楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

大きなお寺に来ました

2021-01-10 10:55:31 | 日記

入り口を入ると、ここは大空会館という場所で、どうやら葬儀などを行う場所のようでした。

境内をひと回りして見ましょう。

楼門のようです。

これはカヤノ木です。浄牧院のカヤ(東久留米市指定文化財)この榧の樹は、市内に生育する多くの樹木の中で数少ない種類の一つに数えられ、目通り幹周3.5m、樹高18mを計測する雌株です。樹齢は約400年と推定され老木としての風格を備え、東久留米市の自然を記念するものとして貴重な植物です。榧は、イチイ科カヤ族の雌雄異株の常緑高木で、樹高は普通20m、胸高直径1m内外となります。種子の胚乳は脂肪に富み、油をしぼり、又、食用ともします。分布は、宮城県以西、四国・九州。説明書きは、このようでした。

六地蔵も並んで立っていますね。

梵鐘堂でしょう。

本堂へ来ました。曹洞宗寺院の浄牧院は、神護山と号します。創建年代は不詳ですが、文安元年(1444)八王子城主北条安祝が開基となり創建したと伝えられます。天正19年(1591)寺領30石の朱印状を拝領、前沢村・神山村・当村(大門村)に寺領を有していました。東久留米七福神の大黒天、関東百八地蔵107番です。また、以下のような勝手の藩主と思われる人の墓所があります。神谷家墓所(東久留米市指定史跡)鈴木家墓所所(東久留米市指定史跡)

                              つづく


もっと先には何があるのかな

2021-01-09 15:17:19 | 日記

今度は、また神社に来ました。門前氷川神社といい、東久留米市氷川台にある氷川神社です。門前氷川神社の創建年代は不詳ですが、門前村の開村時に門前村の鎮守として創建したと推定されます。明治11年に門前の北側より、中心部へ遷座、明治44年当地へ遷座したといいます。

ちょっと高台にあり、よく手入れされているようです。

いろいろな記念碑も建っています。じゃ、これで失礼して

通りに出ると、庚申塔があります。

東久留米には、こうした庚申塔がたくさんあるようで、その傍には丁寧な説明版が立っています。

しばらく歩くと、今度は神社です。

厳嶋神社という石柱が立っていました。

小さいながら、最近建て替えられたのでしょうか新しい感じです。神山巌島神社というそうです。創建年代は不詳ですが、神社前の黒目川の鎮守として創建したと推定されます。現在は南沢氷川神社の兼務社です。そういえば、目の前には黒目川が流れています。

これから、もっと東方面へ行って見ます。

                           つづく

 

 


今度は、茶畑が広がっていました

2021-01-07 08:58:41 | 日記

子ノ神社を後にして、先を行くとこんなところに出て来ました。

何と茶畑です。

こんな看板が立てられています。

周囲には雑木林もありましたが、ここは小山緑地保全地域として保護されている場所なんですね。

うっそうとした雑木林には、歩道のような歩くコースもありました。

今度は、遺跡とされる場所に来たようです。説明書きがされてます。この場所は、旧石器時代には人が住んでいたのですね。

広々とした場所には、子どもたちも遊んでいました。ここは高台になっていて、市内の町並みも見下ろせる場所なんですね。

さぁ、下りて先へ進みますか、途中にあったシャクナゲの花がきれいでしたよ。

                             つづく

 


大圓寺のすぐ裏がこの神社だった

2021-01-06 08:35:07 | 日記

この神社は、子ノ神社というそうです。どんな神社かな?

子ノ神社は、文禄元年(1592)8月、領主矢部藤九郎が小山村鎮守として地蔵尊を勧請したと伝えられます。字稲荷山(当村南方)、字西原(当村西方)、字大堂(当村北方)を明治11年(1878)8月境内末社として合祀しています。当社は、小山村の鎮守にして、文禄元年(1592)8月、領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられ、除地1町5段(4500坪)を有し、社地には槻・杉雑樹など繁茂していたといわれる。拝殿は文政元年(1818)10月建立し、後明治4年(1871)8月、明治42年(1909)5月等数回に亘り修築がなされた。神社名はもと「根神明神」と称したが、後世にいたり十二支の子を用い「子ノ神社」と変更された。子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたものと思われる。祭神大国主命は出雲大社の祭神と同一神にして国土開発の神であると共に、縁結び・子孫繁栄・五穀豊穣の神とされている。創立者矢部氏は相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていたが、徳川時代の始め、300石を賜り小山村の地頭となった。神社の西方畑地にその屋敷跡があったという。後、寛文5年(1665)2月死去し江戸牛込多聞院に葬られたといわれる。という説明でした。

ここでまた、矢部藤九郎という方の名前が出て来ました。大圓寺に供養塔がありましたね。この方が創建した神社だったんだ。

大きな木もあります。

古そうな灯篭です。

ここが本殿ですね。お参りしましょう、

ここには、ムクロジという木がありました。あの羽根つきに使う羽根に付いた黒い実がムクロジの実なんですね。

末社が並んでいました。                       

つづく


大円寺というお寺へ来ました

2021-01-04 19:58:23 | 日記

大圓寺というお寺に到着しました。どんなお寺なのでしょう?

天台宗寺院の大円寺は、普門山三皇院と号します。大円寺の創建年代は不詳ですが、天長年間(824-834)慈覚大師円仁が創建したと伝えられます。明治維新後、小山村内にあった末寺等を合併しています。東久留米七福神の恵比寿尊、福禄寿尊、寿老尊が山門に安置されています。という説明がありました。それでは、入りましょうか、おっとその前に門の入り口に石塔がいくつかありますね。なんだろう?

庚申信仰は、60日ごとの庚申の日の夜に眠っている人の体から三尸の虫が脱け出て、その人の罪を天帝に報告するという道教の思想からきたとされています。人々は庚申の夜には儀式や宴会をしてすごしました。この庚申塔は延享3年(1746)の造立です。

黒目川に架けた昔の中橋(すぐ左の橋)、曲橋(ひとつ下流)、落葉橋(ひとつ上流)の三つの石橋を作った時の石橋供養塔で、明治23年(1890)に造立されたものです。前に並べられた三個の石は力石とよばれ、かつて小山村の若者たちの力くらべに使われたものです。古老の話では、この重い石をもって坂を登って競争したとも言われています。一番右の大きな石には45貫(約169kg)と、その重さが刻まれています。

このような説明書きがありますね。

馬の供養や無病息災、交通安全を願って天保9年(1838)に造られた馬頭観音塔です。もとは旧下里村の秩父道(所沢街道)沿いにあったものです。左側面に「東いたはし五里、西八わうし五里、江戸四つ谷五里、北川ご絵五里」と刻まれていることから、五里五里馬頭と呼ばれて親しまれています。

ありました、ありました。七福神がここにいらっしゃいました。

文禄元年(1592年)に、ここ小山を治めていた地頭矢部藤九郎という方のお墓だそうです。さぁ、この近くには神社があるそうなので、次はそこへ行って見ましょう。

                               つづく