しばらく行くと、
しんやま親水広場という場所に到着しました。
ちょうど桜が満開になり始めた時期です。
きれいな木橋が架かっています。
石伝いにでも渡れるのかな?
おやっ、大きな鳥が立っています。
また、橋がありました。
ここは老人介護施設だそうです。それじゃ、今度は別の場所に行って見よう。
ここも桜並木が続いています。
これは、紅梅かな?
つづく
しばらく行くと、
しんやま親水広場という場所に到着しました。
ちょうど桜が満開になり始めた時期です。
きれいな木橋が架かっています。
石伝いにでも渡れるのかな?
おやっ、大きな鳥が立っています。
また、橋がありました。
ここは老人介護施設だそうです。それじゃ、今度は別の場所に行って見よう。
ここも桜並木が続いています。
これは、紅梅かな?
つづく
いきなり到着したのは、ここ下里氷川神社という神社です。
こんな由緒がありました。
可愛い子獅子がいたので、
これが本殿になります。素朴な造りになっていますね。ところが、
なかなかの彫り物もありますよ。
これだけ多くの末社もあります。
大きなケヤキの木もあります。ご神木かな?
不動明王像でしょうか、それでは次へと行きましょうか
傍には、こんなきれいな川が流れていました。
つづく
いきなり到着したのは、ここ下里氷川神社という神社です。
こんな由緒がありました。
可愛い子獅子がいたので、
これが本殿になります。素朴な造りになっていますね。ところが、
なかなかの彫り物もありますよ。
これだけ多くの末社もあります。
大きなケヤキの木もあります。ご神木かな?
不動明王像でしょうか、それでは次へと行きましょうか
傍には、こんなきれいな川が流れていました。
つづく
きれいなスイレンの花を見て、満足しながらもう少し周りを見て見ましょう。
猫ちゃんが、見送ってくれました。
おっと、肝心なものを見落とすところでした。ここの館の由来の碑です。ところで、この難波田氏館とはどういう場所なのでしょう。
難波田城というお城があり、富士見市東部の荒川と新河岸川の間の土手にあった、武蔵七党の村山党の流れを組む難波田氏の居城だったのですね。鎌倉時代に、村山党の金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われています。主家は、扇谷上杉氏とされ、主家の没落とともに上田朝直の上田周防守左近の知行地となり、支城として縄張りを広げ城郭を改築していったとされる。しかし、永禄年間初頭には北条氏の家臣が河越城衆として難波田城を攻撃したことを晩年に作成した覚書(「清水正花武功覚書」)に記しており、難波田周辺に所領を持っていた太田資正が北条氏と争った時期に難波田城を支配していたと考えられている。その後、大田資正が岩付城を追われたことで難波田城も北条方に戻っている。小田原城の落城と共に廃城となった。現在城跡は市の発掘調査後に「難波田城公園」として整備されていて、市教育委員会の発掘調査によると古図とほぼ同様に三重の堀と本郭を中心に郭が同心円状に配置され、建物跡や倉庫跡が発掘された、とありました。
少し行くと、稲の穂が干してあり、お米も作っているようでした。
今度は、お寺に到着です。
曹洞宗の興禅寺というお寺でした。川龍山と号します。興禅寺は、明庵(寛永2年1625年寂)が開山、かつては光禅寺と号していたといいます。富士見市はこれで終わりにします。さて、次はどこに行きましょうか、
つづく