明をすると金峯山世尊院と號し、本尊不動明王です。立像長一尺二寸。舊は字御嶽山にあつたのを、某年現在の地に移し、開山は未詳、開基は村民次郎右衛門の先祖某で、天正年中の起立と傳へるけれども未だ詳でない。境内と墓地を合せて一五五〇坪。本堂の西に鐘樓があり、寶永七年在銘の鐘が掛けられてゐる。また本堂の左に大師堂があり、府内八十八箇所の第二番に當る。もと大久保の二尊院に在つたのを明治の初年當寺に遷したのである。尚、當寺は、氷川神社(現在村社、江古田三丁目一一五九鎮座)の別當であり、又江戸時代には将軍放鷹の際の御膳所であつた。ということです。
また、鷹狩り は、飼いならした鷹を放って獲物を捕える狩猟法で、おもて向きは、将軍の遊びでしたが、幕府による江戸近郊の農業・治安の維持の役割をはたしていました。吉宗は、五代将軍綱吉のとき廃止されたこの制度を復活し、中野など江戸近郊六か所の鷹場を指定しました。指定された村々の農民たちは、鷹場役人に監督され、日常、野鳥の見張りや鷹場の維持に使役されるほか、農作業や家の修理にいたるまであらゆる制約を受けていました。将軍来遊のときの古い記録によれば、食事の準備から道路や橋の整備など、地元の人たちが大きな負担を強いられていたことがうかがえます。当寺は、享保十三年(一七二八)春、八代将軍吉宗が鷹狩りのおり、御膳所となり休息と食事をしたところです。以前は、旧本堂の西側奥に、寺社奉行の命で改修した「御成りの間」がありましたが、建物が古くなったため、昭和四十二年改築のときとりこわされ、その跡に記念碑が立てられました。
この稿おわり
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